素直に生きることと、自力と他力の話(なってるかなってないかは別としてパート2)

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東南アジアかと見せかけて、茅ケ崎で食べたラクサ

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さて。かつての僕の人生における基本姿勢を箇条書きにすると、下記のようになると思う。

・「斜に構える」
・「疑ってかかる」
・「自力で何とかする」
・「傷つきたくない」
・「失敗したくない」

エトセトラ、エトセトラ。

 

なぜこうなったかと言うと、正直よくわからない(笑)。ただ、自分はタダモノではない、ナニモノかだという根拠のない(そして、中二病っぽい)思い込みに囚われていたんだと思う。

 

今にして思えば、「タダモノではない、ナニモノか」であることは間違いないのだけれど、それを自分の中だけで育て、世に放とうとしていたのかなぁ、とは思う。

 

 

他力本願の本当の意味(意訳あり)

まさに「自力で何とかしようとしてた」わけだ。

 

このあたりはバランスで、他人に頼ってばかりというのも困るけれど、自分の力だけで何とかする!というのもまた、行き過ぎると行き詰まる。

 

ちょっと脱線しますが、「他力本願」って言葉。あれって「他人の力を頼る」ってこととは違うらしいんすよ。

 

1 《他力(阿弥陀仏)の本願の意》仏語。自らの修行の功徳によって悟りを得るのでなく、阿弥陀仏の本願によって救済されること。浄土教の言葉。
2 《誤用が定着したものか》俗に、自分の努力でするのではなく、他人がしてくれることに期待をかけること。人まかせ。
コトバンクデジタル大辞泉

 

他力とは自己を超えた絶対的な仏の慈悲(じひ)の力(働き)、本願とは一切衆生(いっさいしゅじょう)の救済を約束する仏の願いをさす。他力本願と熟字するときは、他力である本願ということで、他力がすなわち本願(力)である。このことばは真宗の教えを示す重要な基本用語として用いられるが、本願他力というのが一般である。親鸞(しんらん)は「他力とは本願力なり」と規定し、一切衆生の救済はこれによって成立することを明らかにした。現今、なにも努力しないで他人の力に頼ることを他力本願といっている場合がみられるが、これはまったく誤用である。
コトバンク日本大百科全書(ニッポニカ)) 


要するに「本願」とは、みんながみんな、ごそっと成仏しようぜ(意訳)ということで、それを実現するのが他力=阿弥陀仏の力だよと。つまり、「他力」とは「仏の力」であり、ある意味「カミハカライ」であると(仏だけどさ)。

 

自力と他力と部屋とワイシャツと私

以前も書いたかもしれないけれど、自分一人の力なんてものはタカが知れている。スティーブ・ジョブスだって、たった一人でMaciPhoneを世界中に広められたわけじゃない。エジソンは、お母さんから自由な環境を与えてもらったことで、その天才性を育んだと言われている。ソクラテスの思想は、プラトンがいなければ後世に残されることはなかった。

 

もう一度言う。人間が一人でできることなんて、タカが知れているんである。そのことに、かつての僕は全く氣が付いていなかった。いや、氣が付かないふりをしていたのかもしれない。

 

僕は「タダモノではない、ナニモノか」であって、その僕は誰の力も借りずに、一人の力で何かを成し遂げられるはずだ、と思い込んでいた氣がする。あるいは、思い込もうとしていた。

 

それが、今の僕の表現では「素直じゃなかった」ということになる。僕がやりたいこと、理想を実現するためには、人の力を借りることが必要だった。ならば、素直に人の力を借りれば良い。なのに、僕は頑なに「ひとの力を借りるのは嫌だ!」と自力だけで戦おうとしていた。いや、戦うふりをしてきた。

 

そもそも、他力(ここで言うのは、自分以外の人の力のこと)によって生まれて、育ってきたっていうのに、それを否定して、自分一人で何とかしようとしてたわけで、そんなもん、戦いですらない。今の僕に言わせれば、砂場遊びだ。

 

自分だけでは何もできないことを素直に認める。相手の方が優れている点は素直に受け入れる。そして、頼りにする、任せる。かつての僕は、それが出来なかった。

 

特に、自分が自信を持っている分野に関しては。だから、「小説家になる!」という理想を持っていた僕は、小説を読むときに自然と「批評」の目で見ていた、と今は思う。「おもしれー!!」、「これはスゴイ」と素直に感じ切っていたか?と思うと、ちょっとわからない。自信はない。

 

今も、それが100%やり切れているかと言われると、わからない。でも、そういう自分を客観的にみられるくらいの自分にはなってきた、と思う。

 

 

だから、失敗しても素直に認められるし、そこからどうすればさらに良くなるか?を考えられる。失敗が怖くて、失敗をしないように生きていれば、ひょっとしたら失敗はしなくて済むかもしれない。でも、そこからの飛躍や成長はない。もし失敗しても、素直にそれを認められなければ、そこから学べることは少ない。

 

今の僕は、そんなことを考えている。

 

えーと。前回のブログの続きになっているかどうかは正直分からないけれども、まあ、これはこれで良いかという氣がしています。