緩められると、締められる

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ぼくが尊敬している武道の達人から「緩められるということは、締められるということでもある」という話を聞いた。身体の力みを取り、力を抜いて緩めることが出来れば、逆にいざという時には力を込める、締めることが出来るという話だった。

 

逆に、緩められないということは、身体(例えば手足や肩、足など)に無駄な力が入っているということ。この状態だと、逆に最も大切なところ(曰く、「丹田」と呼ばれる下腹部の一点)に力が入らないのだという。

 

だから、緩められるということは、締められるということでもあり、緩んでいないということは、締まらないということにも通じる、ということである。

 

達人は、故に、いかに身体を緩めることが大切かということを説かれていた。その話を聞いて、なーるほど、と思ってポクポク家へ帰ってきたのだが、帰ってきてから「これは、他のことにも同じように当てはまるのでは」と思い始めた。

 

例えば、組織である。

 

もし、組織が良い感じで「緩まる」ことが出来たなら、恐らくその組織は風通し良く、上司・部下関係なく言いたいことを言い合い、お互いに建設的かつ本質的な意見を出し合える環境になるのではないか。

 

で、時に一大事、いざ鎌倉となれば(別に鎌倉でなくても良いのだけれど、まあ慣用句なのでね)、全員が一丸となって事に当たれるんじゃないだろうか。

 

逆に、枝葉末節にこだわり、本質とはかけ離れたルールや決まり事を守ることや、場の雰囲気に合わせる的なことを求められてしまう組織では、結局的を射た議論も進まないだろう。部下は上司に失望し、上司は部下を無能だと思い込み、結局は誰も得をしないまま、朽ちていってしまうんじゃないかなと思う。

 

が。あいにく、なのか幸いにして、なのか分からないけれど、今のぼくは組織人ではなく気ままなフリーランスをやっている。そのため、この組織論が本当に正しいかどうかを見極める立場にはない。

 

でも、なんとなくそうなんじゃないかな?という感覚はある。

 

話は少しずれるけれど、ぼくは「一丸になる」というのは「全員が同じ意見になる」ということではない、と理解している。人はそれぞれ違っているし、違わないとおかしい。人が違うのに、全員が同意見という方が奇妙だし、気持ちが悪い(あくまで個人的な意見です)。

 

ぼくが思う「一丸になる」というのは、意見の違いこそあれ、最終的な理想に向かって全員が全力を出している状態。それが結果として、全体としていい影響をお互いに及ぼし合っている状態のことじゃないか、と思っている。

 

要するに「多様性を認める」ということだ。実は、「組織」というものはこの多様性と非常に相性が悪い。だいたい、「Aだ!」という方向で話が進んでいるのに「いや、Bじゃないか」というヤツがいると、話が先に進まなくなる。

 

「Bじゃないか」と言ってるヤツを説得するか、無視するか、排除するか。このいずれかを選ばざるを得なくなる。で、大概の組織は無視か排除を選ぶ。それが一番、今の組織においては「効率的」であるとされているからだと、ぼくは推測する。

 

「A」の方向で話が進んでいるとき、「Bじゃないか」というヤツを無視せず、排除せず、そいつの意見を聞きながら「本当にAなのか、それともBなのか、あるいはCなのか」を議論できる組織。こんな組織があったら最強ではなかろうか。

 

そんな組織なんて存在しないよ、と鼻で笑われるだろうか。かもしれん。

 

ともかくも。ぼく個人としては多様性を認められる人間でいたいなと思う。

 

アジフライはタルタルソースでいただきたいところだけれど、しょうゆ派やソース派、塩派、何もかけない原理主義派、そういったもろもろを認められる人間でありたいと切に願っている。

 

レモンだけサッとかけるなんておしゃれさんもいるのか!!と驚愕しつつも。

 

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