足さないことの価値
■「何も足さない、何も引かない」
これはサントリーのウイスキー「山崎」のコピーですが、まあ、これって王道だよね、と思うのです。
特に、「足さないこと」の価値。
例えば、飲み物を買うとき。子どもの頃は、「出来るだけたくさん入ってる」、「出来るだけ甘い」みたいなことを判断基準にしていました。
だから、お茶を買うとか意味が分からなかったし、ましてや水など!水を買うくらいなら、その辺の公園で水を飲めば良いじゃない!と思ってました。
しかし、今はすっかり変わりまして。今は、出来るだけ何も入ってないものが良い。最近は水に味が付けてあるヤツとかありますが、個人的にはノーサンキュー。コーヒーも、砂糖やミルクは要らない派です。
■「足さない」勇気
「足さない」というのは、結構勇気がいることだと思います。ついつい、何か足したくなる。
Webや雑誌のデザインを見ていても、「足さないこと」を徹底するのは難しい。白を基調にして、サッパリしたデザインにできればカッコイイ、とは思いつつも、言いたいことや伝えたいことを積み重ねていくと、それがそうもいかないようで。
実は言葉も同じでして。
本当に伝えたいことを、スパッと短いセンテンスで表現出来さえすれば、それ以上何も足す必要は、本来はないのです。
ところが、そうカンタンには問屋が卸さない。この表現では、こういう風にとられるのでは、こう受け取る人がいるかもしれない、こういう誤解をされると困る・・・てな具合に、色々足したくなる。
そうでなくても、伝わるかどうかが心配で、二の句三の句を継いでしまうこともある。
■言わなくても伝わるもの
こんな無駄の極致みたいなブログを書いておいて何を言うか、と思われるかもしれませんが、本当に言いたいことが伝わるのならば、言葉は必要ないのかもしれませぬ。
例えば、映画。色々あった二人の男女が、ただ見つめ合う。それだけでも、伝わるものはあるのです。
他にもきっとあるのでしょうが、最近、僕がそれを感じたのは『ローグ・ワン』のエンディングシーン。あの先、どうなるかは(2つの意味で)分かっている。でも、敢えてお互い何も言わない。
脚本家の立場から言えば、「何も言わせない」。でも、受け手には様々なことが伝わる。
表現する上では、これが最上なのかもなぁ、と思ったり。なのに、自分が何かをする時には、ついつい盛ったり、付け加えたり。
■てなことを考えたきっかけは
実は、白湯を飲み始めたから、だったりします。パイタンではありません(某方から拝借したネタ)。
白湯。要は単なるお湯ですが、コレがまあ、コレっていう味は当然ながら、ない。でも、味の違いは確実にある。家にある良い水を沸かしたのと、会社で飲む水道水を沸かしたヤツでは、味が違う。
そして、白湯を飲み慣れてくると、コーヒーやお茶の味の感じ方も変わる。たぶん、「何が足されているか」に敏感になるのではないか?というのが、僕の予想なんですけども。
ともかく。出来るだけ言葉も、他のいろいろなことも研ぎ澄ませて、足さずに伝える極意を体得したいなぁと思う今日この頃。
と、これだけの分量を書いといて言うことじゃないのだけれど。