イベントと「無財の七施」について

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 Photo by Chisako

 

どうも。7月ですね。ここ最近も、皆さんとシェアしたい話題や氣付いたことなど、多々あるのですが、今日はどうしても、この話をしないと氣が済まない、と内なる自分が申しておりますので、それを書きたいと思います。

 

その前に言い訳を一つ

でもね、今から書こうとしている話は、書いたところで僕にとっては何の得もないんです。僕にとっては。むしろ、損することはあるかもしれない。「アイツ、何か感じ悪くね?」みたいに受け取られる可能性も多々あるので、本人的にはあまり書きたくはない。

 

でも、どうしても自分の内側から「モヤっとしたんだったら、今のうちに書いておいた方が良い」というキモチが湧き上がるので、書きます。

 

だから、こんなことを書いた僕を嫌いになっても、「そのたもろもろ」は嫌いにならないでください!と、平成の名言風な何かを盛大にパクりつつ、書きますね。

 

イベントには、大きく分けて3種類の人が集まる

イベントを主催すると、その場にいる人を大きく3種類くらいに分類できるなあと感じます。

 

まず、「お客さん」フツーにお金を払うなり、何なりして来てくれた人。これはホントにありがたい。時間を使って、お金も使ってイベントに参加しに来てくれるわけで、こんなにありがたい存在はありません。

 

次に、スタッフ。これは、大きなイベントであればお給料を払って仕事としてスタッフをしてくれるケースもあるでしょうし、自分たちが主催してやるようなイベントの場合、友だちに無償で頼むこともあるでしょう。いずれにしても、これも本当にありがたい。だって、本来ならばお客さんとしてのほほんと楽しんでも良いか、あるいは興味がなければ来なくても良いところに、わざわざ手伝いをしに来てくれるわけです。これも本当にありがたい存在。

 

でも、この2種類の人と同じくらい、場合によってはそれ以上にありがたい存在が、「スタッフみたいなお客さん」なんです。何それ?と思うかもしれませんが、いるんです、たまに。スタッフをお願いしているわけではないのに、パパパッと色々氣付いて、ちょこっと手伝ってくれたりする人。例えば、イスをしまったり、会場の設営を手伝ってくれたり、何か取りに行くとき、率先して行ってくれたり、イベント中に、小さい子どもの相手をしてくれたり。

 

ちょっとしたことでも、スタッフの手が回らないところを手伝ってくれるんだけど、実はお客さん。これは本当に助かるし、ありがたいのです。僕は、イベントに参加する際には、積極的にお手伝いをするようにしています。

 

なぜか。単純に楽しいし、それが喜びだからです。

 

無財の七施」って、知ってる?

「どうして、自分がお金を払って参加したイベントで、手伝いまでしなくてはいけないのか?」と思う方もいるかもしれません。そう思う方は、別にお手伝いなんかしなくて良いと思います。なので、ここから先は僕の勝手な思いを書かせていただきます。

 

仏教の世界には「無財の七施」という考え方があります。これは、「財力や智慧が無くてもできる七つの施し」のことです。

 

参照ウェブサイト

『無財の七施』~誰でも出来る仏道修行 七つの施し | 法華宗真門流

 

例えば、いつも優しい、慈しみの眼でいる「眼施」、いつも和やかに、穏やかな表情でいる「和顔施」。いつもそういう表情や意識でいることで、お金も何も使わずに、周りの人にお布施ができる、と釈尊は説くわけです。

 

その中に「身施(捨身施)」というのがあります。前述の参照サイトに依れば、こうあります。

 

自分の体で奉仕すること。模範的な行動を、身をもって実践することである。
人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよく実行することである。

 

別に僕は、イベントに行って手伝いをすることが「模範的な行動」とは言いません。でも、誰かがやらなくてはいけなくて、別に誰もがやりたがることでないのなら、まあ、(もちろん、主催者やスタッフに確認して)僕がやりましょう、という気持ちでやらせていただいています。

 

こう書くと、まるで僕がエライのを言いふらしたいがために書いてるように見えるかもしれません。

 

その通りです(キッパリ)。

 

こうして、スタッフでもないのに手伝いをしていると、主催者の方から「ありがとうございます」とか「助かります」と言ってもらえることもあります。それは、本当に嬉しい。言ってもらえない、氣付いてもらえないとしても、誰かが実はちゃんと見てる。少なくとも、僕は僕の行動を見てますから、「今日もいい仕事したなあ」と思うわけです。

 

あなたはそのイベントに、どういう意識で参加してます?ということ

つまり、単なる「お客さん」として参加しているのならば、それはそれで良いでしょう。何か、イベントから学べるものや、楽しみが得られれば良いですね、と思います。

 

あるいは、「何か自分ができることを提供する準備がある人」として参加している場合。それは、やっぱりただの「お客さん」とは違ってくる。行動も違えば、意識も違ってくる。自分がその場で何をできるのか、何を提供できるのかと考え、行動する。そうすると、イベントに参加したり、登壇者の話を聞く意識が変わってくる、と僕は思います。

 

 

僕は(もともと裏方とか、サポート役が好きだから、というのは大いにあるとして)、いつも「自分ができることなら、何でも提供する」というつもりで、イベントに参加しています。でも、何もしないこともある。でも、それはそれでオッケー。

 

大したことではないですけども、自分が何かの役に立つ、ってのは喜びですよ。それを味わう機会があるんですから、それに乗らない手はないよね、というお話です。

 

ただ、これを書いてしまうと、僕が身施をするという喜びを得る機会が減ってしまうかもしれないので、書きたくなかったのです。でもまあ、良いです(笑)。

流れよう、流されよう(あるいは、夏至の真夜中に)


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Photo by Chisako
 

 

「占い」ってものを元々はあまり「信じない方」だったのだけれど、最近はどちらかというと「信じる方」になっている。

 

とは言え、別にテレビの星占いを見て「えー!今日のラッキーパーソン、マサ斉藤だってー」とか、「今日のラッキーカラーは緑だから、三沢のコスチュームで出掛けようかなー」とかはしない。そもそも、三沢のコスチューム持ってない。

 

僕がなんとなくウオッチしている占いに「しいたけ」(名前です)さんの占いがある。僕はこの人の2017年上半期の占いを見て、その圧倒的ボリュームと的確さのあまり、一時期「しいたけ、私を監視している説」を唱えていたくらいだ。

 

voguegirl.jp

 

そのしいたけ先生、ついに先日下半期の占いを発表した。それによると、僕はどうやら上半期に引き続き「大きな運命の荒波に飲み込まれろ」ということらしい。

 

この上半期だけでも、僕個人にはずいぶんと大きな変化があったし、転換点もあった。しかも、そのいくつかは僕が選んだものだけれど、いくつかは、明らかに「渡された」ものだった(しかも、こっちの方が数は多い氣がする)。

 

要は、どうやら僕は(齢40にして)大きな運命の変化点に立っているようなのだ。

 

人生をコントロールするということ

良くも悪くも、今までの僕は真面目人間ギャートルズであり(笑うところですよ!!)、とても安定した生活を送ってきた。例えば、2度ほど転職はしたけれど、無職だった期間は極めて短く、後はサラリーマンとして手堅く勤めてきた。25歳の時に結婚をして、子どもはいなかったけれど、夫婦円満な家庭を築いてきた。

 

もちろん、本人なりにはいろいろあったけれど、振り返って見ればさほどの大波もなく、順風満帆に人生を送ってきた。そして、とても幸せであった。

 

と書くと、まるで今、不幸になったように読めるが、そんなことはない。また、サラリーマンを辞めて独立でもするようにも読めるけれど、そんなこともない。

 

ただ、今までの人生は、ある程度自分でコントロールしてきたなあ、という印象はある。さながら、往年の北別府(学)もしくは西本(聖)がごとく、針の穴を通すかのようなコントロールをしてきたわけだ。

 

社会人として、企業人として、または家庭人、よき夫として、バランスを取ったり、自分で自分の枠をある程度決めて生きていたかもしれないなぁ、と思う。

 

そして今、「流されてみよう」

そのことは、けっして悪いことだとは思っていないし、必要な経験だったなと思う。ただ、今からの僕が感じているのは「流されてみよう」ということだったりする。

 

僕は基本的に「流される」のが嫌いである。それは「ホントは流されやすい」から。

 

例えば、呑んだ流れでカラオケ~なんてことになった時。ほんとは「あああオレはカラオケなんて行きたくないのにな歌なんて歌いたくないし家に帰ってAVでも見てとっとと寝たいよ明日も早いんだし」と思っても、氣付けばB'zの『zero』なんか熱唱してる自分がいたりする。明日早いんじゃないのか。

 

だから、大きな選択に関しては割と慎重に判断してきた。というか、正確に言えば大切な判断はたいてい、パートナーに任せきりにしていた。だから、誰かから何か大きな提案を受けたときは「いーよー!」と即決することは殆どなかった。大体パートナーに相談して決めてきた。それはそれでよかった、と思う。

 

時には、「流れ」のようなものを思考や過去データから「無いね」と判断してきたかもしれない。正直な話、そのことに自分でも氣が付かないくらい、僕は「流れ」や「思い付き」、「直感」よりも「過去の実績」や「社会通念」みたいなものを優先してきたように思う。

 

ただ、そろそろその時期も終わりを迎え始めているっぽい。

 

直感や自分が信じた道を進んでみる。ある意味、自分でコントロールするのではなく、流れに身を任せてみる。もちろん「全て上手くいく」というゴールだけは設定して、その上で、プロセスは手放す。

 

自分がこうなりたい、こうしたい、こうしよう!みたいなものは、極力外す。もちろん、それが「成長したい」というモチベーションになることもあるけれど、実はもう、身に着けている技術や能力だけではなく、何か流れの中から渡されるもの、発見するものを得ていこう、と思う。

 

それは、ひょっとしたら僕を想像だにしなかった世界に連れていくかもしれない。それはそれで、良いんじゃないの?と僕は思っている。

 

自分がどこへ行くのか。どんな可能性を発揮するのか。流れよう、流されよう。そして、新しい自分を見つけよう。

 

BGMは、こんな曲。

 


B'z ZERO LIVE-GYM Pleasure2013 ENDLESS SUMMER

 

流れよう、流されよう この波に揺らされ

ゼロがいい、ゼロになろう もう一回

 

 

 

世界はそれを執着と呼ぶんだぜ

 
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photo by chisako

 

 

どうも。毎度毎度、自分が思ったことを好き勝手に書いているブログですが、今回は特にエモい(使い方、合ってるだろうか)内容になりそうです。なんともはや。でも書く。

 

基本的に、いつ死んでもいいと思っているし、いつ死んでも良いように生きていようとも思っています。

 

例えば、このままだと地球に隕石が衝突して、地球が消滅してしまう!それを防ぐためには、隕石が大気圏の突入する前に破壊するか、コースを変えるしかないんだけども、そのためには誰かが隕石に穴をあけて、その中心でダイナマイトかなんかを爆発させないと・・・なんていう状況があった場合、僕はぜひ、そのクルーに加わりたいなあと思っている。

 

www.youtube.com

 

ええまあ、ハリウッドバカですよ(笑)。でもまあ、実際そう思っている。ただ、本当にその時が来た時に、元気よく「ハイっ!」と手を挙げられるかどうかまではわからない。

 

♪ピッチャービビってる~ヘイヘイヘイ

この、有事の際に「ハイっ!」と元気良く、何のためらいも躊躇もなくクルー募集に手を挙げて、エアロスミスの「ミス・ア・シング(I Don't Want to Miss a Thing)」のメロディが流れる中、意気揚々と宇宙船に乗り込めるか?というと「正直わからない」あたりに、今回のテーマがある。

 

そう。僕は未だに「恐れ」を感じている、と思う。そういうことを直視せざるを得ない状況が、最近ちょくちょく起こっている。何かを失敗したり、手放したり、人から嫌われたりするのをとても恐れている自分がいる。

 

要するに、「ビビってる」自分がいる。

 

まさにピッチャービビってる~ヘイヘイヘイ状態なわけだ(野球部経験者にしか伝わらんネタ)。

 

www.youtube.com

↑つうか、なんすかコレwww

 

「僕は人見知り」キャンペーン((C)ひすいこたろうさん)

以前の僕は、色々なことから体よく「逃げてきた」ことに氣がついた。

 

例えば。昔の僕は自分のことを話すのが嫌いだったし、なるべく自分の話をしないようにしていた。それは、「こんなことを言ったら嫌われるんじゃないか」、「こんなことを言うとオカシイと思われるだろう」と、ブレーキを踏みまくっていたから。

 

こと、異性に対してはそれが顕著で。こちらが相手に好意を持っていても、それをストレートに出すことが大変ニガテだった。だから、当然うまく行かない。

 

なのに、時々「あーもー、らちが明かない!」と思って、ヘンな形で自分の好意を相手に渡してしまって、その後の関係がおかしなことになってしまった経験も(山ほど)あり、いよいよ自分の気持ちや感情をオープンにすることに恐怖を覚えるようになった。

 

おかげで、同性・異性問わず、人間関係において、そういう「おっかなびっくり感」を持ち続けてきた。だから長いこと「僕は人見知り」というキャンペーンを長く行ってきたのである。

 

人見知りキャンペーンについては、天才コピーライター・ひすいこたろうさんが、とても分かりやすく書いてくれてる、というか、これを読んで「そうなんだ!」と思ったので、ぜひ。

 

ameblo.jp

 

その「執着」を手放そう

で。最近、そういう自分を多少なりとも変えていこうとは思っている。

 

今年の4月に15年連れ添ってきた(という言い方は、あまり好きではないんだけど)パートナーの籍を抜いたこともあって、より強く、そう思っている。でもやはり、まだその恐れはあるようで。

 

僕はその「失敗する」とか「拒絶される」ことが、たまらなく恐ろしいんだね、ということに氣が付いた。

 

で、これって「執着」だなと思ったのだ。上手くやりたい、スマートに物事を進めたい。あるいは、目の前にいる女の子と付き合ったり、良い関係を続けたいと願う。それはまさに「執着」だろう。

 

執着(しゅうじゃく、abhiniveza अभिनिवेश (sanskrit))とは、仏教において、事物に固執し、とらわれること。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きとする。

(引用:wikipedia「執着」)

 

冒頭書いたとおり、本当に「いつ死んでもいい」と思っているならば、ちょっとした恥ずかしさや失敗や、拒絶されることなんて、大したことじゃないだろう?と、自分でも思う。ちょっとでも「拒否されたら、イヤだな、恥ずかしいな、この人との関係が終わっちゃうな、周りにどう思われるかな」と思っているから、動けないわけだ。

 

でも、もし、明日死ぬとしたら、そんなことを考えている場合だろうか。明日の朝には「ミス・ア・シング」のメロディが流れる中、ケネディ宇宙センターから隕石をぶっ壊すために宇宙へ飛び出していくんだとしたら。

 

それは、恋愛に限った話ではない。仕事面でも似たようなことは起こるし、友人関係でだって起こり得る。

 

失敗したくない、手放したくない、失いたくない。でも、このままの状況にも満足はしていない、みたいな。

 

ひょっとすると、だからこそ一度、手放してみることが必要なのかもしれない。自分の意思や思惑で相手や状況をどうこうしよう、という意識を一度捨てる。んで、委ねる。自分はこう思ってるんだけど、どう?みたいな。

 

相手が僕の好意をどのように受け取るかは、相手に委ねられるべきテーマであって、こちらがどうもこうもできる種類のものではない。

 

だから、とりあえず自分の率直な感情を出してみて、相手や状況に判断を委ねる。その結果、それまで築いてきた関係性が壊れてしまうのも、まあ仕方がないよね、と。

 

 

こんなブログを書いたところで、何の解決にもならないことは百も承知である。でもこれは、僕自身の修行、あるいは納得のために書いている。でも、どこかで誰かの心に響いて、役に立ったらいいなとも思っている。

 

少なくとも、僕の役には立っている。「誰かに読まれる!」と思って書くことで、自分のココロの在り様が、よりわかる氣がする。ありがとう、読んでくれた皆さま。そして、ありがとう、はてなブログ

 

『アルケミスト~夢を旅した少年』がヤバ素晴らしすぎる件

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おばんです。ブログ、止めてません(笑)。

 

今回は、『アルケミスト~夢を旅した少年~』を読んで、すげーよ、この本、スゲーよ!!となったので、そのことを書きたい。それだけの記事です。

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愛を知るために「個」を生きること(富士宣言シンポジウム その5)

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セッション5は「現在と未来の調和」。未来世代にどんなメッセージを送りたいか?というテーマが話し合われました。

 

最初にお話ししてくれた、ナイジェリアの民主化運動家で政治家のハフサット・アビオラコステロさんのお話が、僕的には結構インパクトがあった。

 

ハフサットさんはまず、我々は「何々国民」である前に「地球市民」であり、地球の子どもであることを認識しよう、という。うん。100%同感。国境なんてもんは、勝手に人が作り上げたもので、それがどうしたこうしたと言い合うこと自体がちゃんちゃらおかしい、と思っている。ま、現時点では仕方ないねとは思うけど。

 

そして彼女曰く、ここ50年以上、世界的な人口バランスで見ると男性の方が6600万人ほど女性よりも多いのだそうだ。これは彼女の見方によれば「女性が大切にされていないから」なのだという。なるほど。そして、女性の数が少ない地域とはどんなエリアかと言うと、紛争が続いている地域なのだそうだ。要するに、紛争状態という女性が大切にされにくい状態が続いている地域では、女性がそもそも生まれにくくなる、と。これは、決して調和のとれた状態とは言えないよね、とは感じる。

 

次世代の子どもたちと、どう付き合っていくべきか

心理学者で慶応義塾大学名誉教授の岩男氏は「あなたは、その子をあなたのようにしようとしてはならない」という。つまり、子どもを自分のコピーのようにしてはならないと。

 

次世代は、我々の想像を超えた世界で生きることになる。その次世代に対して、旧世代の知識や知恵、常識や感性を押し付けようとしても、意味がないどころか逆効果だ。それならば、次世代には次世代に必要な知識や教養を身に着けられるような環境を提供する必要がある(という意味だと思う)。その文脈で「身に着けた教育は、誰にも奪うことができない」ともいう。名言だと思う。ただ、親が押し付けた教育(のようなもの)は、たぶん無意味だろう。子どもたちは自らの力で自ら学ぶものを取捨選択し、自ら進んで学ぶ(はずだ)。それを、「いい高校に入って、いい大学に行って、一流企業に勤めて」なんて、オールドスクールな価値観を未だに押し付け続けていては、おそらく逆効果になる、と僕は読んでいる。

 

子どもたちは天才だ。その天才性に氣付いて、それを伸ばすサポートをするのが、旧世代の役割なんじゃないかなと思っている。

 

岩男さんが言おうとしたことと、ひょっとすると真意はずれているかもしれないけれど。

 

最後の最後に、スピリチュアルなお言葉を。

最後に、ものすごくスピリチュアルというか、いつもの僕らしくないことを書いて、この5回シリーズを締めくくろうと思う。

 

このシンポジウムを通じて、「Oneness」あるいは「Wholeness」というワードが何度も出てきた。我々は1つであり、全体であると。普通に考えれば、我々は1人の人間で、あなたはあなただし、私は私だし、別の人間である。「私」と外の世界とは、繋がっていないし、分離していると見える。確かに、そう見える。

 

一方で、あの世(いよいよ怪しくなってきた)は、自他の差がなく、すべて1つの大きな「何か」の状態にあるといわれることがある。このあたりは、非常に難しい表現になってくるのだけれど、分離していない、統合した世界があると言われている。

 

いったん、ここで区切る。この世とかあの世とか、統合した世界が広がっているとか、信じても信じなくても、僕はどちらでも構わない。本当にどっちでもいい。ただ、一応ここまで読んだのならば、最後まで読み切ってほしいなとも思う。

 

すべて読んでみた結果、「コイツは頭がおかしい」と思っても、「アブナイ世界に足を突っ込んでしまった」と思われても、それもまた構わない。この原稿を読んで、友だちと連絡が取れなくなったとしても、僕は恨まないので安心してほしい。

 

さて。では、なぜ僕たちは「この世」でわざわざ分離した「個」として生まれ、ある意味苦しんでいるのだろうか。「個」ではなくて「全体」、「分離」ではなくて「統合」した世界に生きていれば、争いや諍い、行き違いや誤解や不要のストレス、紛争や戦争を経験しなくて良いはずじゃないかと。

 

僕らがなぜ、この世で「個」として生きなくてはならないのか。それは、「違い」を知った上で相手を許容する力を身に着けることと、もっと大きく言えば「愛」を知るためだろうと思っている。

 

もし、僕らが全体であり、統合した存在であり続けたならば、「愛」は当たり前に存在するものである。繋がりあっている状態が「当たり前」であれば、それがいかに尊いものかを知ることは難しい。だけれど、僕らは「個」を生きていて、繋がりあうことが決して容易なことではないと知る。男女の間で言えば、こちらが恋愛感情を持っても、相手と必ず繋がりあえるわけではない。だからこそ、繋がりあえた、分かり合えた時に大きな喜びが生まれるわけだ。

 

それは、親子関係でも同じだし、友人関係でも同じこと。「愛」がどれほど貴重で、大切なものかを知るために、僕らはこの世で「個」として生きる必要があるんだろう。そんなことを考えている。

 

そして、ホントに最後に、5回にわたって、ありがとうございました。

 

このシンポジウムを企画してくださった皆さま、誘ってくれたひろしくん、そして、このブログを読んでくださった全てのみなさま、ありがとうございます。

 

あ、ブログはまだ続きます(笑)

自分の内面を見つめ直すこと(富士宣言シンポジウム その4)

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さて。だいぶ間があいてしまって、私の記憶も定かではなくなってきたところもあるんですけれども(笑)、その分自分の深いところを経由して出てくるもの(なはず)なので、それはそれで面白いかなと思って書いております。

 

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人間と自然と、人間が自然に生きること(富士宣言シンポジウム その3)


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やめてません(笑)。

 

ということで、昼食をはさんで(というのは、この原稿においてはほぼ関係がない)、セッション3。テーマは「人間と自然の調和について」。

 

abenob2010.hatenablog.com

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