ステレオタイプでモノを言う人が苦手

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滋賀県竹生島神社シリーズ 

 

こないだ、会社近くの「ちばチャン」で昼飯を食っていたところ、斜め前に座ってた若い男二人組の会話が聞こえてきた。

 

話は早速脱線するのだが、私は「ちばチャン」の唐揚げ定食を大変愛好している。

 

この店、要するに飲み屋なのだが、ランチタイムは主菜のみ持ってきてくれて、その他のごはん、お味噌汁、副菜はセルフサービスで取り放題というデブまっしぐらのお店である。

 

しかも、その副菜というのがナスの煮びたしや大根の煮たの、それからレタスやタマネギスライスなどのサラダ類、それに加えてマカロニサラダがあることもあるし、この間は鳥の甘酢あんかけみたいなものまであった。

 

鳥の唐揚げ定食頼んでるのに!!

 

とにかく。その上リーズナブルなお値段なので、ひとりで昼飯、となるとココに来てしまう。

 

■何の話だっけ

私のちばチャン愛はどーでもいい。

 

いや、本題だってどーでもいいと言えば、どーでもいいのだが、それを言うと哀しくなるので黙っとく。

 

そう。こんな会話が聞こえてきたのだ。

 

A:「EXILEって、ヤンキーが聞いてるんでしょ?」
B:「そうかな?」
A:「ヤンキーってEXILE聴いて、ONE PIECE読んでるイメージじゃん?」

 

・・・いや、この会話が聞こえてきたのが、私の元に鳥の唐揚げが届いた後で本当に良かった。そうでなければ、空腹でのイライラも相まって、このAの胸ぐらを掴みかけていたかもしれない。

 

■いやいやいや、ちょっと待て、と

そもそも、僕はEXILEのことをほとんど何も知らない。イカツイ皆さんが歌って踊るグループ、くらいの印象だ。なるほど、ヤンキーっぽい印象を受けるのもわからなくはない。

 

しかし、私が知っている中で、EXILEが好きでヤンキー要素のある人は皆無だ。むしろ、EXILEが好きなのは女性が多い(ヤンキー要素はない)。

 

ONE PIECEにしてもそう。ONE PIECEの主な読者は、実は結構年齢層高めなんじゃないか?と私は見ている。私の中では、ONE PIECEが好きな人は30代に多い印象だ。

 

ただ、この辺も限られたサンプルからの推測で、偏った見方であることは間違いない。

 

が。このA氏のコメントは、もはや推測ですらない。ステレオタイプだ。いや、単なる思い込みと言ってもいい。

 

僕はどーも、ステレオタイプや思い込みで話をする人が苦手らしい。

 

■なぜ、ステレオタイプが苦手なのか

というのも、僕自身ができるだけ傾向を少なからず持っているから、だ。ついつい思い込みや勝手な推測で物事を見て、見誤ってきた経験がある(今もそうかもしれない)。

 

だから、人の思い込みやステレオタイプには鋭く反応してしまう。できるだけ、ステレオタイプで物事を判断しないように、と思うのだけれど、なかなか。ついつい、職業や勤めている会社、職種などで判断してしまうこともある。

 

もちろん、傾向はある。ただ、絶対ではない。そこんところをわきまえないと、物事を見誤る。

 

自戒を込めて、そしてちばチャンの唐揚げをモグモグしながら、そんなことを考えた。

 

思い込みとかステレオタイプについては、実例として書きたいことがあるので、また書く。

わし流映画鑑賞録『ラ・ラ・ランド』

■今回も、盛大にネタバレしますよ。

観る前は正直、期待してなかったわけです。『ラ・ラ・ランド』。

 

予告編を観ても、何となく(オレの苦手な)オトナのラブストーリー!的な感じだし、公開された後の映画評を見て「過去のミュージカル映画へのオマージュが!」とか言われても、オレ、そういうのほとんど観てないもんなぁ、と思ったり。

 

何しろ『ラ・ラ・ランド』て。なんというダサいタイトル、と思ってた。が、このタイトルには実は深い意味があった。これは後で触れます。

 

とにかく、観る前は期待してなかった。「まぁ、評判イイっぽいから」くらいの感じで観た。

 

結果、僕はこの作品を観て、2回泣いた。

 

■しつこいようですが、ネタバレしますんで。

ハリウッドで女優を目指すミアと、ジャズピアニストとして自分の店を持つことを夢見るセバスチャン。その二人が出会い、恋に落ち・・・というのが大筋。

 

単なるラブストーリーとしても観られるし、美しいミュージカルとしても観られる。様々な観方のある映画だなあと思う。

 

ミアは、とにかくオーディションに落ちまくる。セバスチャンは演奏こそ上手いけど、雇われてた店の選曲に従わず、クビになる。とにかく、二人とも上手く行ってない状況で出会う。

 

そして(映画としては当然ながら)徐々に成功への道が開けてくる。

 

そして、ミアに大チャンスのオーディションが訪れる。大作の映画に出演できるかも、というオーディション。「自由に演じて」というオーダーに対して、女優だった叔母さんのことを思い出しながら、ミアが歌う『The fools who dream』という曲が素晴らしい。オレが泣いた第一ポイントがココ。

 

■ちょっと脱線しますね。

「ミュージカルが苦手」という人がよく言う、「なんで急に歌い出すのか」という疑問。僕は「映像を使った比喩表現」だと思うことにしています。

 

その時の心情や感情を歌にして表現する。実際に何が起きてるか、というよりは、そういう氣持ちでいるんだな、という。

 

だから、実際にミアがオーディションで歌ったかどうか、は、どうでもいい(と、私は思っている)。彼女の心境、信条、あるいはもう一歩推し進めてしまえば、監督が言いたいことがここに込められている。それで良いじゃないか、と思う。

 

この作品では、いきなり歌いだす以上に「あり得ない」行動や出来事が多々起こる。それを「こんなことあり得ない!」と観るのか「面白い!」と観るのか。でも、これだけの人が評価してるってことは、そのあたりはクリアしてるのかもね、とも思う。

 

はい。脱線おしまい。

 

■『The fools who dream』

 

www.youtube.com

 

ミア(エマ・“目玉”・ストーン)が歌うこの曲がとても良い。歌詞も曲も歌唱も、歌われるシチュエーションも。

 

ちょっとだけ歌詞を引用しますね。

Here's to the ones who dream
Foolish, as they may seem
Here's to the hearts that ache
Here's to the mess we make

 

(わし流ざっくり翻訳)
「夢を見る人たちに乾杯しましょう。
たとえ、どんなに馬鹿みたいに見えたとしても。
痛む心と、私たちのむちゃくちゃな日々にも、
乾杯しましょう」

 

She told me:
A bit of madness is key
to give us new colors to see
Who knows where it will lead us?
And that’s why they need us,
So bring on the rebels
The ripples from pebbles
The painters, and poets, and plays

 

(わし流ざっくり翻訳)

「彼女(ミアの叔母さんのことね)は言った。

ちょっとした狂気が、私たちの世界に彩りを与えてくれる。

それが私たちをどこに連れていくかは、誰も知らない。

でも、それこそが私たちが求められている理由。

だから、小石が波紋を広げるように、

反逆者たちを舞台に上げるの。

画家や、詩人や、劇作家たちのような(社会に対する?)反逆者を。

 

なお、もっとちゃんとした翻訳があったから、詳しくはこっちを観てもらった方が(笑)。

 

migmemo.net

 

ミアはそれまで、女優を目指してオーディションを受けまくったけど落ちまくって、実は一度実家に帰るんです。そこを、セバスティアンが迎えに来る。「君には絶対才能がある。だから、次のオーディションを受けよう」と。んで、この曲を歌う流れなの。

 

■「Where we are?」という問い

これは、何かを目指して、何かに憧れて、何かを夢見た人ならば泣くよりほかないシーンですよ。真剣に。

 

そして、オーディション後にミアはセバスティアンにこう質問する。

 

「Where we are?」と。字幕ではどうなってたかな、忘れた。その問いに対し、セバスティアンは一旦「公園だよ」と答える。で、もう一度ミアは「where we are?」と問う。

 

なんかこう、この問いが印象的でして。

 

二人が「(人生という道において)どこにいるのか」もそうだし、「(夢の過程において)どこにいるのか」もそうなんじゃないかとか。そして、物理的に「パリか、ハリウッド(ロサンゼルス)か」も含まれてるかもしれない。ひょっとすると、「二人はどこへ行こうとしているのか?」という問いなのかもしれないし。

 

何を目指し、何に価値を置き、どこに住み、誰と暮らし、何をして生きるのか。それら全てをひっくるめた「Where we are?」という問い、なのかなとか。

 

結果、ミアはこのオーディションに合格し、パリで大作映画に出演することになる。セバスティアンはセバスティアンで、ツアーで世界を飛び回る。かくて二人は離れ離れになることを選択する。

 

そう。二人の夢は叶う一方で、二人の距離は離れていくわけだ。「己がどこにいるか」を確認しながら。

 

■ある意味、2つのラストシーン

んで、このあたりからラストへのなだれ込みがすごい。

 

時間は5年後に飛ぶ。ミアは女優として成功し、ハリウッドに戻ってくる。愛する夫と子どももおり、幸せに暮らしている。そして、夫と食事でもしようかと入った店が、何とセバスティアンの店。

 

そして、セバスティアンはミアに気付く。彼の奏でる曲に乗せて、映画はクライマックスを迎える。「あり得たかもしれない現在」、つまり、二人が幸せに結ばれた「アナザーストーリー」を見せる。

 

これがもう、あーた。泣いた。オレが泣いた第二ポイント。現実は「そうではない」のだけれど、実際にあり得たかもしれない「現在」を走馬灯のように見せていく。でも、それはどこまで行っても「そうではない世界」の話。ミアとセバスティアンがどんなに幸せで、温かな家庭を築き、幸せに生きていたとしても、それは「あり得たかもしれない」世界。

 

そうこうして、我々は現実に戻ってくる。ミアは夫と店を出る。セバスティアンは、あたかも「それで良いんだよ」と言わんばかりに微笑んで、次の曲を演奏し始める。

 

いやもう。このエンディングはズルいよ。ズルい。

 

■で、『La La Land』に込められた真意

『ラ・ラ・ランド』を英語で書くと『La La Land』。LA、つまりロサンゼルスのことを言うらしいのです。ただ、何というか、夢見がちな世界を指してる、というか。そんなことを映画評論家の町山智浩さんが紹介していたんですわ。

 

その部分だけ引用します(今回の記事は長いなー)。

 

『ラ・ラ・ランド』というのは『La La Land』と書くんですよ。「LA」っていうのはロサンゼルスのことですよね? だからロサンゼルスのことを別名「ラ・ラ・ランド」とも言うんですね。

(中略)

ただね、これには悪い意味みたいなのがあるんですよ。つまり、ロサンゼルスに住んでいる人たちはみんなこの主人公たちみたいにスターになる夢を見ているんですよ。で、「彼女はラ・ラ・ランドに住んでいるんだ」っていうのはね、「彼女は夢見がちなんだ。現実を見ていないんだ」っていう意味があるんですよ。

 

 

miyearnzzlabo.com

 

つまり、「デートの時に見に行くと良い映画っすよ、ダンナ」的な顔をしてるこの映画ですけども、実は「何者かになりたいと願い、夢見続ける(続けた)人への賛歌」なのですよ!(バンバン←机をたたく音)。

 

もう一度言うけれど、この映画はホントに色々な観方ができる。

 

単に、音楽と映像が楽しい映画、としても観られる。かくいう僕も、この映画を観てしばらく、劇中の音楽を鼻歌で歌ったり、口笛を吹いてたりする自分がいてびっくりしているくらい。

 

そして、恋愛悲劇としても観られる。ああ、なんであの二人は別れなくてはいけなかったの?あたしたちはそんなことないわよね的に、カポーで観るのも良いでしょう。

 

ただ僕は、何度も言うようだけれど、何かに憧れ、何かに夢を見た人たちへの賛歌であり、そういう人たちへの愛を込めた映画だと思う。「アカデミー賞狙いが透けて見える」てな指摘もあるみたいだけど、それはちょっと、さすがに意地悪過ぎやしないかとも思う。意識はしたかもしれないけれど。

 

とにかく。ミュージカルがどうしても嫌いな方には勧めませんが、そうでなければぜひ。

 

特に「ラ・ラ・ランド」の住人だったという自覚がある人は。

わし流映画鑑賞録『サバイバルファミリー』

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これから、いつもの如く映画を見た感想を壮大にネタバレしながら書いていきます。今回の映画は『サバイバルファミリー』です。

 

ネタバレNGの方は、映画を見終わってから、ぜひ。

 

■これは、まぎれもなく僕らの物語。

この映画の評価は、このストーリーが「自分事」として受け取れるか、「他人事」かによって変わるかも、と思う。

 

設定は、突拍子もない。ある日、突然電気が使えなくなる。当然、電気を使う都市生活は大ダメージを受ける。でも、多くの人は「まあ、そのうち復旧するんでしょ」と鷹揚に構えている。ところが、それが数日にわたり・・・。

 

さすがに、こりゃアカンとなった鈴木さん一家。奥さんの実家がある鹿児島へ避難しようとする。電車が止まってるから、自転車で羽田まで向かうものの、当然飛行機も欠航。

 

そして鈴木さん一家は(なんと)自転車で「電気が通っている」という噂のある西へ向かうのだが・・・というお話。

 

■ツッコミどころは確かに多い。

そもそも、発電所や送電線の問題ではなく、いきなり電気が使えなくなる、なんてことは考えにくいし、車は関係ないだろー、とかは思った。

 

でも、重要なのはそこじゃない。たぶんこの監督は、その辺の整合性をとりあえず横に置いといて、「実際、こうなったらどーする?」を突きつけてきたのだろう(この辺は、映画評論家・前田有一さんの指摘で氣付いた。さすが)。

 

■「有り得た過去」、「有り得る未来」

3.11を経験した我々にとって、これは「あり得た過去」であり、「あり得る未来」でもある。

 

3.11では、地震の影響で発電所がストップしたのは福島第一原発だけだった。これはこれで未だに問題が続いているけれども、それでもまぁ、まだラッキーな方だったとも言える。

 

もし、首都圏直下型地震かなにかで送電システムがメッタメタになったなら。そのように見ると、「うわぁ」ってなる。

 

都会に限らず、現代に生きる我々は、意外なほど電気に依存して生きている。「これも?」というようなものも、電気がないとお手上げだ。

 

例えばガスメーターはいまや電気制御だし、水道も電気が止まれば(たぶん)止まる。

 

そういう世界に、僕たちは生きている。

 

しかも、忘れてはいけないのは「状況は、大して変わっていない」ということだ。僕らの生活は相変わらず電気に依存しているし、3.11のようなことが、再び絶対に起こらない、なんてことは、誰にも言えない。残念ながら。

 

■もし、本当に電気が止まったら。

ありとあらゆるインフラが麻痺するし、カネやブランドものなんて、何の意味も持たなくなる。

 

そのことを端的に表すのが、途中で出てくる米屋のエピソード。米の備蓄はある。ただし、水か食糧以外とは交換しない、という米屋のおばちゃん(渡辺えり)。

 

ロレックスを持ってきたお兄さんを「そんなもん、腹の足しにならないでしょ」と一喝する。確かに。

 

機械式腕時計なら動きはするかもしれないが、あらゆるインフラが止まった以上、時間なんて無意味だし、ブランドなんて、それ以上に意味がない。

 

本筋とは関係ないけど、この渡辺えりさんが出番は短いのにキョーレツだった。スゴいね。さすがの存在感。

 

■食事シーンで泣く。

我々はインフラは「ある」ことが「当たり前」と見るけれど、実際には「ありがたい」ことだと氣付くはずだ。

 

電気もガスも水道も、鉄道も飛行機も車も動かない。そんな状況で、どう生きる?まさに「サバイバル」だ。

 

そして、生活に密着した人々の力強さが描かれる。

 

僕はこの映画を見て、食事のシーン(須磨の水族館からの田中さんちのシーン)で泣いた。映画を観て、食糧のシーンで泣いたのは、たぶん初めてだと思う。

 

どんなシーンか。書くか書かないか、迷ったけれど、敢えて書かない。是非、見てほしい。

 

そのくらい、あのシーンは重たかった。

 

■全ては「当たり前」では有り得ない。

僕は、だからといって「全てを棄てて、昔に戻ろう!」とは言わないし、「田舎暮らし最強!」と言うつもりもない。

 

現代を生きる以上、電気が使えた方が便利だし、都会には都会の良さがある。もちろん、田舎には田舎の。

 

都会にいながら、自分と生活を少しだけ密着させる、ということは出来そうな氣がする。例えば、たまには電気を使わない生活をしてみる。キャンプに行くだけでも、普段の生活がどれだけ電気に頼っているかに氣付くはず。

 

エレベーターが動いて、電車が時間通りに来て、つまみをひねれば火が使えて、蛇口を開ければ飲める水が出る。ボタンを押せば風呂が沸き。ちょっと行けばコンビニでおむすびやパンが買え、大阪や九州、北海道までだって、ものの2~3時間もあれば着いてしまう。

 

これらは全て「当たり前」では有り得ない。そのことを突きつけてくる映画でありました。

 

で、結局何が言いたいかっつうと、「『サバイバルファミリー』、面白かったなぁ」ということである。みんな観た方が良いよ。以上!

自分の客は誰か。

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アカデミー賞でどうのこうの

アカデミー賞云々が話題になってますけども。個人的には、オスカーがどうのこうの、にはあんまり興味がない。へー、とは思うし、受賞作には多少興味は持つけれど。

 

もちろん、賞レースの行方をエンターテインメント的に楽しむのはありだと思うけれど、それは作品の評価とは直結しないし、ましてや自分の評価軸とは違って当たり前。

 

いくらアカデミー賞受賞作でも、自分が面白くないと思えば、そこまで。逆に、自分以外、誰一人評価しないようなクソ映画であっても、自分の心にしっかりと刻まれているなら、それはもう「名作」。そう思うことにしている。だから、出来るだけフィルターをかけずに作品に向き合おうと思っています。

 

とは言え、多くの人が「良いよ!」と言ってるものは、自分にとっても「良いもの」の確率が高いから、なるべく見たい、とも思っています。

 

昔は、皆が「良い」というものや、流行ってるものを出来るだけ避ける天の邪鬼体質だったのだけれど、それもなんか違うなぁ、と。何しろ、自分にとって、流行ってても面白いものは面白いし、つまんないものはつまんない。

 

■それは、自分が作る側も同じ。

自分が「面白い」、「こういうことを言いたい」という作品を作ることができたら、それはそれで決着が付いた、と思う。

 

そこにお金がついてくるのは(本当に)ありがたい。これまでは自分が作ったもので賞を頂くなんて機会はなかったけれど、それこそオマケの最たるもの、だと思う。

 

この順番が、長いこと、僕の中でテレコになっていたことに氣がつきました。文学新人賞を受賞して、パンパカパーンと文壇にデビューする。んで、文章を書いてメシを食う。

 

というビジョンを長いこと(若いときから、割と最近まで)持っていたのですが、あ、これ、違うわー、と思った。

 

自分が「面白い!」と自信を持って出せるものさえ作れれば、まずは満足。それが人に面白いと言ってもらえたり、評価してもらえるならば、それは望外の喜びであると。そんな感じが今はする。

 

まー、自己満足で終わっても仕方ないんだけど。まず、自分が楽しめないものは、人だって喜んでくれないでしょ?と思う。

 

■自分の客は誰か

プロは客が喜ぶものを提供しなきゃ、というご意見もあると思う。それもごもっとも。でも、僕はまず最初に自分が最初の客でありたいと思うわけです。

 

「こういうことを書いたらウケるかな」、「こういうネタは読まれるよね」みたいなことも、面白いし、求められることだとは思うけれど、それにしたって、まず自分という上顧客が喜んでくれないと始まらない。そんな氣がしています。

 

それは、このブログも同じ。もちろん、ブログで稼ごう!みたいな考えもなくはない(なくはないのですよ!)けれど、それにしたって、自分がまず読んで、書いて、面白いのが基本。そんな現在地を確認しております。

足さないことの価値  

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■「何も足さない、何も引かない」

これはサントリーウイスキー「山崎」のコピーですが、まあ、これって王道だよね、と思うのです。

 

特に、「足さないこと」の価値。

 

例えば、飲み物を買うとき。子どもの頃は、「出来るだけたくさん入ってる」、「出来るだけ甘い」みたいなことを判断基準にしていました。

 

だから、お茶を買うとか意味が分からなかったし、ましてや水など!水を買うくらいなら、その辺の公園で水を飲めば良いじゃない!と思ってました。

 

しかし、今はすっかり変わりまして。今は、出来るだけ何も入ってないものが良い。最近は水に味が付けてあるヤツとかありますが、個人的にはノーサンキュー。コーヒーも、砂糖やミルクは要らない派です。

 

■「足さない」勇気

「足さない」というのは、結構勇気がいることだと思います。ついつい、何か足したくなる。

 

Webや雑誌のデザインを見ていても、「足さないこと」を徹底するのは難しい。白を基調にして、サッパリしたデザインにできればカッコイイ、とは思いつつも、言いたいことや伝えたいことを積み重ねていくと、それがそうもいかないようで。

 

実は言葉も同じでして。

 

本当に伝えたいことを、スパッと短いセンテンスで表現出来さえすれば、それ以上何も足す必要は、本来はないのです。

 

ところが、そうカンタンには問屋が卸さない。この表現では、こういう風にとられるのでは、こう受け取る人がいるかもしれない、こういう誤解をされると困る・・・てな具合に、色々足したくなる。

 

そうでなくても、伝わるかどうかが心配で、二の句三の句を継いでしまうこともある。

 

■言わなくても伝わるもの

こんな無駄の極致みたいなブログを書いておいて何を言うか、と思われるかもしれませんが、本当に言いたいことが伝わるのならば、言葉は必要ないのかもしれませぬ。

 

例えば、映画。色々あった二人の男女が、ただ見つめ合う。それだけでも、伝わるものはあるのです。

 

他にもきっとあるのでしょうが、最近、僕がそれを感じたのは『ローグ・ワン』のエンディングシーン。あの先、どうなるかは(2つの意味で)分かっている。でも、敢えてお互い何も言わない。

 

脚本家の立場から言えば、「何も言わせない」。でも、受け手には様々なことが伝わる。

 

表現する上では、これが最上なのかもなぁ、と思ったり。なのに、自分が何かをする時には、ついつい盛ったり、付け加えたり。

 

■てなことを考えたきっかけは

実は、白湯を飲み始めたから、だったりします。パイタンではありません(某方から拝借したネタ)。

 

白湯。要は単なるお湯ですが、コレがまあ、コレっていう味は当然ながら、ない。でも、味の違いは確実にある。家にある良い水を沸かしたのと、会社で飲む水道水を沸かしたヤツでは、味が違う。

 

そして、白湯を飲み慣れてくると、コーヒーやお茶の味の感じ方も変わる。たぶん、「何が足されているか」に敏感になるのではないか?というのが、僕の予想なんですけども。

 

ともかく。出来るだけ言葉も、他のいろいろなことも研ぎ澄ませて、足さずに伝える極意を体得したいなぁと思う今日この頃。

 

と、これだけの分量を書いといて言うことじゃないのだけれど。

わし流映画鑑賞録「沈黙ーsilenceー」

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■映画観てきましたんで。

今回の映画評は「沈黙ーsilenceー」です。マーティン・スコセッシ監督作品ですね。

 

chinmoku.jp

 

前にも書いたかもしれませんが、僕は決して映画通ではないです。別に映画の見方を勉強したこともないし。まあ、言わばフツーのおじさんです。

 

逆に、フツーのおじさんの映画評なんて読む機会がないはずなので、ぜひご参考になさってください(ほんとかよ)。

 

遠藤周作の小説を映画化

さて。この作品は遠藤周作原作の小説をスコセッシ監督が映画化したもの。キリスト教弾圧が厳しかった、鎖国中の長崎が舞台です。

 

ごく簡単にストーリーを紹介しますと、ポルトガルから日本に渡ったある敬虔な司祭が、棄教したらしい。この噂を聞いた若き司祭二人が、師匠の後を追って日本に渡る。そこで二人が見たものは・・・的な内容です。

 

こういう話だけに、キリスト教と日本の関係、神とは何か、宗教とは何か、救いとは?というようなことがテーマになります。

 

あ、ここからは壮大にネタバレしていきますので、見る予定の方はご承知おきを。

 

■ともかく静か。

この映画を見た人の多くが指摘するのが、「音楽」の少なさ。ほんとに、ほとんど音楽らしきものが流れない。テーマがテーマなので、パンパカパーンみたいな音楽が鳴るのもおかしいのですが、それにしても。

 

印象に残っている「音楽」といえば、殉教していく隠れキリシタン(モキチ)が歌う賛美歌くらいなもの。

 

しかし、その静けさというか、音楽のなさがまた、映画に緊張感をもたらしており。

 

■そしてエグい。

あのー、こんなエグい話でしたっけ?というくらい、エグい表現が頻出する。まあ、キリシタンを拷問にかけたりするシーンがあるわけで、当然そうなんですけども。にしてもエグい。絵的にもだけど、精神的にも、かなり来る。

 

前出のモキチが死ぬシーン、あるいはジュアン(洗礼名ね)やガルペ(こちらは司祭の後を追ってきた教え子の一人)が死ぬシーンも、精神的にかなりダメージが大きい。

 

ちょっとびっくりする描写も多いので、そういうのがニガテな方は要注意かも。

 

■それよりなにより、キチジロー。

でも、この映画を観た人はたぶん、この人について言及せざるを得ない、というくらいのキーパーソン、それがキチジロー。

 

この人、観れば分かるけど、まあ、何というか。

 

他の隠れキリシタンたちが信仰を棄てず、勇敢に(と言おうか何と言うか)殉教していく一方で、キチジローは何度も「踏み絵」(行為の方は「絵踏み」というらしいですね)をする。

 

挙げ句の果てには、同行していた若き司祭を幕府のお奉行様に密告し、売り飛ばす(司祭がいることを密告すると、銀300枚もらえたらしいですよ)。

 

で、もうキリスト教とは縁を切るのかと思いきや、司祭の後をつけ回して「パードレ(司祭様)!コンヒサン(告白)を!」と、罪の告白をして救われようとする。

 

■救いとは何か。

いやもう、観ててほんとに、コイツスゴいなと。劇中、キチジローは何度も何度も人や神さまを裏切る。かといって完全に信仰を棄てるわけでもない。そして、何度も何度も同じように、救いを求め続ける。

 

でもよ、と映画を見終わってしばらくした後、僕は思ったのです。

 

誰がキチジローを笑えるのかと。

 

彼を臆病者、卑怯者と言うのは簡単。でも、ああいう過酷なシチュエーションに立たされたとき、自分はキチジローのように振る舞うことはない、と言い切れるか。モキチのごとく、敢然と恐怖や死に立ち向かえると、自信を持って言えるのか。

 

 

■人間弱いし、流されるし。

人間弱いし、流されることもある。強く生きたいと思っても、ままならないこともある。同じ失敗や過ちを、何度も繰り返すこともある。

 

そういう人のことを「ダメなやつ」、「弱いヤツ」と切り捨てるのは簡単。でも、それで本当に良いのか?と。それは、現代社会でも同じこと。

 

何でもかんでも許す(あるいは赦す)ことが良いことなのか。でも、弱い人に手を差し伸べ、共に歩むことも必要なんじゃないのか。

 

ひょっとしたら、そんなことは神さまマターで、我々人間は「コイツはダメ、使えない」と切り捨てて良い、という意見もあるかもしれない。

 

でも、どうだろうか。僕個人としては、そういう弱い人、ある意味ナサケナイ人にも寄り添える人でありたい。何故ならば。僕自身がそういう弱く、ナサケナイ人だから。実際にできてるかどうかは、置いておくとしても。

 

そして、「救い」とは何か。罪を告白すれば救われるのか?果たして、キチジローは救われたのか。とかとか、色々考えてしまいました。

 

宗教のことはよくわからないので、そのあたりについては言及しませんが、とにかく、重たい映画でした。

 

一つだけ言えることは、デートで見に行かない方が良い、ということ。長いし。観終わった後、会話に困ること受け合いです。

僕とブログと言葉について


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■ニューヨークに来ています。

HAHAHA。どーも。こちらは朝です。いやー、来るまではてっきりトランプさんのあれやこれやで話題は持ちきりかと思いましたが、さすがニューヨーカー。切り替えが早いというか、もはやそんな話題はほとんど出ませんね。

 

嘘です。おばんです。

 

いや、なんか冒頭の写真が(私の思う)ニューヨークっぽかったので、つい嘘をつきました。悪気はありません。反省はしてません。

 

■何のために書くのか。

ここ最近、「このブログは何のために書いてるのか」を考えることがありまして。

 

はて、何でかな・・・と思いつつ、とりあえず感じたのは「自分が楽しいから」。僕は別にこのブログでマーケティングをしたいわけではないし、何かを売りたいわけでもない。

 

強いて言えば、「このおじさんに、何かコラムでも依頼してみようか」というオーダーがあればうれしいな、とは思うけれど。

 

あ、流れなんで書いときますが、原稿執筆、お受けします。聞き書き(インタビューからの原稿執筆)、ブログ代筆、コラムなどなど、お問い合わせくださいな(宣伝)。

 

宣伝もしたし、今日のブログはここまで・・・というわけにも行かんか。

 

あと、自分なりにアタマの中身を取り出して、確認する作業、という意味合いもあります。

 

■ブログを書いててうれしいとき

これはいくつかあって。まず、「自分が書きたいことを過不足なく書けたとき。僕はこのブログを、文章鍛錬の場とも考えているので、そういう意味でこれはうれしい。

 

次に、自分が「この人に伝われ」と思って書いたことが、ドンズバでその人に届いたと分かったとき。

 

これも当然ながら、うれしい。ブログへのコメントや会ったときの言葉で、あ、この人にあの記事は伝わったなと、僕が思うこともあれば、向こうから言ってきてくれることもある。

 

これは、僕にとってブログを続ける最大のモチベーションに近い。

 

最後に、特に誰に当てた訳でもない、あるいは、そのひとに当てた訳ではない文が、思わぬ誰かに届いたとき、ということもある。

 

これは正直、「届いた!」と分かることもあれば、分からないこともある。ただ、そういう実感を得ることは確かにある。本当にうれしい。

 

■言葉は刃物のようなもの

自分が書いた言葉が、予想外のところで、予想外の人に届いたり、響いたりする。コレは本当に不思議だし、うれしいことだ。

 

だからこそ、言葉は刃物のようなものだ、とも思うことにしている。何かを切ったり、削ったり、適切に使えば有用だけれど、振り回すと危ない。人や自分を傷付けることになりかねない。

 

そんなことを考えています。