「順番」と「選択」を巡るめんどくさい話

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〇まずは改めてごあいさつ

どうも。あなたの想いを文章にして遺す、ライターの「あべのぶお」です。

 

そんなわけで(どんなわけかはぼくも知らない)、当ブログは当面、ぼくの想いを遺す場所として使っていきたいと思います。

 

今後、何かまた別の展開になったら、その時はまたお知らせしますね。

 

というわけで、早速本題に入る。

 

○やるべきことと、順番と

反省をこめて書くけれど、物事には「やるべきこと」をやることと、それをどういう順番でやるかの両方が大切だ、と思う。

 

例えば。

 

何か大切なこと、多くの人に影響を与えることを決めなくてはならなくなった、とする。もちろん、色々決めなければならない。もちろん大変だし、負担も大きいし、心理的なハードルも高い。

 

でも、この場合は決める前に「こうなりそうです」とか「いついつまでには決める予定です」とか、関係者への事前アナウンスってのも必要だろう。

 

これはあくまで例えだけれど、何を、どういう順番で、どのように進めていくかは、人生においてとても大切だ。特に、自分以外の人が絡む場合には特に。その人たちの利害関係が絡む場合には、さらに特に。

 

でもまあ、自戒を込めて書くけれど、これがワケわからなくなっちゃうことってのは、良くある。

 

それで、後から「あ、こっち先だった」とか「あれは先に言うんじゃなかったな」とか、思うこともある。でもまあ、それは仕方がない。やっちまったんだもの。

 

というわけで、何をするか、どういう順番で進めるかは、人生の一大事なんだとぼくは思う。

 

こちらには悪気は全くなかったのに、その順番を間違えただけで物事や事態がややこしくなったり、めんどくさいことになる、ってこともある。

 

ま、もちろんそれはそれで完璧で、そうなるべくしてそうなっているし、そうなることによる学びってのもある。

 

ただ、必要なのは「そこから何を学ぶか」ってこと。

 

「起きてることは全て完璧」というのは、ぼくの解釈で言えば「そこから学びを得られるから」であって、「失敗から学ばずに、ほったらかしにして良い」ということではない。

 

失敗したなと思ったら、分析して、次善の策を考えて、次の手を打つ。そうするからこそ、「起きてることは全て完璧」になる、と思っている。

 

○話は急速に方向を変えつつ前に進む

ぼくらの人生は、選択の積み重ねで出来上がっている。

 

うむ。急に別の話をし始めたと思うかもしれないけれど、ちょっと聞いてほしい。

 

ぼくらは、常に選択をし続けて生きている。

 

ひょっとすると、あなたは「自分は何も選択してない」と反論するかもしれないけれど、「選択しない」ことを「選択している」以上、選択していることに変わりはない。

 

ああ、こういう七面倒な文章を止めたいと思いつつ、そういう文章をこよなく愛するぼくもいる。そしてぼくは、結果こうして七面倒な文章を書き記すことにする。これも選択だ。

 

で。

 

ぼくらの人生と「選択」が分かちがたく結びついている以上、ぼくらは何かを選ばずにはいられないという宿命にある。こりゃもう、あきらめた方が良い。で、選択する以上、「質の高い選択」をするときと、そうではない選択をする時がある。あって当たり前だ。

 

つまり、順番を間違えるってことは「質の低い選択」をしたということになる。むろん、そのことに気付くこともあれば、気付かないこともある。

 

ただ、その選択がどうだったのか?を、振り返って分析すること、言い換えればフィードバックをかけることはできる。

 

選択の結果にはフィードバックはかけられないけれど、選択そのものに対しては常にフィードバックがかけられる、とぼくは思っている。

 

〇マズいラーメンはウマくならない

再び例えば。

 

ラーメンを食べるか、カレーを食べるか迷った挙句、ラーメンを選択したとする。

 

が、そのラーメンがマズかった場合、このラーメンそのものをどうにかすることは、極めて難しい。

 

残して別なものを食べるか、あきらめて食べるか、あきらめて食べないか、くらいしかない。

 

ただ、「あの時、どういう選択をするのがベストだったのか?」とフィードバックをかけることはできる。

 

ラーメンではなくカレーを選ぶべきだったのか、とか、ラーメンは良いとして、A店ではなくB店にすべきだったのか?とか。

 

はたまた、A店は良いが、醤油ではなく味噌を選ぶべきだったのか・・・とかとか。

 

でも、ぼくらはついつい、ラーメンの方をどうにかしようとしてしまうことがある。

 

マズいラーメンは、どこまで行ってもマズいラーメンだ。「起きてることは全て完璧」だとしても、マズいもんはマズい。

 

そして、マズいラーメンのことをいくら「マズかった」と言っても、そのラーメンがウマくなるわけがない。

 

こんな当たり前と思えることでも、ぼくらは人生において、同じようなことをしてしまってはいないか。

 

マズいラーメンに当たってしまって「あんなにマズかった」、「どうして私はマズいラーメンを食べなければならないのか」と言い続ける。

 

そんな経験はないだろうか。

 

白状しよう。ぼくはある。

むしろ、未だにそうかもしれない。

 

もう一度言う。マズいラーメンを何度嘆き、悲しみ、後悔しようとも、マズいラーメンはマズいままだし、ウマくなることはない。

 

〇フィードバックで起こる出来事は変わる

 

ぼくらがここで為すべきは、次回選択の機会が訪れた場合に「A店には行かない」、「A店ではチャーハンを頼むべき」という、選択へのフィードバックである。

 

何をどういう順番でどうするか?を間違えたなと思ったときは、自分がなぜ、そういう選択をしたのかを振り返るべきなんだろう。

 

その上で、「じゃあ、どういう選択がさらに良かったのか?」と考えてみることなんだろう。

 

そうすることで、次回からは起きる現象は変わる。

 

マズいラーメンを回避できる可能性は高くなるし、自分が満足いく選択ができるチャンスが広がるはずなのだ。

 

「何をするか」の選択なのか、「どういう順番でやるのか」の選択なのか。自分が望まない結果や現象が起きているときは、きっとそのどちらかの選択を失敗している。

 

しつこいようだが、失敗していい。

 

マズいラーメンを食べることだって、人生にとっては必要な場合もある。ただ、それをいつまでも「マズかった」と言い続けるのも、その選択を振り返ってフィードバックをかけないのも、次には繋がらない。

 

次に何を選択するかを吟味できてこそ、失敗した意味がある。はずだ。

 

どっちがどうだったら良かったんだろう?と振り返るだけの、余裕と柔軟性のある大人に、ぼくはなりたい。

 

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