嫌な自分と向き合う
嫌な自分、カッコ悪い自分、意地の悪い自分、ダサい自分。
そういう自分と向き合うのは、いつもとても大変というか、辛い。
もちろん、「辛い」と書いたからと言って「お、中辛?それとも大辛?」的なスパイシーな話をしたいわけではない。ちなみにぼくは週一インドカレーでも平気なくらいのカレーマンではある。
そしてインドカレーと言えば、ナンにラッシーが鉄板である。そしてある程度は辛い方が好ましい。この間などはバターチキンカレーにチーズナン、というぜいたくな組み合わせを食して大変満足してしまった。私はインドの王族であろうか。
いつものごとく、話が盛大にズレたので戻す。
自分という人間は基本的に素晴らしいと思っているけれど、心のどこかに「嫌な部分」、「好きになれない部分」というのは確実に存在する。
もちろん、そういう部分に目を向けずに生きていくこともできるし、それはそれで構わない。「自分は素晴らしい!」と称賛することが必要なフェーズだってある。そうでないと、必要以上に自分を責めすぎて嫌になってしまう。
一方、健全に(というのが適切かどうかはわからんが)自分の嫌なところ、カッコ悪いところと向き合うことは、ぼくは必要だろうと思っている。
ぼく個人のことで言えば、最近、ぼくは実に傲慢な人間であったのだ、ということに気が付いた。きっかけは色々複合的にあり、コレという理由は言いにくいので省くが、そういうことがあった。
その時ぼくは、とっさに「そんなことはないはずだ」という自己防衛本能を働かせようとしている自分に氣が付いた。お氣付きのことと思うが、これらは全てぼくのアタマの中(あるいは心の中)で起こっている出来事である。
でも、いや、そうではないとぼくは観念した。
ぼくは、心のどこかで傲慢さを持ち、人を一面だけで判断し、目の前の相手を見下すようなことがあったのだ、と氣付いてしまったのである。
これは、けっこう辛い。辛さで言えば、『LEE』の20倍くらい辛い。・・・・・・だから、辛さの話をしているわけではない。ツライのである。
自分が傲慢である、なんてことを積極的に認めたい人は、多分あまり多くないだろう。ぼくはと言えば、ミスター検挙、もといミスター謙虚を地で行くような人間だと自分を認識しているので、余計堪える。
別に謙虚であることが良くて、傲慢なことがいけないとは言わないが、ぼくは謙虚でありたいし、傲慢な人間は好きではない。だからこそ、そのことに氣付いてしまうとダメージが大きい。
でも、そこに向き合わないことには自分を変えることは出来ない。
人の目をごまかすことは出来たとしても、自分のことをごまかすことは出来ない。もちろん、見て見ぬふりをすることはできる。でも、見て見ぬふりをしたところで、一度見えてしまったことはどこかで意識が向く。
そうなれば、ごまかし続けるのは結構苦しい。
だったら、素直に認めて受け入れて、自分が望む方向に意識を向けていく方を、ぼくは選ぶ。
みんなそうすればいい、とは、ぼくは思わない。嫌な自分を認めるということは、なかなかにエネルギーがいるし、何度も言うけれど、大変なことだからだ。
それでも、それでも、だ。
そういう自分もいることすらも認めて、ある意味過去の自分を許して、次のステップに進んでいくことこそを、ぼくは「成長」と呼ぶんじゃないかと思っている。
なにがしかの知識を身に着けるより、何かの資格を得るより。
他の人から見たら、何も変わっていないように見えるかもしれないけれど、その本人は、確実に階段を一段、二段と登っている。そのことについては、断言しても良い。その本人が認めなかったとしても、ぼくが認める。
どういう権限でかは知らないが。
ともかく。少なくとも、ぼくはそういう人間でありたいと思っている。
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