「手放すこと」について考えた
ごくごく最近、ふわっと思いついたことで、自分で考えてみたり、アウトプットしてみたりして、改めてしっくりきたので、整理のためにブログにしてみる。
皆さんが読んでみてどう思うか、どう感じるかの感想などいただけると、ぼくとしてはとても参考になるし、ありがたい。
ひょっとすると、「それ、前にぼくが(私が)言ったやつ」と思うこともあるだろうけれど、そのあたりは大目に見るのが大人というもんである(開き直り)。
○目の前のことに集中して、結果を手放す
「目の前のことに集中して、結果を手放す」ことを意識している。
例えば、ぼくの友人・Aくんが、ぼくから見ると好ましくない言動を採っている。そっちの方に行くと、(ここも実はポイントだったりするのだけれど)ぼくとしては、あまり好ましい感じじゃないな・・・という方に進んでいるとする。
そのとき、ぼくが採れる策はいくつかある。
・何も口出しせず、Aくんの好きなようにさせる。
・Aくんに、軌道修正するように説得をする。
・Aくんに、感じていることを伝えるだけ伝える。
で。ぼくが思う「結果を手放す」とは、ぼくがAくんに今自分が感じていることを伝えた結果、彼の行動が変わっても、変わらなくても構わないと認めること。
ぼくとしては、ひょっとするとモヤモヤが残るかも知れないけれど、彼は彼にとって最善の選択をしたんだなと納得する。
つまり、結果がどうなったとしてもオッケー。それがぼくの思う「手放す」だ。
営業やセールスで例えると、もう少しわかりやすいかもしれない。
目の前の人に、自分が売っている商品やサービスの説明をする。そのとき、相手が買おうと買うまいと、実はぼくは「どちらでもいい」。それを決めるのは相手であって、ぼくではない。ただ、相手が最善の判断をするための情報提供だけはする。
ポイントは「目の前のことに集中する」、言い換えると「目の前の人の幸せを100%信じる」ということだ。
○目の前のことを疎かにしない
一例目で言えば、Aくんがぼくの意見を受け入れて、軌道修正してくれる方が嬉しい。でも、彼にとってぼくの意見を受け入れることが幸せでないのならば、それを選ばないことが完璧である。
二例目で言うと、ぼくは相手が商品を買ってくれれば嬉しい。でも、相手が「要らない」という判断をしても別にかまわない。それが相手にとって最善の選択なのだから。
たぶん(あるいはぼくの場合)、短期的な結果を握り過ぎると目の前のことが疎かになる傾向にある。
Aくんの考えを変えねば!と思うと、目の前のAくんをありのまま受け止めることが出来なくなる。いまのAくんはダメだ!と考えてしまう。
二例目もそうで、「この人に買ってもらおう」が強くなると、相手が本当に何を求めているのかがわからなくなる。
いずれのケースも、あるいはどんな場合でも、目の前の相手を疎かにした時点で、本来ならうまく行くことすらうまく行かなくなる。だから、結果を一旦手放す。
そうすると、結果はどっちに転んでも構わないわけで、目の前の相手の幸せを一緒に見に行ける。その人が望むこと、その人の理想に近付くためのお手伝いを100%考えられる。
じゃあ、Aくんがぼくの好ましくない道に進んで仲違いすることになっても、あるいは商品が売れなくて売上が上がらなくても良いのか?と思う人もいるだろう。それは全く違う。
ぼくは究極「全てうまく行く」ことを決めている。だから、うまく行く。途中、Aくんがロクでもない道へ進んだとしても、結果的に彼は幸せになるし、ぼくとの絆も途切れることはない。いま、プレゼンをした人が商品を買わないとしても、売上は必ず上がる。
そう決めているから、必ずそうなる。どうやって?そんなことは知らん。プロセス無視である。こうしていると、ぼくとしてはとても氣分がいい。ここ、とても重要である。
ガリガリ頑張って結果・成果を出すのも良いし、そういうステップを踏むことも大切かもしれない。でも、そうじゃないルートもあるんちゃうか?という、まさに人体実験の一環である。
もちろん、手放すのがしんどかったり、辛かったりする結果もある。その結果がどーしてもほしい、どうしても出したいってことだってある。人間だもの(リスペクト)。
でも、特に人間関係の場合、それが本当に目の前の人の幸せにつながっているかどうか。という視点に立って考えたいとぼくは思っている。
ただ、それが最終的には理想通り、あるいは思い描いていた理想をはるかに超える結果につながったりする。
目の前の小さな結果は手放しつつ、大きな結果は決め続ける。と考えると、『すずめのお宿』というのは、そんな寓意が含まれてるのかもねと感じたりもする(違うか)。
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