小さな違和感を見逃す世界は、たぶん破綻に向かう

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いずい。

 

これを聞いて、「あー、あるよね」とか「これこれこういう状態だよね」と即答できるあなたは北海道民。または、北海道や東北に縁のある人とお見受けする。

 

北海道弁辞典】
いず・い【居辛い】[形] 気持ちが落ち着かない。(体の一部に小物体が触れるなどして)不快である。「目にごみが入ったみたいでいずい。」〈全〉

いずいの意味や使い方 Weblio辞書

 

 あるいは「違和感がある」という表現をしてみても良いかもしれない。「痛い」や「かゆい」とは違う、なんかこう、しっくりこない感じ。

 

道民はだいたい「『いずい』はいずいとしか言いようがない」と言うと思う。

 

北海道弁の話はとりあえずおいとくとして、ぼくが言いたいのは、そういう状態や感覚は大切にした方が良いようですよ、ということだったりする。

 

別にダメではないし、バツでもない。何かこちらに危害が加わるわけでもないし、困ることもない。でも何となく、「いずい」。もしくは、違和感を覚える。こういう時、ぼくらは本能的に何かを感じ取っている。

 

それは、別に目にゴミが入ったからとか、とっくりセーター(って、言うのかね今も)の首がちくちくするとか、そういうフィジカルなこと以外にも言える。

 

なーんかこう、「いずい」。何がと言われると言語化が難しいし、表現したくてもできないのだけれど、いずい。そういう感覚を覚える時、自分の中にある何かのセンサーが反応しているのだな、と察知できるようになっていたい、とぼく自身は思っている。

 

例えば。

 

SNSの誰かの書き込みに「ん?」となったり、テレビのニュースを見ていて「え?」と思ったり。あるいは、仕事をしていて「は?」となってみたり。

 

ひょっとしたら、その瞬間はただ「いずい」だけのことかもしれない。でも、その「いずさ」(という表現が合っているかどうかすら、ぼくにはわからないが)をキャッチできると、何かあった時に素早く反応できる、かもしれない。

 

言い換えれば「きざし」とも言えるかもしれない。

 

それは、ひょっとしたら良いことが起こる「きざし」かもしれないし、悪いことが起こる「きざし」かもしれない。いずれにせよ、たぶん、今の延長線上ではないことが起ころうとしている時にはある種の「いずさ」が発生するのではないかとぼくは思っている。

 

その「いずさ」、あるいは「きざし」をどれだけキャッチできるか。

 

ぼくは比較的、この「いずさ」に鈍感な方だと自覚している。

 

さらに。なんかおかしい、なんか違うと思っても、「まあ、そんなもんか」と流してしまういい加減さもある。でも、時にはその「いずさ」をきちんと見に行って、その根源を知っておく必要があるようにも思う。

 

違和感があるということは、自分の中の物差しと、見えている出来事や風景にギャップがあるということだろう。ということは、そのまま行くと、自分の物差しと違う、言い換えると、自分の価値観に合わない出来事が起きたり、自分の価値観にそぐわない方向に物事が進んだりする可能性がある。

 

ぼくが尊敬するある人は、その「きざし」に気付く力を身に付けよ、という。ぼくもぜひ、身に着けたいと思う。

 

でも、今のところはまだ、それに気付けるほどの察知能力がぼくにはなさそうである。

 

そして、その「いずさ」もしくは「きざし」に気が付いたとして、どう対応するかも大切になるだろう。もしそれが悪い方向に進みそうな「きざし」であるならば、本来ならばストップをかけるべきなんだろうと思う。

 

でも、今のぼくはそれがどうもできていないような気がする。

 

嫌な予感、違和感を覚えながらも、「まあ、いいか」と見過ごした結果、予想通りあんまりよろしくないことが起こる。そんなこともなくはない。

 

「きざし」に気付く察知力と、それを見過ごさないある種の勇気。この両方が必要なんだろうとぼくは思っている。

 

「いずさ」に気付くためには、おそらく感覚を磨くしかない。

 

鼻の下を毛筆(しかも豚の毛でできたやつ)でこちょこちょされて、ついくしゃみが出る人もいれば、全く何も感じない人もいる。くしゃみが出るのが良いとか、そうじゃないとか言いたいのではない。あくまでそれは感覚の違いだ。

 

自分の「いずさ」は何かのセンサーであって、それが自分にとってだけではなくて、みんなにとっても重要かもしれないということを知っておくだけでも、意識は変わる。

 

ものすごく鼻の利く人は(今日の例えは鼻ばっかりだな)、普通の人が気付かない匂いに気が付いて、危機を回避できるかもしれない。ものすごく目の良い人は、遠くから来る災厄を見ることで、みんなをどこかに退避させられるかもしれない。

 

もちろん、それらが杞憂に終わることもあるかもしれない。でも、その「いずさ」のおかげで、大災難から多くの人が逃れられることだってあるかもしれない。

 

とは思う。

 

でも、今のぼくはまだ、自分の「いずさ」に自信を持てないでいるようだ。

 

(これはあくまで例えばの話だけれど)みんなが「こっちだ!」とずんずんずんずんどっこと進もうとしている時に「待て あわてるな これは孔明の罠だ」的な発言をしようもんなら、冷たい目線と「お前は黙っとれ」的無言の圧力を感じてしまうかもしれない、という恐れがある。これは間違いなく、ぼくの中にある。

 

 

もちろん、何か違和感を覚えているのに、それを声に出さないことは責められるべきことかもしれない。でも、受け止める側も準備が必要だろうと思う。

 

いくら「お前は何を言ってるのか」と思ったとしても、話や意見を聞く、そのことで多少物事の進みが遅くなったとしても、不安材料を潰せたことを良しとする、そういう姿勢が必要だろうなとも思う。とても難しいとは思うけれど。

 

要は、お互いの信頼関係、そして「許容」がベースになるんだろうと思う。

 

声をあげる方は、「間違ってたらごめんけど、言うよ!」という気持ちで声を上げる。聞く方は「正直めんどいけど、聞くよ!」という気持ちで聞く。

 

そこで悪い事態が避けられれば「良かったね」だし、何もなかったとしても「言ってくれてありがとね」と言えるかどうか。

 

正直、どちらも自信がない。

 

ぼくが何らかの「いずさ」を感じた時、声を上げられるかどうかも自信がないし、誰かが何かの「いずさ」を感じて声を上げた時、そしてそれが何でもなかった時、舌打ちしないで済ませられるほどの度量の大きさがあるかどうかにも、自信がない。

 

ただ、世界全体がそういう雰囲気であれば良いな、とは思う。

 

人がそれぞれに「いずさ」を伝えあい、可能な限り配慮し合える世界。少数派の「いずさ」を排除するのではなくて、それをも最大限に汲み取れる世界。

 

それが、ぼくが思う「優しい世界」なのかもしれない。

 

「いずい」と「いずさ」が言いたかっただけなのだけれど、話が大きくなってしまった。あと、「あずさ2号」を挟み込むタイミングを見失ったことだけは、当ブログの読者の皆さんにはお伝えしておきたい。

 

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