わし流映画鑑賞録『サバイバルファミリー』

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これから、いつもの如く映画を見た感想を壮大にネタバレしながら書いていきます。今回の映画は『サバイバルファミリー』です。

 

ネタバレNGの方は、映画を見終わってから、ぜひ。

 

■これは、まぎれもなく僕らの物語。

この映画の評価は、このストーリーが「自分事」として受け取れるか、「他人事」かによって変わるかも、と思う。

 

設定は、突拍子もない。ある日、突然電気が使えなくなる。当然、電気を使う都市生活は大ダメージを受ける。でも、多くの人は「まあ、そのうち復旧するんでしょ」と鷹揚に構えている。ところが、それが数日にわたり・・・。

 

さすがに、こりゃアカンとなった鈴木さん一家。奥さんの実家がある鹿児島へ避難しようとする。電車が止まってるから、自転車で羽田まで向かうものの、当然飛行機も欠航。

 

そして鈴木さん一家は(なんと)自転車で「電気が通っている」という噂のある西へ向かうのだが・・・というお話。

 

■ツッコミどころは確かに多い。

そもそも、発電所や送電線の問題ではなく、いきなり電気が使えなくなる、なんてことは考えにくいし、車は関係ないだろー、とかは思った。

 

でも、重要なのはそこじゃない。たぶんこの監督は、その辺の整合性をとりあえず横に置いといて、「実際、こうなったらどーする?」を突きつけてきたのだろう(この辺は、映画評論家・前田有一さんの指摘で氣付いた。さすが)。

 

■「有り得た過去」、「有り得る未来」

3.11を経験した我々にとって、これは「あり得た過去」であり、「あり得る未来」でもある。

 

3.11では、地震の影響で発電所がストップしたのは福島第一原発だけだった。これはこれで未だに問題が続いているけれども、それでもまぁ、まだラッキーな方だったとも言える。

 

もし、首都圏直下型地震かなにかで送電システムがメッタメタになったなら。そのように見ると、「うわぁ」ってなる。

 

都会に限らず、現代に生きる我々は、意外なほど電気に依存して生きている。「これも?」というようなものも、電気がないとお手上げだ。

 

例えばガスメーターはいまや電気制御だし、水道も電気が止まれば(たぶん)止まる。

 

そういう世界に、僕たちは生きている。

 

しかも、忘れてはいけないのは「状況は、大して変わっていない」ということだ。僕らの生活は相変わらず電気に依存しているし、3.11のようなことが、再び絶対に起こらない、なんてことは、誰にも言えない。残念ながら。

 

■もし、本当に電気が止まったら。

ありとあらゆるインフラが麻痺するし、カネやブランドものなんて、何の意味も持たなくなる。

 

そのことを端的に表すのが、途中で出てくる米屋のエピソード。米の備蓄はある。ただし、水か食糧以外とは交換しない、という米屋のおばちゃん(渡辺えり)。

 

ロレックスを持ってきたお兄さんを「そんなもん、腹の足しにならないでしょ」と一喝する。確かに。

 

機械式腕時計なら動きはするかもしれないが、あらゆるインフラが止まった以上、時間なんて無意味だし、ブランドなんて、それ以上に意味がない。

 

本筋とは関係ないけど、この渡辺えりさんが出番は短いのにキョーレツだった。スゴいね。さすがの存在感。

 

■食事シーンで泣く。

我々はインフラは「ある」ことが「当たり前」と見るけれど、実際には「ありがたい」ことだと氣付くはずだ。

 

電気もガスも水道も、鉄道も飛行機も車も動かない。そんな状況で、どう生きる?まさに「サバイバル」だ。

 

そして、生活に密着した人々の力強さが描かれる。

 

僕はこの映画を見て、食事のシーン(須磨の水族館からの田中さんちのシーン)で泣いた。映画を観て、食糧のシーンで泣いたのは、たぶん初めてだと思う。

 

どんなシーンか。書くか書かないか、迷ったけれど、敢えて書かない。是非、見てほしい。

 

そのくらい、あのシーンは重たかった。

 

■全ては「当たり前」では有り得ない。

僕は、だからといって「全てを棄てて、昔に戻ろう!」とは言わないし、「田舎暮らし最強!」と言うつもりもない。

 

現代を生きる以上、電気が使えた方が便利だし、都会には都会の良さがある。もちろん、田舎には田舎の。

 

都会にいながら、自分と生活を少しだけ密着させる、ということは出来そうな氣がする。例えば、たまには電気を使わない生活をしてみる。キャンプに行くだけでも、普段の生活がどれだけ電気に頼っているかに氣付くはず。

 

エレベーターが動いて、電車が時間通りに来て、つまみをひねれば火が使えて、蛇口を開ければ飲める水が出る。ボタンを押せば風呂が沸き。ちょっと行けばコンビニでおむすびやパンが買え、大阪や九州、北海道までだって、ものの2~3時間もあれば着いてしまう。

 

これらは全て「当たり前」では有り得ない。そのことを突きつけてくる映画でありました。

 

で、結局何が言いたいかっつうと、「『サバイバルファミリー』、面白かったなぁ」ということである。みんな観た方が良いよ。以上!

自分の客は誰か。

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アカデミー賞でどうのこうの

アカデミー賞云々が話題になってますけども。個人的には、オスカーがどうのこうの、にはあんまり興味がない。へー、とは思うし、受賞作には多少興味は持つけれど。

 

もちろん、賞レースの行方をエンターテインメント的に楽しむのはありだと思うけれど、それは作品の評価とは直結しないし、ましてや自分の評価軸とは違って当たり前。

 

いくらアカデミー賞受賞作でも、自分が面白くないと思えば、そこまで。逆に、自分以外、誰一人評価しないようなクソ映画であっても、自分の心にしっかりと刻まれているなら、それはもう「名作」。そう思うことにしている。だから、出来るだけフィルターをかけずに作品に向き合おうと思っています。

 

とは言え、多くの人が「良いよ!」と言ってるものは、自分にとっても「良いもの」の確率が高いから、なるべく見たい、とも思っています。

 

昔は、皆が「良い」というものや、流行ってるものを出来るだけ避ける天の邪鬼体質だったのだけれど、それもなんか違うなぁ、と。何しろ、自分にとって、流行ってても面白いものは面白いし、つまんないものはつまんない。

 

■それは、自分が作る側も同じ。

自分が「面白い」、「こういうことを言いたい」という作品を作ることができたら、それはそれで決着が付いた、と思う。

 

そこにお金がついてくるのは(本当に)ありがたい。これまでは自分が作ったもので賞を頂くなんて機会はなかったけれど、それこそオマケの最たるもの、だと思う。

 

この順番が、長いこと、僕の中でテレコになっていたことに氣がつきました。文学新人賞を受賞して、パンパカパーンと文壇にデビューする。んで、文章を書いてメシを食う。

 

というビジョンを長いこと(若いときから、割と最近まで)持っていたのですが、あ、これ、違うわー、と思った。

 

自分が「面白い!」と自信を持って出せるものさえ作れれば、まずは満足。それが人に面白いと言ってもらえたり、評価してもらえるならば、それは望外の喜びであると。そんな感じが今はする。

 

まー、自己満足で終わっても仕方ないんだけど。まず、自分が楽しめないものは、人だって喜んでくれないでしょ?と思う。

 

■自分の客は誰か

プロは客が喜ぶものを提供しなきゃ、というご意見もあると思う。それもごもっとも。でも、僕はまず最初に自分が最初の客でありたいと思うわけです。

 

「こういうことを書いたらウケるかな」、「こういうネタは読まれるよね」みたいなことも、面白いし、求められることだとは思うけれど、それにしたって、まず自分という上顧客が喜んでくれないと始まらない。そんな氣がしています。

 

それは、このブログも同じ。もちろん、ブログで稼ごう!みたいな考えもなくはない(なくはないのですよ!)けれど、それにしたって、自分がまず読んで、書いて、面白いのが基本。そんな現在地を確認しております。

足さないことの価値  

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■「何も足さない、何も引かない」

これはサントリーウイスキー「山崎」のコピーですが、まあ、これって王道だよね、と思うのです。

 

特に、「足さないこと」の価値。

 

例えば、飲み物を買うとき。子どもの頃は、「出来るだけたくさん入ってる」、「出来るだけ甘い」みたいなことを判断基準にしていました。

 

だから、お茶を買うとか意味が分からなかったし、ましてや水など!水を買うくらいなら、その辺の公園で水を飲めば良いじゃない!と思ってました。

 

しかし、今はすっかり変わりまして。今は、出来るだけ何も入ってないものが良い。最近は水に味が付けてあるヤツとかありますが、個人的にはノーサンキュー。コーヒーも、砂糖やミルクは要らない派です。

 

■「足さない」勇気

「足さない」というのは、結構勇気がいることだと思います。ついつい、何か足したくなる。

 

Webや雑誌のデザインを見ていても、「足さないこと」を徹底するのは難しい。白を基調にして、サッパリしたデザインにできればカッコイイ、とは思いつつも、言いたいことや伝えたいことを積み重ねていくと、それがそうもいかないようで。

 

実は言葉も同じでして。

 

本当に伝えたいことを、スパッと短いセンテンスで表現出来さえすれば、それ以上何も足す必要は、本来はないのです。

 

ところが、そうカンタンには問屋が卸さない。この表現では、こういう風にとられるのでは、こう受け取る人がいるかもしれない、こういう誤解をされると困る・・・てな具合に、色々足したくなる。

 

そうでなくても、伝わるかどうかが心配で、二の句三の句を継いでしまうこともある。

 

■言わなくても伝わるもの

こんな無駄の極致みたいなブログを書いておいて何を言うか、と思われるかもしれませんが、本当に言いたいことが伝わるのならば、言葉は必要ないのかもしれませぬ。

 

例えば、映画。色々あった二人の男女が、ただ見つめ合う。それだけでも、伝わるものはあるのです。

 

他にもきっとあるのでしょうが、最近、僕がそれを感じたのは『ローグ・ワン』のエンディングシーン。あの先、どうなるかは(2つの意味で)分かっている。でも、敢えてお互い何も言わない。

 

脚本家の立場から言えば、「何も言わせない」。でも、受け手には様々なことが伝わる。

 

表現する上では、これが最上なのかもなぁ、と思ったり。なのに、自分が何かをする時には、ついつい盛ったり、付け加えたり。

 

■てなことを考えたきっかけは

実は、白湯を飲み始めたから、だったりします。パイタンではありません(某方から拝借したネタ)。

 

白湯。要は単なるお湯ですが、コレがまあ、コレっていう味は当然ながら、ない。でも、味の違いは確実にある。家にある良い水を沸かしたのと、会社で飲む水道水を沸かしたヤツでは、味が違う。

 

そして、白湯を飲み慣れてくると、コーヒーやお茶の味の感じ方も変わる。たぶん、「何が足されているか」に敏感になるのではないか?というのが、僕の予想なんですけども。

 

ともかく。出来るだけ言葉も、他のいろいろなことも研ぎ澄ませて、足さずに伝える極意を体得したいなぁと思う今日この頃。

 

と、これだけの分量を書いといて言うことじゃないのだけれど。

わし流映画鑑賞録「沈黙ーsilenceー」

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■映画観てきましたんで。

今回の映画評は「沈黙ーsilenceー」です。マーティン・スコセッシ監督作品ですね。

 

chinmoku.jp

 

前にも書いたかもしれませんが、僕は決して映画通ではないです。別に映画の見方を勉強したこともないし。まあ、言わばフツーのおじさんです。

 

逆に、フツーのおじさんの映画評なんて読む機会がないはずなので、ぜひご参考になさってください(ほんとかよ)。

 

遠藤周作の小説を映画化

さて。この作品は遠藤周作原作の小説をスコセッシ監督が映画化したもの。キリスト教弾圧が厳しかった、鎖国中の長崎が舞台です。

 

ごく簡単にストーリーを紹介しますと、ポルトガルから日本に渡ったある敬虔な司祭が、棄教したらしい。この噂を聞いた若き司祭二人が、師匠の後を追って日本に渡る。そこで二人が見たものは・・・的な内容です。

 

こういう話だけに、キリスト教と日本の関係、神とは何か、宗教とは何か、救いとは?というようなことがテーマになります。

 

あ、ここからは壮大にネタバレしていきますので、見る予定の方はご承知おきを。

 

■ともかく静か。

この映画を見た人の多くが指摘するのが、「音楽」の少なさ。ほんとに、ほとんど音楽らしきものが流れない。テーマがテーマなので、パンパカパーンみたいな音楽が鳴るのもおかしいのですが、それにしても。

 

印象に残っている「音楽」といえば、殉教していく隠れキリシタン(モキチ)が歌う賛美歌くらいなもの。

 

しかし、その静けさというか、音楽のなさがまた、映画に緊張感をもたらしており。

 

■そしてエグい。

あのー、こんなエグい話でしたっけ?というくらい、エグい表現が頻出する。まあ、キリシタンを拷問にかけたりするシーンがあるわけで、当然そうなんですけども。にしてもエグい。絵的にもだけど、精神的にも、かなり来る。

 

前出のモキチが死ぬシーン、あるいはジュアン(洗礼名ね)やガルペ(こちらは司祭の後を追ってきた教え子の一人)が死ぬシーンも、精神的にかなりダメージが大きい。

 

ちょっとびっくりする描写も多いので、そういうのがニガテな方は要注意かも。

 

■それよりなにより、キチジロー。

でも、この映画を観た人はたぶん、この人について言及せざるを得ない、というくらいのキーパーソン、それがキチジロー。

 

この人、観れば分かるけど、まあ、何というか。

 

他の隠れキリシタンたちが信仰を棄てず、勇敢に(と言おうか何と言うか)殉教していく一方で、キチジローは何度も「踏み絵」(行為の方は「絵踏み」というらしいですね)をする。

 

挙げ句の果てには、同行していた若き司祭を幕府のお奉行様に密告し、売り飛ばす(司祭がいることを密告すると、銀300枚もらえたらしいですよ)。

 

で、もうキリスト教とは縁を切るのかと思いきや、司祭の後をつけ回して「パードレ(司祭様)!コンヒサン(告白)を!」と、罪の告白をして救われようとする。

 

■救いとは何か。

いやもう、観ててほんとに、コイツスゴいなと。劇中、キチジローは何度も何度も人や神さまを裏切る。かといって完全に信仰を棄てるわけでもない。そして、何度も何度も同じように、救いを求め続ける。

 

でもよ、と映画を見終わってしばらくした後、僕は思ったのです。

 

誰がキチジローを笑えるのかと。

 

彼を臆病者、卑怯者と言うのは簡単。でも、ああいう過酷なシチュエーションに立たされたとき、自分はキチジローのように振る舞うことはない、と言い切れるか。モキチのごとく、敢然と恐怖や死に立ち向かえると、自信を持って言えるのか。

 

 

■人間弱いし、流されるし。

人間弱いし、流されることもある。強く生きたいと思っても、ままならないこともある。同じ失敗や過ちを、何度も繰り返すこともある。

 

そういう人のことを「ダメなやつ」、「弱いヤツ」と切り捨てるのは簡単。でも、それで本当に良いのか?と。それは、現代社会でも同じこと。

 

何でもかんでも許す(あるいは赦す)ことが良いことなのか。でも、弱い人に手を差し伸べ、共に歩むことも必要なんじゃないのか。

 

ひょっとしたら、そんなことは神さまマターで、我々人間は「コイツはダメ、使えない」と切り捨てて良い、という意見もあるかもしれない。

 

でも、どうだろうか。僕個人としては、そういう弱い人、ある意味ナサケナイ人にも寄り添える人でありたい。何故ならば。僕自身がそういう弱く、ナサケナイ人だから。実際にできてるかどうかは、置いておくとしても。

 

そして、「救い」とは何か。罪を告白すれば救われるのか?果たして、キチジローは救われたのか。とかとか、色々考えてしまいました。

 

宗教のことはよくわからないので、そのあたりについては言及しませんが、とにかく、重たい映画でした。

 

一つだけ言えることは、デートで見に行かない方が良い、ということ。長いし。観終わった後、会話に困ること受け合いです。

僕とブログと言葉について


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■ニューヨークに来ています。

HAHAHA。どーも。こちらは朝です。いやー、来るまではてっきりトランプさんのあれやこれやで話題は持ちきりかと思いましたが、さすがニューヨーカー。切り替えが早いというか、もはやそんな話題はほとんど出ませんね。

 

嘘です。おばんです。

 

いや、なんか冒頭の写真が(私の思う)ニューヨークっぽかったので、つい嘘をつきました。悪気はありません。反省はしてません。

 

■何のために書くのか。

ここ最近、「このブログは何のために書いてるのか」を考えることがありまして。

 

はて、何でかな・・・と思いつつ、とりあえず感じたのは「自分が楽しいから」。僕は別にこのブログでマーケティングをしたいわけではないし、何かを売りたいわけでもない。

 

強いて言えば、「このおじさんに、何かコラムでも依頼してみようか」というオーダーがあればうれしいな、とは思うけれど。

 

あ、流れなんで書いときますが、原稿執筆、お受けします。聞き書き(インタビューからの原稿執筆)、ブログ代筆、コラムなどなど、お問い合わせくださいな(宣伝)。

 

宣伝もしたし、今日のブログはここまで・・・というわけにも行かんか。

 

あと、自分なりにアタマの中身を取り出して、確認する作業、という意味合いもあります。

 

■ブログを書いててうれしいとき

これはいくつかあって。まず、「自分が書きたいことを過不足なく書けたとき。僕はこのブログを、文章鍛錬の場とも考えているので、そういう意味でこれはうれしい。

 

次に、自分が「この人に伝われ」と思って書いたことが、ドンズバでその人に届いたと分かったとき。

 

これも当然ながら、うれしい。ブログへのコメントや会ったときの言葉で、あ、この人にあの記事は伝わったなと、僕が思うこともあれば、向こうから言ってきてくれることもある。

 

これは、僕にとってブログを続ける最大のモチベーションに近い。

 

最後に、特に誰に当てた訳でもない、あるいは、そのひとに当てた訳ではない文が、思わぬ誰かに届いたとき、ということもある。

 

これは正直、「届いた!」と分かることもあれば、分からないこともある。ただ、そういう実感を得ることは確かにある。本当にうれしい。

 

■言葉は刃物のようなもの

自分が書いた言葉が、予想外のところで、予想外の人に届いたり、響いたりする。コレは本当に不思議だし、うれしいことだ。

 

だからこそ、言葉は刃物のようなものだ、とも思うことにしている。何かを切ったり、削ったり、適切に使えば有用だけれど、振り回すと危ない。人や自分を傷付けることになりかねない。

 

そんなことを考えています。

スマホは便利、という話(当たり前)

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■デジタルデトックスプチ

先日、約2日間のプチデジタルデトックスを敢行した。ふむ。「敢行した」と書くと、まるでモノスゴイことをしたように見えるけれど、そんなことはない。

 

 

という、実にゆるゆるなデトックスである。本当ならばスマホを置いていけば良いのだろうけど、写真だけは撮りたかったので、こういうルールにしてみた。

 

■その状態でどこに行くか

この状態で、土地勘がほぼないに等しい関西に行ってきた。もちろん、ある程度は事前に調べておいたから、結果的にさほど困ることはなかったのだけれど。

 

やってみて思ったのは「スマホって超便利」という、至極当たり前の結論だった。

 

例えば、この時間にA地点を出て、B駅からC駅に向かった場合、C駅のそばにあるD博物館の公開時間に間に合うか?何てことを調べたいとする。

 

スマホがあればちょいちょいで済むが、デジデト(略)の状態だと、まずA地点からB駅までの所要時間を考え、B駅からC駅に向かう電車と、時刻表を眺め、D博物館の公開時間をパンフか何かで調べるか、電話して聞くしかない。

 

■旅行先でも何とかなった

しかし、短期間の滞在だったとは言え、スマホがなくてもなんとかなった(たまには使ったけど)というのは、僕にとっては収穫だった。

 

もちろん、人と会う約束がなかったり、分刻みのスケジュールにしてたわけではなかったから、何とかなったのはあるけれど。

 

ただ、今後はスマホの利用率を落としていきたいな、ということも感じた。

 

■それはなぜかっちゅうと

スマホに頼ると、スマホと自分だけで世界が完結するからである。小さな話だけれど、充電があまりないから、地図アプリは厳しい。となれば、観光案内所で地図をもらうことから始める。

 

観光案内所でも「地図下さい」からコミュニケーションが生まれる。一言、二言だけど。

 

そして、地図を見て、移動経路を考える。「すみません、ここに行きたいんですけど、どのバスに乗れば良いですか?」と、ここでもコミュニケーションが生じる。

 

そういう様々なことを、僕は面倒臭がって、避けてきたのだ。

 

スマホは便利。でも、そこからは生まれ得ないものもある。そんなことを感じたデジタルデトックスでありました。

 

敵対心は劣等感の裏返し

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photo by chisako abe

 

 

 

もう、本記事は「これな」で終わっても良いくらい、核心を突いている。

 

ただ、小池先生に楯突く訳ではないのだが、この3つ、違いがイマイチよく分からない。

 

妬み嫉み(ねたみそねみ)

他人を羨ましく思い、その分だけ憎らしいと思う感情。「嫉妬」と同義。「妬み」と「嫉み」はいずれも羨望と憎しみの入り混じった感情を表す。「妬み」は羨ましく口惜しい、腹立たしいといった意味合いが若干強い。「嫉み」は羨ましくて憎い、呪わしいといった意味合いが若干強い

出典:日本語表現辞典

 もういっちょ。

やっかみ

(主に関東地方で)うらやみ。ねたみ。「やっかみ半分でうわさする」

出典:デジタル大辞泉

 

なるほど。

 

■まあ、要するに

何か自分にないもの、自分が敵わないなと思っているものを相手が持っていて(あるいは、自分がそう感じていて)、 それを素直に認められない時に、こういう感情が発露するんだろう。

 

冒頭、小池先生も言ってたね。「敵対心は劣等感の裏返し」。なるほどなるほど。

 

こういうフレーズにピンときたり、何か思うところがあったり、なおのことブログまで書こうというのだから、僕の中にこういう感情があるんだろう、と思う。

 

■持っていたいか、いたくないかで言えば

こんな感情を持っていても良いことはないし、自己嫌悪に陥るだけなわけで、持っていたくはない。

 

ただ、すぐにパンパカパーンと手放せるかと言えば、そこもまた難しい。何しろ、「反射」だから。

 

何か、自分にはない才能や実力を見たときに、妬みや嫉みを感じるのは、瞬間的な心の反応、反射であって、これを止めるのはなかなか難しい。

 

ただ、それが出てきたときに「また出てきたね」と受け止めることはできるだろう。そして、それを消化(あるいは消火か昇華か)することもできる、はずである。

 

それには、もう少し時間と修行が必要なようだ。とりあえず今日のところは、氣付いた分前進したとしよう。