「強さ」の本質(映画『鬼滅の刃』を見て)
映画『鬼滅の刃 無限列車編』を見た(ちなみに、マンガ全巻も読んだ)。立派な「鬼滅おじさん」と呼ばれるのを承知でこの記事を書いている。もう仕方がない。開き直ろう。
※この先は映画『鬼滅の刃 無限列車編』のネタバレにあたる可能性があるので、気になる方はここで離脱していただいた方が得策かと思われます。
『鬼滅の刃』は、人間を襲う「鬼」に家族を殺され、妹を鬼にされてしまった主人公・竈門炭治郎が、鬼を退治する私設組織「鬼殺隊」に入り、仲間たちや先輩たちと鬼退治を繰り広げる・・・というお話。
時代設定は大正時代。ちなみに本作品では「鬼」は生まれつき鬼ではなく、人間が鬼になってしまう、ということになっております。
で、映画の中盤~終盤。やれやれ、今回のヤマもカタが付いたかね・・・と思った矢先、「鬼殺隊」の中心メンバー=「柱」の一人である煉獄杏寿郎さん(にしてもすごい苗字だ)が、「上弦」という鬼側の序列で言うと上の方のメンバー、猗窩座(あかざ)と相対するシーンに突入する。
自分自身も武の道を究めてきた自負を持つ猗窩座。相対した煉獄さんの強さを即座に見抜き、煉獄さんに「鬼にならないか」とオファーを出します。
<鬼になるメリット3つ>
1)鬼は陽の光を浴びるか、鬼殺隊に首を斬られない限りは死なない
2)死なずにいくらでも鍛え続けられるので、どんどん強くなる
3)煉獄さんが鬼になるなら、煉獄さんは殺さない(≒鬼にならないなら殺す)
どうだ、素晴らしいだろうとばかりの猗窩座氏。それに対して、煉獄さんはそのオファーを断ります。そして、こう言い放ちます。
「強さというものは、肉体にのみ使われる言葉ではない」。
煉獄さんはつおい。ものすごくつおいのですが、当然ながら人間です。血も出るし、骨も折れるし、内臓も痛めつけられればダメージが残る。
一方、猗窩座氏は鬼なので、肉体の修復能力はむちゃくちゃある。腕や足なんぞ切られたところで、一瞬で修復可能。そして、首さえ斬られなければ死ぬこともないというオマケ付き。
まあなんてステキ。鬼サイコー!!!
とはならないのが、煉獄さんの思考回路。それこそがつまりは「強さというものは、肉体にのみ使われる言葉ではない」ということなのです。
これは言わば人間としての尊厳であり、美学であり、誇り。それこそが「強さ」であるということなのです。
煉獄さんは、こうも言います。
「老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく、尊いのだ」。
「強いことこそが正義。勝負に勝てば何でもいい。強くなりさえすれば鬼になってもいい」というのが猗窩座氏の論理だとすれば、煉獄さんの論理は「勝てば良いってもんじゃない。『強い』とは、どう生きて、どう死ぬかだ」ということなのだと私は思います。
まあ、マンガを読み進めていくと、なぜ猗窩座がこう考えるようになったか、という過去が明かされるわけなのですが(個人的にはすごく好きな話)、それはまた置いておくとして。
ついつい人は「強さ」、「お金」、「権力」などなどを求めるし、それを持っていることこそが正義だと思い込んでしまうけれど、本当にそうなのか?と私は問いたいのです。
大切なものを守るためには、「強さ」や「お金」が必要なケースもある。でも、本当に大切なことは「強さ」や「お金」そのものではないんじゃないの?
ということを、この猗窩座と煉獄さんの対話(戦い)は示してるんじゃない?とぼくは思っています。
もちろん。「いやいや、強さこそ正義。鬼にならなかった煉獄さんはアホ」という意見があっても良いし、「いや、このシーンとお金のあるなしとは関係ないっしょ」という意見もあるでしょう。
でも、ぼくはこのシーンに何か、「人が人らしく生きるとはどういうことか」が凝縮されているように思えたのです。何のために生きて、何のために、あるいはどう死ぬのか。これが問われているんじゃないのか、と。
ぼくは正直なところ、『鬼滅の刃』がなぜここまで世間様の支持を集めたのかは理解できていないけれど、この映画、特に煉獄さんと猗窩座の戦いに関しては、そんな風に捉えているのです。
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