「氣」を発して生きる人になる、と決めた

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どうも、ゴブサチョフ書記長です(流行らそうと思うんだけど流行らないアレ)。

 

さて、急速に本題に入ろうか。

 

 

なぜかは全く良くわからないのだけれど、なぜか氣になる、興味が湧く対象というのがある。

 

例えば、僕が本田翼に興味を持つのは、たぶん顔とかルックスが好みだからだと想像がつく。しかし、時々、なぜその対象に興味が湧くのか、自分でもよくわからないことがある。これはもう「なんか氣になるんだよね」としか言いようがない領域だったりする。理屈ではない。

 

僕にとっては、最近で言えば惣士郎さんという人が「なんか氣になる人」として挙げられる。いや、もちろん話が面白かったり、深かったりするのはある。でも、それだけなら他のセミナー講師とかにも興味を持ちそうなもんだけれど、そうでもない。他のセミナー講師の講演会やイベントには「行こう!」という氣にそこまでならないけど(とはいえ、興味を持っていくことはある)、惣士郎さんのイベントは「さて、どうやって行こうか?」と、前のめりになっている自分がいる。なんだこれは。

 

何度も言うけれど、これはもはや理屈を超えた話なので、「なんで?」と言われても答えようがない。他の人が惣士郎さんの話を聞いて「面白くなかったよ!」と言ったところで、僕には特に何の影響もない。とにかく、最近の僕は惣士郎さんという人物にとても興味を持っている。

 

そんなわけで、ずいぶん前になるけれど、「『個人を越える』 本当のパートナーシップの築き方」と題したセミナーっちゅうか、講演会ちゅうか、お話会に参加してきたときのことを書く。でも、だいぶ前だから、内容はあやふやになっている。でも書く。

 

全ては「氣」が出ているかどうか、という話

このテーマで、さて、どういう話をし始めるんだろうか・・・と思っていたら、ほぼ「氣」の話しか出てこなかった(笑)。パートナーシップの築き方を聞きに行ったのに、「氣」の話って、と思うかもしれないけれど、これが見事なくらい腑に落ちたのだ。

 

そもそも、人が何かをしようとするときには、たいてい「人氣」が必要になる。売れている商品も、突き詰めて考えれば「人氣がある」ということで、売れてるけど人氣のない商品、なんてのはちょっと考えられない。そして、人氣がある人が何かを始めれば、割とうまく行く。

 

ここで言う「氣」とは、おおざっぱに言えば「エネルギーのようなもの」らしい。氣力、とも言うし、元氣、勇氣、活氣、やる氣、全て氣である。そして、そのいずれもが「出す」という動詞を伴って使われることが多い。

 

・元氣を出す ・勇氣を出す ・やる氣を出す ・活氣が出る・・・。

 

そして、惣士郎さん曰く、人が相対するとき、氣を発している人に、その氣を受けている人が惹かれるという傾向が強いという。これは何となく理解できる。自信満々でやる氣や活氣に満ち溢れている人と、何となく内向的で、エネルギーが外に出ていない人と比べれば、前者の方がより人に与える印象も強いし、ごくごく簡単に言えば「いい感じ」がする。

 

つまり、「氣」が出ている人は「人氣」が出て、自ずとパートナー候補も集まっちゃう、というわけ。ごくごく簡単に言うとそうなんだけど、実はこの話、開始15分くらいで出てきた話だったりする。つまり、そこは本筋じゃない。

 

こういう「氣」を発している人の方が「いい感じ」がする、ということを実感する機会が、この話を聞いた後に立て続けに起きていて「なるほどねー」と思っている。

 

「内氣」を採用していた時代

昔の僕を知っている人は「そうだよね」と同意してくれると思うけれど、僕は元々陰氣かつ内氣な人だった。要するに、「氣」が内に入っていた、あるいは籠っていたのだ。

 

自分に氣(≒エネルギー)がない訳ではないのだけれど、それを表に出してこなかった。それは、まあ過去の自分がそうだったから、というのもあるし、それで変な話「うまく行ってた」から、その態度を採用していたわけだ。

 

内氣で人見知りで、人前に出るのが苦手、人との間に距離を置きたくて、いつも場や状況を冷静に、俯瞰してみている自分。これが昔の僕のスタンスだったし、それである程度自分のプライドやポジションを維持してきた。

 

それが良かったかどうかはわからないし、正直、今となってはどっちでもいい。とにかく、過去はそういう人だったのだ。

 

でも、僕はそのポジションにいることをやめた。理由は「居心地が悪くなったから」。氣を出して生き、過ごす方が、自分にとって心地よいと感じることが増えたからだ。プラス、その方が自分の周りにいる人たちにも良い影響を与えることがわかってきたからだ。

 

ゴキゲン&不機嫌、場の空気を持っていく説

例えば、場に5人の人がいて、4人が普通の状態、1人が不機嫌な状態であったとする。さて、4人はこの不機嫌な1人の影響を受けないだろうか?と考える。

 

逆に、4人が普通で、1人がゴキゲンだったとしたらどうか。たぶん、これもやっぱり影響を受けるんじゃないかと思う。ゴキゲン具合にもよるけれど、残り4人のマインドもご陽気な方に振れるんじゃないかなと感じている。

 

僕は、氣を発して生きることにした。それは、惣士郎さんのセミナーに行く前からなんとなーく自分の中のテーマに挙げていたことだったけれど、このことではっきりと自覚した。僕は、氣を発して生きる人になる、と。

 

氣を発するとはどういうことかと言えば、簡単に言えばエネルギーを外に出して生きるということだ。だからと言って、松岡修造のように常にご陽気、熱さ全開で生きようとは思わない。つうか、マネできないわあんなもん。

 

ただ、氣を発して生きると決めた以上は、自分の氣分が落ちているとか、機嫌が悪いとか、そんなのは関係ない、と思う。この世の中がさらに良くなるとするならば、僕が良い氣を発して生きない理由がなくなる。

 

とはいえ、僕だってまだまだ修行の身である。イラっとすることもあれば、人からの言葉にムッとすることもある。満員電車から降りたらおっさんのリュックが当たって、ヤローっと思うことだってある。聖人君子じゃないんだから、何が起きてもピース、というわけにはいかない。

 

でも。ムッとしたり、イラっとしたときに(もちろん、その場でできないこともある)、ニコッと笑ってみることにしている。口角を上げるだけ、のこともある。ハラワタが煮えくり返りまクリスティのときもある。当然ある。でも、そのことを思い出したときに口角をニッと上げてみる。すると、怒りや苛立ちの感情はあるけれど、緩和される(氣がする)。

 

前にも出てきた「感情が動いたときはチャンス」という言葉と同じように、そこには「さらに良くなる」チャンスがあるわけだ。

 

abenob2010.hatenablog.com

 

自分の理想を見たときに、明るくポップに、ライトに生きていた方がその理想に到達しそうなのか、それとも、陰氣に鬱々としていた方が、理想に近づきやすそうなのか。さあどっち?と言われたら。僕の場合は、明るくポップな方を選びたい、ということだったりもする。

 

もちろん、「陽」の氣もあれば「陰」の氣もある。むしろないはずがない。だから、常にご陽氣にハッピー、ハッピー!!と言ってりゃいい、ってもんでもないんだろうなとも感じる。

 

今の自分に最適な「氣」、その場をどういう「場」にしたいのかを感じて、その場を調える「氣」、自分の現在地を把握して、理想に向かって進んでいくための「氣」。そこには色んな氣があって、シチュエーションによって発揮される(求められる)氣は違うのかもしれない。

 

そして最後に、氣を発して生きていくことを選んだ以上、「ノリが悪いから、今日は氣を出さない」とかはない。でも、当然ぶれたり、迷ったりすることもある。そういう時は相談する。