今の自分を受け止める勇気を持つことについて
「自尊心」と「自意識」の違いについて、最近考えた。例によって、辞書的な意味を調べてみる。
【自尊心】
自分の人格を大切にする氣持ち。また、自分の思想や言動などに自信を持ち、他からの干渉を排除する態度。プライド。(コトバンク/デジタル大辞泉)(1)自分を優秀なものだと思う氣持ち。尊大に構える心。プライド。
(2)自分の品位を保とうとする心。プライド。
(コトバンク/大辞林)
【自意識】
自分自身についての意識。周囲と区別された自分についての意識。自己意識。(コトバンク/デジタル大辞泉)自分自身についての意識。自我意識。自己意識。
なるほど。
「セルフイメージ」と「現実」のギャップ
僕は長いこと、この「自尊心」あるいは「自意識」みたいなものをどう取り扱うかで、だいぶん苦労してきた。
子ども(中学生くらいの頃)は、自尊心がない、つまり、自分は大したもんじゃない、生きている価値がないんじゃないかという問い(というか、どちらかと言えば妄想のようなもの)に取りつかれていた。そういう意味では、自意識過剰ではあったのかもしれない。
高校以降もその意識はあまり変わらず、自分を大切にする、あるいは、「自分が優秀なものだと思う」ことが出来ない人だった。・・・と書いてみて、ちょっと違和感。そうじゃなくて、「自分が思っているセルフイメージよりも、できない自分」がいることを認められなかった、という方がどうも正しいっぽい・・・ということに氣付いた。
僕は子どもの頃から文章を書くのが好きで、小説を読むのが好きで、将来は小説家になりたいと思っていた。んが、小説(のようなもの)を書いても書いても、途中で自分が飽きてしまうことが続き、どうも書き上げることが出来ず。
自分としては、自分が作家になっているのが当たり前なのに現実はそうではなく、同世代(下手すりゃ自分より年下)の人がどんどんデビューして、売れっ子作家になっていくのを見て、暗い氣持ちになっていた。割と最近まで。
そういう意味では、本当の自分、あるいは自分の正当な評価を受け取る自信、心構えができていなかった、ということになるのかもしれない。
自分に対する「妙な」プライドの高さ
なんでこんなことを書き始めたかと言うと。僕はどうやら「自分に対するプライドがやたら高い」ことが、色々な面でハードルというか、課題になっているのだなと氣付き始めた。
自分に対する(妙な、と言ってもよい)プライドが高いから、人から拒絶されることを極端に恐れる。初対面の人と会って話すとき、何か「嫌われるんじゃないか」、「拒絶されるんじゃないか」という恐怖があって、自分や相手の本音に踏み込めない。表面的な会話で済ませてしまう。
で、次に会うときは、実は相手が自分のことを覚えているかどうかで自信がなく、こちらから声をかけて、「どちら様?」という顔をされるのが怖くて、知らないふりをしたりすることも多々あった。ので、向こうからすればイヤなやつだったろうと思う。でも、それもこれも自分を守るための策だったのね、と今にしてみれば思う。
まー、何とも愚策というか、チンケな策ではあったのだけれども。
失敗は成功の母
このところ(ここ1~2年くらいかね)の僕のテーマとして「失敗する」ことがある。正確に言うと、「失敗しても良いから、何かする」ということ。
以前の僕は、失敗するのがイヤで、あるいは、失敗すると自分というものが崩れてしまうような恐怖感があって、失敗できなかった。つまり、チャレンジができなかった。失敗しそうなことはしないし、自分ができそうな範囲のコトでのチャレンジならば、恐る恐るする人だった(それにしたって、ここ最近の話だ)。
で、僕が尊敬しているある人に「君は今まで失敗しない、あるいは失敗しても火傷しない程度のチャレンジはしてきたかもしれない。でも、そろそろもう少し大きなこと、大きなチャレンジをする時期じゃないか」と言われた。言語は違うかもしれないけれど、まあ、そんな内容だったと僕は受け取っている。
当然だけれども、失敗するために、あるいは失敗しようと思って何かをするわけではない。成功すれば、もちろんそれはそれでよし。ただ、たとえ失敗したとしても、その失敗を積み重ねて、前に進んでいく自分になる。僕はどうやら、そのように生きたいと今は願っているらしい。
やってみたことがないことは、最初からうまくいくとは限らない。失敗しないと、上手くならないこともある。その失敗を恐れていては、先に進めない。
そんなことを考えている現在地。ここから、「失敗する自分」を認めていこうと思う。