スマホは便利、という話(当たり前)
■デジタルデトックスプチ
先日、約2日間のプチデジタルデトックスを敢行した。ふむ。「敢行した」と書くと、まるでモノスゴイことをしたように見えるけれど、そんなことはない。
という、実にゆるゆるなデトックスである。本当ならばスマホを置いていけば良いのだろうけど、写真だけは撮りたかったので、こういうルールにしてみた。
■その状態でどこに行くか
この状態で、土地勘がほぼないに等しい関西に行ってきた。もちろん、ある程度は事前に調べておいたから、結果的にさほど困ることはなかったのだけれど。
やってみて思ったのは「スマホって超便利」という、至極当たり前の結論だった。
例えば、この時間にA地点を出て、B駅からC駅に向かった場合、C駅のそばにあるD博物館の公開時間に間に合うか?何てことを調べたいとする。
スマホがあればちょいちょいで済むが、デジデト(略)の状態だと、まずA地点からB駅までの所要時間を考え、B駅からC駅に向かう電車と、時刻表を眺め、D博物館の公開時間をパンフか何かで調べるか、電話して聞くしかない。
■旅行先でも何とかなった
しかし、短期間の滞在だったとは言え、スマホがなくてもなんとかなった(たまには使ったけど)というのは、僕にとっては収穫だった。
もちろん、人と会う約束がなかったり、分刻みのスケジュールにしてたわけではなかったから、何とかなったのはあるけれど。
ただ、今後はスマホの利用率を落としていきたいな、ということも感じた。
■それはなぜかっちゅうと
スマホに頼ると、スマホと自分だけで世界が完結するからである。小さな話だけれど、充電があまりないから、地図アプリは厳しい。となれば、観光案内所で地図をもらうことから始める。
観光案内所でも「地図下さい」からコミュニケーションが生まれる。一言、二言だけど。
そして、地図を見て、移動経路を考える。「すみません、ここに行きたいんですけど、どのバスに乗れば良いですか?」と、ここでもコミュニケーションが生じる。
そういう様々なことを、僕は面倒臭がって、避けてきたのだ。
スマホは便利。でも、そこからは生まれ得ないものもある。そんなことを感じたデジタルデトックスでありました。
敵対心は劣等感の裏返し
photo by chisako abe
「敵対心は劣等感の裏返し」。その相手には適わない現実から相手を敵対視する。なンで、こンな態度を取るのだろうと不思議に思う人の本質は、「ねたみ」、「そねみ」、「やっかみ」。むやみに、誰にでも敵対する人は、大体この三つの「み」をコンプリートしているね。(小池一夫)
— 小池一夫 (@koikekazuo) 2017年2月16日
もう、本記事は「これな」で終わっても良いくらい、核心を突いている。
ただ、小池先生に楯突く訳ではないのだが、この3つ、違いがイマイチよく分からない。
妬み嫉み(ねたみそねみ)
他人を羨ましく思い、その分だけ憎らしいと思う感情。「嫉妬」と同義。「妬み」と「嫉み」はいずれも羨望と憎しみの入り混じった感情を表す。「妬み」は羨ましく口惜しい、腹立たしいといった意味合いが若干強い。「嫉み」は羨ましくて憎い、呪わしいといった意味合いが若干強い
出典:日本語表現辞典
もういっちょ。
やっかみ
(主に関東地方で)うらやみ。ねたみ。「やっかみ半分でうわさする」
出典:デジタル大辞泉
なるほど。
■まあ、要するに
何か自分にないもの、自分が敵わないなと思っているものを相手が持っていて(あるいは、自分がそう感じていて)、 それを素直に認められない時に、こういう感情が発露するんだろう。
冒頭、小池先生も言ってたね。「敵対心は劣等感の裏返し」。なるほどなるほど。
こういうフレーズにピンときたり、何か思うところがあったり、なおのことブログまで書こうというのだから、僕の中にこういう感情があるんだろう、と思う。
■持っていたいか、いたくないかで言えば
こんな感情を持っていても良いことはないし、自己嫌悪に陥るだけなわけで、持っていたくはない。
ただ、すぐにパンパカパーンと手放せるかと言えば、そこもまた難しい。何しろ、「反射」だから。
何か、自分にはない才能や実力を見たときに、妬みや嫉みを感じるのは、瞬間的な心の反応、反射であって、これを止めるのはなかなか難しい。
ただ、それが出てきたときに「また出てきたね」と受け止めることはできるだろう。そして、それを消化(あるいは消火か昇華か)することもできる、はずである。
それには、もう少し時間と修行が必要なようだ。とりあえず今日のところは、氣付いた分前進したとしよう。
記憶力がよろしくないことからの諸々
■おばんです。
Mr.鳥アタマを自称するくらいには、記憶力が良くない。昨日の昼飯がなんだったか、覚えてるかどうか怪しい。
それならまだしも、昼飯に唐揚げ定食を食べたのに、夜また唐揚げを食べようとするくらいには記憶力に乏しい(もしくは、唐揚げが大好き)。
だから、子どもの頃の思い出とか、面白エピソードなんかを話せる人を見ると感心する。「面白いから」というよりは(もちろんそれもあるけれど)、「良く覚えてるなぁ」という感心である。
■思い出せない~ことば~か~り~ある~の~
昔住んでたアパートの場所はさすがに覚えてるけど、何階の何号室だったかが思い出せない。
高校ですら、クラスメイトに会って、名前やあだ名をサッと思い出せる自信がない。
実際、ちょっと前に小・中学校の同級生と飲んだとき、「オレ、同じ中学校だっけ?」と言ってたら三年の時同じクラスだった、ということすらある。
ときどき子どもの頃の思い出を探ってみるのだけれど、正直な話、うまく思い出せない。小さい頃に好きだったオモチャだとか、こんなことあったよねー的なこととか。
昔好きだった女の子の名前すら思い出せなかった時には、さすがに愕然とした。まあ良いけど。
■感情の起伏が乏しい
家人に「何か良いこととか、嬉しいことがあって、嬉しくて人に話したくてしょうがない、なんてことある?」と聞かれたことがある。そういう、喜びを爆発させることがないようにみえるらしい。
実際、ない。当然ながら、僕にだって嬉しいことはあるし、喜ぶこともある。でも、「聞いて聞いて、こんな良いことがあったんだー!ウホー」的な表現をすることは、ほぼない。
少なくとも、ウホーに関しては過去一度もない。
いや、嬉しいし、喜んでるんだけど、それをウワーッと外に出す、ということがない。
と。ここまで来て「オイオイ、さっきの記憶力がない話とこの話、どう繋がんねん」と思ってる人がいるはず。これが僕の中では、バッチリ繋がるんである。
■記憶と感情は結び付いている
「記憶」は「感情」と強く結び付いている、と言われている。喜怒哀楽に関わる記憶は、強く残る。
逆もまた真なり、ではないかと僕は読んでいる。感情の起伏が小さいと、記憶にもあまり残らない。要するに、僕の記憶力の無さは、「感情が大きく動いていない」ことに起因するんじゃないのか?
僕は別に特別冷酷なわけではないと(自分では)思う。映画を観れば人並みに泣くし、ジャイアンの傍若無人ぶりには憤怒する(大げさ)。
でも確かに、感情の波が大きいか、激しいかと言われると、そうでもないかもなぁ、と思う。
■じゃあ、どーすんの?という話
もちろん、その瞬間瞬間は、いろいろな感情をキチンと感じているのである。
ああ、楽しいなとか、嬉しいなとか、イヤだなとか、悲しいなとか。ただ、それがどれほどの深さか、というと・・・自分ではよく分からない。
ただまあ、どうやっても他人にはなれないし、今から「感情をディープに感じるトレーニングをします」とか言うと、かなりキケンな感じがする(色々な意味で)。
こういう性格、もしくは脳回路(?)のおかげで、記憶力は悪いけれど、負の感情が長く続いてしまうことも少ない。怒りや悲しみも、そんなに長続きはしない方だ。
だから、これはこれでまあ、いいところもあるよなぁ、と思う。
逆に「感情の起伏が激しくて」という人を、僕は羨ましく思う。あなたはそれだけ人生を深く、豊かに味わえているではないですか!と言いたい。
特に、子どもたちに言いたいやね。笑って泣いて怒って悲しがって寂しくなって不機嫌になってまた笑うのが、人間だ。
どうかね?
人からの注目を集める人の特徴(トランプさんネタ再び)
photo by chisako abe
■おばんです。
日経ビジネスオンラインは、ついに「トランプ・ウォッチ」なる連載特集をスタートさせた。
以前から、日本はアメリカの51番目の州だとか、戦後ずっと植民地だった、という揶揄のような自虐のようでその通りのようなことを言われてきた。だから、アメリカ大統領の動向(特に就任直後)を追っかけるのは分かる(宗主国様の国家元首だもんね)。
でも、8年前もこんな感じだったっけなー?という感じがしていて。
とりあえず、選挙中に福井県小浜市が乗っかりに行ってた(小浜市はオバマ氏を応援しています!的な)のは覚えてるんだけど、大統領の一挙手一投足(と言っても過言ではあるまい)に、ここまで注目してたかなー。
と、思って何となく思ったのが、「予測不能な人ほど、注目を集める」ということ。
■それがどういうことかと言えば
この例えが適切かはわからないんだけど。
電車に乗ってて、フツーに本を読んでるダンディーな紳士に注目が集まるなんてことは、ないですよね。その人がズボンをはいてない、とかなら別だけど。
一方、独り言をブツブツ、ずーっと言ってる人とか、酔っ払って虚空に向けて何か言ってる人とか、あるいは、黙ってたとしても、金髪モヒカンのパンクスが車内にいたりすると、氣になるし、注目するでしょ。
今のトランプさんへの(僕の目には異常とも思えるほどの)注目度は、よーするにそういうことなんじゃないかと。
■悪いと言ってるわけじゃない
これは悪いことばかりじゃない。僕はこれを、どちらかと言えばポジティブに捉えている。
注目を集めるということは、それだけ人の目を惹きつけられるということだし、ある意味では発信力もある、ということ。
トランプさんの場合、意図的にやってるような印象も受けるし。わざとヒール(悪役)というか、「良識派」が眉をひそめるようなことを言ったりやったり、前例のないことを(わざと)やってみたりすることで、注目を集め、支持を受ける。
日常生活にもいますよね。何か言ったりやったりしたことが、自然と注目を集める人。
それはやっぱり、「先の読めなさ」に起因するのかなぁ、と思う。この人は次に何をするのか、何を言うのか?みたいな、予測不能な感じ。それが、ある意味期待感にもなって、人の注目を集めるのかなぁと。
■話は結局自分に向かう
自覚する限り、僕にはこの「予測不能感」はない。良識があって、常識の範囲内の言動だから、安心感はあるけれど、驚きはない。だから、衆目を集めることは、今まではあまりなかった。
まあ、それはそれで良いんだけど。
ただ、パンパカパーンと人の注目を集めてしまう人に憧れることもある。けども、それを本当の本当にやりたいか?と言われると、ちょっと分からない。
適材適所って言葉もあることだし、これはこれで良いのかなー、とも思いつつ。とりあえずは、予測可能な範囲で、驚かれもせず、ボチボチ安定してやっていこう・・・と、トランプさんを見ながら思うのでした。
自信がない(ことに氣が付いた)
Photo by Chisako Abe
■おばんです。
要するに、自信がないのです。こう書くと、誰が、と思われるかもしれませんが、当ブログでここまではっきりと言い切った場合、私のことを指しているわけです。
ここ最近、「ああ、私は自分に自信がないのだな」ということを感じることがあります。
というか、前々から氣付いてはいたのだと思うけれども、ここにきて、どうもそこに直面するというか、そのことに向き合わざるを得ない状況になってきたのだな、という感じがしています。
自信がないから、自分の外に軸を置きたくなるし、人からの評価を(必要以上に)氣にするようになる。
あるいは自分と他人を比べて、何となく優劣をつけてみたり、その結果、自分はダメだなあと思ったりする。
もちろん、いやいや自分、そんなことはないでっせ、意外とイケてまっせと持ち上げたりはするんだけど、それにしても、だ。
要するに、今の自分を有り体に言うと、あまり(というか、割と)良い状態ではない。
■で、どうしましょうかね?と。
とはいえ、このように「自分が今、良い状態ではないのだな」と分かるということは、それはそれでプラスだと捉えております。
要するに、それは自分を客観的に見られているということだから。たぶん。
とはいえ、自分に自信がない状態なのに、人から「自信持ちなよ!」と言われても困る。というか、持ちようがない。だから、自分で何とかするしか手段はない。
で、どうしましょうかね、と思っている。むしろ、どういう手を打とうか、決めかねている。違うな。どういう手があるのか、ヒントを探している。
■ヒント(1)自分との対峙
とりあえず、自分に自信を持つためには、自分をきちんと見つめて、自分が何をしたいのかを把握したい。
そのためには現時点で何ができていて、何ができていないのか、何が必要で、何が不必要なのかを見極めたい。
必要なのに「そんなもん、要らん」と突っぱねているものはないか。
反対に、不必要なのに「必要だ」と思い込んでるものはないか。それを考えてみること、かなあと思っている。
あとは、人と距離を置くことかなあとも。
僕はどーも、(これは鶏が先か、卵が先かに近い話なんだけど)人と自分を比べてしまう傾向にある。
それが自信のなさに起因するものなのか、あるいは、それをすることで自信を失ってしまうのかは、よくわからない。
ただ、自分でもやりたくはないわけだ。人と自分を比較するなんてことは。
だとするならば、人と適度に距離を取って、自分と対峙する時間を増やすことが必要なんじゃなかろうか、ということも感じる。
人といるのは決して嫌いではないけれども、自分とじっくりと向き合うためには、どうしても一人になる時間が必要なんじゃないか、とも思う。
■ヒント(2)旅に出ること。
旅行に出かける、というのも良いかもしれない。旅先では基本的に一人だし、自分がいる場所を変えることで、考えることや閃くことも変わってくるはずで。
うし。まずは旅行に出かけよう。そして、人と距離を置こう。その上で、自分としっかり対峙して、自分の自信の源を探しに行こう。よしよし、そうしよう。
とまあ、自分の考えをまとめるためにブログを利用するという、良いんだか悪いんだかわからない作業なのですが、まあいいか(笑)。
「醸された」ものの発露としての表現
photo by chisako abe
■おばんです。
端から見ていて、どーしてあの人はああいう(良い意味で)発想ができるのか、ああいうものが生み出せるのか、と不思議に思うことがあります。
例えば、コピーライティング。取り立てて特別な言葉を使っているわけでもないのに、何やら味わい深かったり、心に響いたりする。
あるいは、歌詞。これも、似たようなことをテーマにしているのに、スッと入ってくるものと、そうでもないものとがある。
僕らは幸せなことに文字を読むことができ、書くことができます。だから、ああいうコピーや歌詞なんかも、カンタンにスススーと書けるんじゃないか?と思う。
でも、そうは問屋が卸さない。
これはなぜかと。才能?センス?まあ、それもあるとは思うけども。
■その人の中から「醸されて」生まれるもの
何にしろ、「発酵する」あるいは「醸す」みたいなことが行われているんだろうなー、と思う。
出てきた瞬間だけ見ていると、何か、単なる思いつきのように見えるけれど、実はその前には、それまでに色んなものを見、いろんな話を聞き、色んなことを感じて積み重ねてきたものがあって、それが醸されて、何らかの形になって世に出る。
絵でもそう、書でもそうだろう。その人が話す言葉や、行動も、同じかもしれない。
人が生み出す全ての何かは、その人がその人なりに積み重ねてきたものの結晶だと言えると思う。
裏を返せば、単なる「思いつき」や「借りてきたアイデア」には、それがない。だから、薄く感じる。
■とかなんとか言うものの、だ
正直な話、ひょっとしたら僕が「スゴい!!」と思ってるものの中にも、単にどこかのアイデアや発想を借りてきただけのものもあるかもしれない。僕の眼が、必ずしも正しいとは思ってはいない。
ただ、自分としては、できる限り自分の中で熟成し、醸したものを言葉としても、文章としても、行動としても、出していきたいなぁと思う。
むろん、どこかから借りてこないと、にっちもさっちもどーしょうもないこともあるだろうけど。
なお、当ブログは(今のところ)私の中にあるものを醸して、ひねり出してお送りしております。
引いて生きる、ということ
photo by chisako abe
■おばんです。
駅や街角で、人とぶつかりそうになる。あるいは、肩と肩がぶつかる。はたまた、エレベーターを同じタイミングで降りそうになる。
ありますねー、こういうこと。
こんなとき、「すみません」と、スッと引ける人でありたいなぁと思うのです。別にこっちが100%悪いわけでもなく、はたまた、向こうが100%悪いわけでもない。
それなら、こっちが先に引けば良い話で。
■人と衝突することもある。
あ、これは物理的な話ではなく、ケンカとか言い合い、みたいな意味でだがね。
むろん、お互いに自分の意見が正しいと思っているから衝突するわけで、お互いに同じ意見なら何の問題も起こらない、はずだ。
だいたい、決定的な意見の相違や食い違いがある人とは、衝突するほど仲良くならないんじゃないか、と思う。そもそも、見てる世界が違いすぎれば、もはや衝突すらしない。
で、衝突するってことは、たいていちょっとした食い違いに端を発していたりする。何てことはない言葉の言い回しや、表現が引っかかっただけ、だったりする。
そんなときも、こちらがまず折れて出れば良い、と思う。自分の正しさを打ち出して生きるよりも、ぶつかった時には折れて受け流せば良い。
それが簡単にできれば苦労しねーよ、とは思いつつ。
■とは、言うものの、だ。
自分の意見を常に曲げて生きよう、とは思わない。自分の信条や信念に合わないことは、やらなくても良いと思う。
ただ、「絶対に自分が正しい」とは考えないようにしたい。「正しさ」を追いかけ続けると、しんどくなる。
まー、アタマでは分かってるんですがねぇ・・・という感じなんだけど。ともかく、そういうマインドだけは持ち続けていきたい。