あいについて考えた(リターンズ)
Facebookで友人とコメントのやり取りをする中で、ぼくはこんなことを書いた。
「ぼくは理解し合うことこそが愛で、善だと想ってたんだけど、そうとは限らないよね」
そう。以前のぼくはお互いのことを「理解し合う」上に愛があると思っていたけれど、最近はそうでもないと思っている。
これは別に、男女に関することだけではない。親子関係や、友人同士にも成立する話だ。
相手のことを理解できなくても、共感できなくても、ただ相手のことを知って、認めるだけで愛は成立する。
ものすごく厳しいというか、冷たく聞こえるかもしれないけれど、人と人とが100パーセント理解し合えるなんてことは、実はあり得ないんじゃないかとぼくは思っている。
そして、そのことはぼくらにとって、むしろ喜ばしいことかもしれないとすら思っている。
○理解し合えなくて当たり前
人と人は、理解し合おうとする。相手のことをよく理解しようとする。それはそれで、とても素晴らしいことだ。
ただ、「どんな人とでも、100パーセント理解し得る」と思った瞬間、100パーセント理解し得ないことにバツが付く。
「どうしてわかりあえないんだろう!?」と考え出す。そして、相手か、あるいは自分を責めてしまうかもしれない。
「理解してくれない相手が悪い」か「理解できない自分が悪い」か。
でも、実はどちらでもないとぼくは思う。
ぼくらは、この世で「個」を味わっている。味わいに来ていると言っても良い。
ぼくが浪人時代、「『孤独』には、反対語がない。なぜなら、人間にとって孤独ではない状態は存在しないから」という話を聞いて、ボエーと響いたのを未だに覚えている。
そう。人間は実は常に一人だし、孤独なんである。(たとえ双子であっても)一人で生まれて、一人で死んでいく。
これは決して切ないとか、辛いとか、そういう意味で言っているわけではない。ただただ、そういうもんだ、ということ。少なくとも、ぼくはそう思っている。
血のつながりがある親子ですら、お互いに何を考えているのかなんてわからない。親の心子知らずだし、子の氣持ちを親が手に取るようにわかるとも思えない。
ひょっとすると、乳幼児期はテレパシー的なものでつながってるのかもしれないけれど、ある程度成長すると、そこまでの精度で相手のことがわかるなんてことはないとぼくは感じている。
○100%があり得ないからこそ、続いていく
いわんや他人をや、である。お互いのことを100パーセント理解し合える可能性は極めて低いと思う。でも、しつこいようだけれど、それは決して悪いことじゃない。
「こりゃちょっと、ぼくにはよく理解できないな」と思うことがある。そんなときは、そのままの相手を知って、許容することこそが愛なんじゃないか。
ぼくの理解が追いつかなかったり、理解の範疇を超えている相手を目の前にしたとき、「なるほど、君はそういう考え方、感じ方をするんだね」と、丸ごと認める。それはそれで、大きな愛情だと思う。
そう考えると、少し氣が楽になる。理解しよう、理解し合わねばという強迫観念から離れて、「理解できないもんは理解できない」と認める。その上で、つながり続ける。
自分のことを100%理解してもらおうと頑張る必要もないし、相手のことを100%理解しようとする努力もいらない。理解できる範囲で理解する。その上で、相手のことをあるがままに認める。それだけのこと。
こう考えると、「理解し得ないこと」、「理解し合えないこと」が悪いことではなくなる。むしろ、相手と1パーセントでもより多く、より深く理解し合えたとき、それこそがとてつもなく大きな喜びになるはずだ。
100パーセントの相互理解があり得ないからこそ、お互いにお互いのことをより良く、深く理解しよう、理解したいと思う。
言い換えると、その探究心に終わりはない。特に、お互いに「分かり合えるかもしれない」あるいは「この人のことを理解したい」という希望が生まれた相手とは。そういう関係はとても貴重だ。
だから、友人や仲間、家族、恋人に「わかってもらえない」、あるいは「わかりあえない」と自分や相手を責める必要はない、とぼくは思う。
ただ、お互いに「わかろうとしている」という共通認識だけは、時々確認したらいい。
理解し合おうと思うことも愛だし、理解できなくても相手をありのままに認めるのも愛。
ぼくはそんな風に考えている。
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