一見真逆に見えるけども、実はそうでもないこと

f:id:abenob2010:20170822232950j:plain

 

友だちが「好きなことだけをする罠」について、Facebookで書いていた。すげー分かりやすかったので、パクる(堂々と)。まあ、その友だちも、友だちから聞いたみたいだから、良いだろう(良くはない)。

 

例えば、旅行に行くとする。スゲー楽しみ。でも、荷造りは面倒。だけど、よくよく考えると(考えなくても)、荷造りももはや旅の一部であって、氣付くとワクワクしながら荷造りしてる自分がいたりする。うん。そういうことあるね。

 

 

 もしも富士山に登るならば

あと、登山も例に挙げられるかもしれない。富士山に登る。うむ。登りたいとする。途中までは車で登れる(んだよね?)けど、途中からは当然ながら自分の足で登るしかない。しんどい。空気薄い。山小屋狭い。飲み物高い。とかとか、色々あるはず(登ったことないから、知らないけど)。

 

でも、自分の足で登り切った時に、「あー、良かった」と思うはず。

 

これが例えば、ロープウェーかなんかでひょいひょいっと登ってしまったら、どうだろうか。あるいは、ヘリコプターかなんかで山頂にひょいっと降ろされたら、どうだろう。

 

たぶん、面白くもなんともないだろうと思う。

 

「富士山に登りたい」、「ご来光を拝みたい」という「やりたいこと」、「好きなこと」は、どちらでも達成されている。でも、そこで得られる感情や満足感は、たぶん全然違うんじゃないかなと思う。

 

とは言ったものの、個人的には、あなたがどっちを選んでも構わない。

 

僕個人としては、どうせ富士山に登るのなら、自分で身支度を整えて、自分の足で登りたいなあと思う。それだけのことだ。僕は、その過程にある辛いこと、しんどいこと、キツイことなんかも全部ひっくるめて、味わいだと思う人だからだ。

 

つまり、「楽しいこと」と「しんどいこと」、「つらいこと」、「やりたくないこと」も、一対というか、観方を変えれば、それすらも「楽しいこと」になったりするんじゃないか、と思っている。

 

「優しい人」は「厳しくない人」か

一見全く関係ないようで、実は僕の中で繋がっていることの中に「優しさについて」がある。「優しい人」というと、温和で怒らないというイメージがある。一方で、「厳しい人」もいる。この人は細かいことを指摘してくるし、ミスがあれば注意してくる。

 

では、「優しい人」は「厳しくない人」かと言えば、実は決してそうではない。「優しい人」は時として非常に「厳しい人」になる。

 

そう。「優しい人」は決して「甘い人」でも「ルーズな人」でもない。優しい人は、相手の成長を願い、「さらに良くなるためには、何が必要か」にフォーカスする。そのためには、相手にとって耳が痛い指摘も厭わない。

 

僕らは・・・いや、一人称を拡大しすぎた。少なくとも僕は、この「優しい人」と「甘い人」を長いこと混同してきた節がある。甘かったり、ただただテキトーな先輩を「この人は優しい」と思い、厳しかったり、指摘がキツイ人を「イヤなヤツ」と思って敬遠してきたきらいがある。

 

自分自身も同様で、相手に嫌われないために、あるいは自分が「良い人」であるために、相手にとって必要(と僕が感じる)指摘を避けたり、僕の目からはどう見てもよろしくない方向に相手が行こうとしていても、放置してきた、と感じることもある。

 

この辺は難しいところで、相手の自主性を重んじたい自分もいるし、「いずれ分かる」と思っている部分もある。

 

だから、いますぐに相手の首根っこを引っ掴んで僕の言うことを聞かせよう、というつもりはない。ただ、ご指摘申し上げることくらいはできるかもしれないとは思っている。

 

そんなこんなで、僕がありたいと思うのは

このように、正反対に見えることが、実は表裏一体だったりすることは良くある。そして僕ら、もとい、僕は本質を時々見失いそうになる。僕にとってものすごく嫌なこと、耳の痛いことを言ってくる人は、実はとてつもなく大きな「愛の人」だったりすることもあるのかもしれない。

 

何しろ、基本的に人は、「どうでもいい」他人には、「どうでもいい」対応しかしない。テキトーに「いいね、いいね」と言ってる方が氣楽だし、相手から嫌がられないし、こっちだって負担が少ない。

 

いや、まれにホントに「いいね」しか感想が出てこないケースもあるのだけれど。

 

別に僕だって、相手の揚げ足を取ったり、粗探しをしたいわけではない。基本的には、その人が心地よく、楽しく、快適に生きていってくれれば、それで全く構わない。

 

その上で、その人の人生がさらに、その人にとって心地よく、楽しく、快適で、かつ「生き甲斐のある人生」になれば、さらに良いねと思っている。

 

だからこそ、出会った人たちの人生を応援しつつ、「こうしたら、もっと良くなるんじゃない?」を常に見て、できればそれをお渡しできる人でありたいと思っている。

 

それが、相手にとって耳障りの良い言葉ではなかったとしても。