才能として捉える

 

物忘れが激しい。これはもう、老化というよりも、もともとそうだった、と思う方が良さそうだと最近は思っている。

 

今日も、ぬかどこにアボカド(ウマいらしいのだ)を漬けていたのを忘れて、なにやらぬかみそと違う手ごたえがあるなと思って、ややアボカドを潰してしまったほどには物忘れが激しい。

 

ちなみに、「アボカドのぬか漬け」のお味は個人的には「びみょー」であった。結局、大根とかカブとかがウマかったりする。

 

こういう「一見ネガティブに見えること」を、どれだけフラットに、あるいは前向きに捉えられるか、で、人生の生きやすさはだいぶん変わる。

 

例えば「物忘れが激しい」、「忘れっぽい」ということは「物事に執着しすぎない」ということだろうし、「嫌なことはすぐに忘れられる」ということにもつながるかもしれない。

 

もちろん、こう書くと「嫌なことは覚えてたりするんす」とかいう人もいる。だとしたら、それは「物忘れが激しい」のではなく「記憶の仕方がヘタ」ということだ。自分が覚えておきたいことを忘れて、覚えておきたくないことを覚えているわけで、単に脳の使い方を間違えているだけかもしれない。

 

「根暗である」というのも、才能として捉えれば「物事を深く探求できる」かもしれないし、「初対面の人との距離を上手に保てる」かもしれない。別に明るく誰とでも仲良くできることが、人生において必ずプラスに働くとは限らない。オードリーの若林さんなどは、『アメトーーク』の「人見知り芸人」で花開いたわけで、何がプラスに作用するかなんてわからない。

 

物事をできるだけフラットに、色眼鏡をかけずに見ようとする努力は、ぼくはした方が良いと思っている。その方が、自分の才能に気付きやすいからだ。

 

「天才とバカは紙一重」ではないけれど、自分では短所だと思っていたものが、他人から見たらとんでもない宝物だった、なんてことは世の中でゴロゴロある。「いやいや、それむしろ前面に出した方が!」みたいなことは、日常的にしょっちゅう起きている。

 

と書いたものの、私自身もそういう傾向がある。これに関しては、実は自分一人でウンウンうなって考えるよりも、人から「こう見えるよ」を聞いた方が断然早い。自分と他人、どちらが自分のことを客観的に見られるかと言えば、圧倒的に他人だろう。自分で自分を客観視するのは、限界がある。

 

そして、人から言われたことを認めて、真摯に受け止めることだ。「いや、そんなはずはない」と突っぱねてみても、通らない。だって、他の人からはそう見えてるんだから。

 

もちろん、言うは易く行うは難し、ではある。でも、人からの意見を一度聞いてみるくらいなら、出来そうではないか。そこから始めてみるのが良いんじゃない?とぼくは思っている。

 

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