大局を見る

f:id:abenob2010:20180701102613j:image

 

いい男になりたいなと想っている
というか、
いい男になると決めている

 

ぼくが想う「いい男」とは
別にイケメンだとか、
プレイボーイであるとか、
両肩にギャルを載せて練り歩くとか、
そういうんじゃない。

 

ぼくが想う「いい男」とは
優しくて、強くて
機転が利いて
氣遣いができて。


目の前の人を肯定していて
目の前の人の幸せや可能性を
本人以上に信じていて。


明るくて前向きで
暖かくて
いつも笑顔で
ユーモアがあって。


どんな人も包み込んで
モテていて(笑)
でも大切な人を大切にしていて。


自分の信念を持っていて
柔軟で、機転が利いて
深くて大きな愛のある男。

 

そんな男である。

 

ありがたいことに、
ぼくのまわりには
こんな男たちがたくさんいる。

 

ぼくは、そんな彼らを見て
いつも学ばせてもらっている。

 

時には嫉妬もする(笑)
人間だからね。

 

でも反面、
いい男だなあと素直に想う。

 

そんな男になると決めると
何をすべきで、何をすべきでないか
明確になってくる。

 

いまぼくに必要なことは
自分に集中することと
目の前の人の幸せや可能性を
信じ切ること。

 

そして、大局を見ることだ。

 

目の前のこと、
自分の役割だと信じたことに
集中してしまう。

 

これがぼくのいまであり、
特徴でもある。
でも、そこから抜け出していく。

 

大局を見て、
いま何をすべきかを理解して
そのように動く。

 

時に、目の前の人を
静かに見守ることが
必要なこともある。

 

見放すわけではなく。
離れてしまうのでもなく。

 

相手の幸せや可能性を信じ切り、
静かに見守ること。

 

大丈夫。絶対に大丈夫。

そう、目の前の人に

エールを送りながら。

 

固定概念を手放して人生を楽に楽しく先読みする速読

『楽読』の体験会はこちらから
https://rth.co.jp/access/yaesu/seminar

 

楽読リターンスクール体験会のお申し込みはこちらから

https://ws.formzu.net/fgen/S65367411/

 

流れ


f:id:abenob2010:20180630103243j:image
 

 

当たり前のことなんだけど

「流れに乗る」とは

「自分で決めない」ことではない。

 

むしろ、

「流れに乗る」ためには

「全て自分で決め切る」くらいの

強い意志が必要だと思う。

 

ぼくらには本来、

流れを読む力が備わっている。

 

だけれども、

ぼくらはついつい流れを逃す。

 

常識的にあり得ない、とか

世間体が氣になって、とか

それをするとややこしそうだから、とか

そんな言い訳で。

 

そうして、

自分以外の何かに判断基準を置いて

日々を過ごすようになる。

 

良い、悪いじゃない。

そういう生き方だって、悪くない。

 

でも、

自分の人生を生きているのに

自分以外の何かを

判断基準にしているのは

辛くはないか。つまらなくはないか。

 

ぼくは、ぼくの人生。

あなたは、あなたの人生。

決めるのは、自分しかいない。

 

それがどんなに突拍子もなかろうと

過去に前例がなかろうと

常識的ではなかろうと

世間からは非難されようと。

 

それが流れなら、乗るだけ。

心がそう動くのならば、それに従う。

 

もちろん、その心の動きを無視しても良い。

「そうは言っても」と切り捨てても良い。

 

どちらを選ぶか、決められるのは自分だけ。

 

ぼくは約20年間、

会社の決まり、ルール、

社会常識、顧客の要求、上司の指示、

そういうものを判断基準にして生きてきた。

 

うん。それはそれで得難い経験だったと思う。

だからこそ、会社を辞めて、

流れに乗る、と自分で決めた。

 

この流れが、ぼくをどこに運ぶかは、

いまはまだわからない。

 

どこへたどり着こうと、

この先どうなったにしても。

 

ぼくはぼくで選んだ道を進んだと

胸を張って言いたいなと思っている。

 

だからこそ、流れに乗る。


楽読リターンスクール体験会のお申し込みはこちらから

https://ws.formzu.net/fgen/S65367411/

 

 固定概念を手放して人生を楽に楽しく先読みする速読

『楽読』の体験会はこちらから
https://rth.co.jp/access/yaesu/seminar

自己嫌悪

f:id:abenob2010:20180629184432j:plain



なんかこう、
自己嫌悪に陥るときってのが
あるわけです。ひとなので。

自己嫌悪なんてもんが
屁のツッパリにもならないことは
重々承知の介ではあるんだけれど、

あー、やっちゃったなー、とか
あー、あんなこと言わんかったら、とか
あー、失敗したなー、とか
あー、こんな自分嫌だなー、とかとか
思っちゃうわけです。

そりゃ仕方ない。ひとだから。
問題は、そこからどう抜けるか。

いくら反省しても、
いくら言動を見直しても、
いくら原因を探しに行っても、
いくら対策を考えてみても。

あんまり意味はなくて。

それよりは
どういう自分が好きか
どういう自分でありたいか
どういう状態なら心地良いか

という理想を描いて、それを見る。
これに尽きる。

ちなみに。
この文章を書いているぼくは
いま絶賛自己嫌悪中で、
そこから抜けるためにも
全力で理想を描いている。

自己嫌悪もクセだから、
抜けるまでには時間がかかる。

だから、氣付いたら修正する。
その量稽古を繰り返すだけ
それしかないんだろうなーと思う。

だから、
自己嫌悪したらチャンスなんだ。
そのゾーンから抜けるチャンス。

あーって思ったら、
その瞬間にチャーンス!と思えば良い。
次のステップに進むチャンス到来。
おめでとうって話。

主に自分に言い聞かせてるけど、
ホントそう思う。

だから、うん。
楽しんでいこう。


楽読リターンスクール体験会のお申し込みはこちらから

https://ws.formzu.net/fgen/S65367411/

 

 

 固定概念を手放して人生を楽に楽しく先読みする速読

『楽読』の体験会はこちらから
https://rth.co.jp/access/yaesu/seminar

感情

f:id:abenob2010:20180629075828j:image

 

友だちと話していて、思った。

 

人を好きになったり、
自分が
こうなりたい、こうありたい
と想う氣持ちは
とても尊い。とても。

 

でも、その氣持ちが
「こうでなければならない」、
「こうでないとイヤだ」、
「こうであるべきだ」になると
しんどい。

 

良い、悪いではなくて
ただただ、しんどい。

 

「執着は手放すべき」
というのも
とてもよくわかる。

 

なぜならば、
「失いたくない」
「嫌われたくない」と
思えば思うほど、
「失う」「嫌われる」を引き寄せるから。

 

それが執着。

 

だけど、だからといって
「好きな氣持ちも手放さないと」と
考えると、途端におかしくなる。

 

だって、好きなんだよね?

 

その人のことを想うことが、
自分にとって心地良くて、
氣分が良いんだよね?

 

それなら、その氣持ちは
大切にした方がいい。

 

ぼくはそう思う。

 

ただ、
その人とうまく行かなくても
その願いが報われなくても
それはそれ。

 

「さらに理想の相手が現れる」
「さらに理想の状態になる」
ってことね、と思えばいい。

 

ぼくは、その方が心地良い。

 

わかりやすいから
恋愛を例にとったけど
何事も全てそう。

 

自分が心地良い状態に居続ける。
それこそが、理想に近付く第一歩。

 

楽読リターンスクール体験会の

お申し込みはこちらから

https://ws.formzu.net/fgen/S65367411/

 

 

 固定概念を手放して

人生を楽に楽しく先読みする速読

『楽読』の体験会はこちらから
https://rth.co.jp/access/yaesu/seminar

そのままでいい


f:id:abenob2010:20180627011431j:image

 

「そのままでいい」。

 

ぼくが最近受け取っている、

そして発信しているメッセージは、

これに尽きる。

 

もう一度言う。

「そのままでいい」。

 

あなたはあなたのままでいることが

素晴らしく、

完璧なんだよと心から想う。

 

うん。人には言える。

かつては、自分には言えなかった(笑)

 

でもそれはおかしな話で。

 

自分をこそ「そのままでいい」と

認めていなければ、その空気感、

敢えて言えば波動が、相手に伝わる。

 

そうすると、相手は

「このままの自分じゃダメなのかも」となる。

 

そんなはずはない。

 

ひとはそもそも完璧な存在で、

みんな愛すべき、

愛されるに値する存在である。

 

でなければ、

生まれたてで何もできず、

保護者がいなければ即死亡、

みたいな子どもを、

みんなあんなに寄ってたかって

可愛がるわけがない。

 

そう。そのまま育てばいいのに、

どこかで何かのボタンを掛け違えて、

「そのままではダメだ」と思い込む。

 

そんなバナナ。

もう一度言う。

 

人はみな、そもそも愛すべき存在なのだ。

 

もちろん伸びしろはある。
成長のポイントもある。
欠点もある。

 

腹黒かったり、自分勝手だったり、
わがままだったり、飽きっぽかったり、
短氣だったり、抜けてたり、

忘れっぽかったり。

 

そういう自分が理想でなければ、
理想に近付いていけば良い。

 

それだけのこと。

 

いまがバツ、じゃない。

 

そのままでいい。
さらによくなっていくだけのこと。

 

 

楽読リターンスクール体験会のお申し込みはこちらから

https://ws.formzu.net/fgen/S65367411/

 

 

 固定概念を手放して人生を楽に楽しく先読みする速読

『楽読』の体験会はこちらから
https://rth.co.jp/access/yaesu/seminar

人の役に立ちたいというエゴ


f:id:abenob2010:20180627005323j:image
 

 

バリのアニキこと丸尾孝俊さんは「自分より相手のことが大切だと思ってするのが結婚」と言った。なるほど。

 

ぼくにとって「自分よりも相手のことが大切」とは、「相手の幸せがぼくの幸せであって、相手が幸せになるためにできることは何でもする」という氣持ちのこと。

 

当たり前に見えるかもしれないけれど、ぼくはこれを真剣にやり続けたいと思っている。

 

もちろん、大切な人、好きな人、愛しい異性に対してもそうだけれど、ぼくが大切にしている人出会う人、目の前にいる人には、幸せになってほしい。

 

ぼくの友人が、以下のようなことを書いていた(要旨)。

 

目の前の人を笑顔にしたいのも、究極なことを言えば自分のエゴだ。

 

目の前の人は、今世苦しみを味わいたくて来たのかもしれない。

 

でも、一周回って自分のエゴのために目の前の人を笑顔にしたい。

 

そのために、自分を磨き続ける。

 

ぼくはこの言葉(言い回しは全然違うけれど)を見て、ボエーと響いてしまった。

 

〇どっちに転んでもエゴならば

ぼくはずっと、目の前の人を笑顔にしたり、人に喜んでもらうのは結局、自分がその姿を見たいがためじゃないかと思ってきた。

 

そのことのために、人を利用するのはフェアじゃない、とも思った時期があった。

 

人から頼りにされたり、喜んでもらったり、感謝されたり、ということで自分を埋めるために、他人を利用しているんじゃないか?と自己嫌悪に陥ったり。

 

そう考えると、人に何かをしてあげるとか、愛を贈ることが何かおこがましいような、そんな氣持ちになったりもしたのだ。

 

だけど、もう考えるのはやめにした。

 

どっちにしろ、どう生きたにしろ、ぼくらはエゴの中でしか生きられない。

 

自分で自分を満たすために、みんな生きている。どっちに転んでもエゴだ。人とかかわりあう以上、エゴとエゴとのシーソーゲーム((c)Mr.Children)なわけだ。

 

だとすれば、自分がより氣持ちがいい、氣分が晴れる方を選べばいい。

 

頼りにされたければ、頼りにされる人になれば良い。

 

目の前の人を笑顔にしたいなら、その努力をすればいい。

 

人に何かしてあげたい!と思うなら、したら良い。

 

そう。どう転んでもすべて自分のエゴなんだから。

 

だから、ぼくはそのために、自分を磨き続ける。

誰かのお役に少しでも立つために。

そうして、自分で自分を満たすために。

 

 

楽読リターンスクール体験会のお申し込みはこちらから

https://ws.formzu.net/fgen/S65367411/

 

 

 固定概念を手放して人生を楽に楽しく先読みする速読

『楽読』の体験会はこちらから
https://rth.co.jp/access/yaesu/seminar

シンプル

f:id:abenob2010:20180626225334j:image

 

「めんどくさいひと」をやめる、という記事を書いた。

 

http://abenob2010.hatenablog.com/entry/2018/06/19/111111

 

このあたりの氣持ちは、未だに変わりがない。というより、日に日にその想いを深めている感じがする。

ぼくがいま目指しているのは、ごくごくシンプルな思考だし、あるいは思考ですらない。湧き上がった感情や氣持ちをそのまま出す実験というか、トレーニング。

 

それが、徐々にではあるけれど、できつつあるんだろうなとも思っている。

 

○掴んでた「嫌われたくない」

そういうぼくを長いこと妨げてきたのは「嫌われたくない」という想いだった。仲間やろ好きな人から嫌われたくない、という想い。

 

でも、それは「好かれる」には直結しない。というか、つながらない。

 

じゃあ、好かれるためにはどうしたらいいか。ぼくが衝動的に出した答えは「そのままで良い」だった。

 

いままでのぼくは、何かの役に立ったり、何かをしないと好かれない、嫌われると思い込んできた。ただ、ぼんやりと存在する自分など価値がないと。

 

でも、ぼくが好きな人たちは、ぼくにとって「役に立つひと」ばかりではない。

 

むしろ、ぼくがいま愛してやまないひとは、もはや、そこにいて笑ってくれるだけで良い。むしろ、なにかぼくがそのひとの役に立てるなら、喜んで立ちたいと思う。

 

ということは、そういうことなんだろうな、と思う。

 

○「何者か」になる必要はない

好かれるため、愛されるために「何者か」になろうとするのは、もうやめる。もちろん、長い間で染み付いたクセが抜けるには時間がかかるかもしれないけれど。

 

ぼくはそのままで良い。それで嫌われても良い。それはそれで完璧。ぼくの師匠筋が教えてくれた言葉は「こっちは大好きだよ」だった。

 

相手から嫌われようと何があろうと、こちらの愛は変わらない。そうすれば、ある意味いつでもつながり続けている。

 

自分のことを好きでいてくれるひとを、ぼくはたぶん、嫌いになることはできない。

 

これは男女間のみならず、同性でも同じこと。

 

ぼくは常に、愛を贈る人であろう。

 

 

楽読リターンスクール体験会のお申し込みはこちらから

https://ws.formzu.net/fgen/S65367411/

 

 

 固定概念を手放して人生を楽に楽しく先読みする速読

『楽読』の体験会はこちらから
https://rth.co.jp/access/yaesu/seminar