氣付いて認める


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全ては、氣付いて、

認めることから始まるんだなあ、

ということがわかったのです。

 

最近氣がついたのですが、

ぼくは「距離感」みたいなものを

測るのがどうも苦手らしく。

 

物事との距離感、もそうだし、

人との距離感、もそう。

 

 

ぼくはつい、ひととの距離感を

(意識的にか無意識的にかはわからんけど)

近めに取ってしまう傾向にあるっぽい。

 

で、失敗する。

 

近付き過ぎて嫌な思いをしたり、

相手に嫌な思いをさせてしまったり。

 

特に、このひと好きだなあ、

と思ったひとに対して、

そういうことが起きやすい。

 

だから、なのかなんなのか、

近付き過ぎた!と思うと、

今度は大幅過ぎるくらい大幅に

距離を取ろうとする傾向にある。

 

何なら、こないだまで好きだったのに、

急に嫌いだと言い出すほどに。

 

そうすると、当然のことながら

関係性は徐々に薄れていく。

 

あるいは、何となく変な空気が

お互いの間に流れ始める。

 

そりゃそうだよね。

 

話は脱線するのですけれど。

 

宇宙ってすごくないですか。

 

惑星同士は適切な距離を保って、

干渉しあわず、衝突もせず、

運行し続けている。

 

ぼくには、あれが今のところ

上手にできないのです。

 

このひと好きだなあ、と思って

近付き過ぎた後、

振り子のように逆に振れて、

盛大に距離を取ろうとする。

 

このひと嫌い、とか

腹立つ、とか、

ココが氣に食わないとか

思ったりする。

 

そんなことを繰り返し続けている。

 

 

でも、氣が付いたのです。


嫌いだな、腹立つな、苦手だなと

思ってるのは、なんでか。

 

それは、実はすごくそのひとに対して

関心があったり、愛情があったり、

期待しているからなんだな、と。

 

そのことに氣付いて、認められたのです。

 

そしたら、少し楽になった氣がしたのです。

 

だから何だ、と思うかもしれないけれど。

 

もし、あなたが誰かを見て、

腹立つなとか、嫌だなとか、

ああいうのは好きじゃないと思うとき。

 

ただ単に「嫌い」なだけじゃなくて、

その裏側には、あなたが見たい相手の姿、

ってのがあるからかもよ、と

言いたいのです。

 

そして、それも良いじゃない。

 

認めましょうよ。

 

相手に「こうあってほしい」と思う

あなたの(あるいはぼくの)氣持ちは

決して悪いものではないし、

封じ込めなくてはいけないものではない

とぼくは思うのです。

 

ぼくはあなたにこういうひとであってほしい、

というのは、期待である。希望である。

 

ぼくの勝手な願望である。

 

それもまたよし。

 

それだけ相手に興味や関心や

愛情があるってことなんだから。

 

認めよう。

 

そこを認められたら、

相手と自分とのちょうどいい距離感を

見極められるかもしれないなあ、

なんてことを考えています。

 

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