「やりたいこと」と「やりたくないこと」の間
Photo by Chisako Abe
■さて。
前回の続き。前回は、こんなところで終わっていたはずだ。
「やりたいことだけやる」というのも、大いに結構。でも、「やりたいこと」の中に微量の「やりたくないこと」が含まれることもある。そんなときはどーする?という話もある。
今回は、このテーマについて書いていく。
■「やりたいこと」に「やりたくないこと」が混ざるなんて、良くあること
ここからはあくまでも僕の感覚だったり、意見なので、「絶対そうだ」と言うつもりはない。というか、誰の意見だって「絶対そう」なんてことはないし、誰の意見だって「絶対に違う」と否定されるものではない。
水が100℃で沸騰するなんてことも、「地球上では概ねそう」なだけで、「絶対にそう」とは言い切れない。例えば、標高が高くなればなるほど、沸点が下がることは皆さんご存知のはずだ。そういう例外が地球上にある以上、「絶対そう」とは言えないだろう?
話がそれた。
僕が思うに、やりたいことだけやってハッピー!ハッピー!!なんてことは、あんまりない。いや、そんなことばっかりでっせ、という人は、その状況がとても幸せなんだ、と思った方が良い。というのが僕の感覚だ。
実際、三次元世界では、自分がやりたいことをやってるんだけど、そこにどうしてもやりたくないことが含まれる、なんてことが起こる。日常茶飯事だ。
例えば、イベントを開催したい。準備や企画を立てるのは良いんだけど、人を集めるのがシンドイ、とか。何か自分が好きなもの、良いものを広めたいのだけれど、営業をするのはちょっと・・・とかとか。
まあ、あるよね。というか、僕が「人に何かを勧めたり、営業活動をする」のが苦手、というのが前面に出過ぎてるなとは思うけれども。
僕の結論だけ言えば、「やりたくない」ことを「やりたくない」のであれば、その「やりたいこと」はその程度だってことだ。
■「やりたくないこと」すら楽しくなる「やりたいこと」
年下の友人と話をしていて、上記の結論にたどり着いた。彼は年下なのに実に尊敬できる人間なのだけれど、彼がこんなことを言っていた。
「本当にやりたいことをやっている時は、やりたくないことですら、楽しくなっちゃう」。
例えば、朝早く起きるのが苦手でも、やりたいことを実現するために早く起きるのが苦でなくなる。そんなことはある。それこそが「ワクワク」であり、「本当にやりたいこと」だ。
つまり、プラスがマイナスを上回る、あるいは、プラスの力でマイナスがプラスになる。そういう力が、本当に「やりたいこと」にはある。
もちろん、個人の性格や資質に左右されることはある。イヤでイヤでたまらないことを「それでもやるんだよ!」といって続けるのがその人にとって必要だと言いたいわけではない。
ただ、その「やりたくないこと」が、自分が「やりたいこと」を前進させるためにどうしても必要なことなのであれば、どうにかするしかないし、どうにかするでしょ?とも思う。
例えば、自分が「やりたくないこと」が好きで好きで、やりたくてしょうがない人を探して手伝ってもらう、とか、自分がやれるような仕掛けを何か考えるとか、そういう意味での「どうにかする」だ。
■それを誰に言ってるかっつーと、だ。
「やりたくないとか、甘っちょろいこと言ってんじゃねー、気合だ気合」と言うつもりは一切ない。僕も「やりたくないこと」は出来ればやりたくない派だからだ。
ただ、前回も引用した「文句を言いながらでも続けられそうなことは続けてみる」という糸井重里の言葉が、ここでも効いてくる。本当に自分がやりたいのなら、やりたくないことも、ブツブツ文句を言いながらでも続けてみたらいい。
と、最近、自分自身に語り掛けている。
長く物事を続けることのデメリットとメリット
■あるよね、あるよ、と思う。
物事が長く続くと、良くも悪くも「それ前提」で考える回路が出来上がる。例えが適当かどうか分からないけれど、『ちびまる子ちゃん』。アニメ版の方ね。
僕らはもう、日曜日の18時からのフジテレビは『ちびまる子ちゃん』、18時半からは『サザエさん』を放送しているもの、と認識している。
『サザエさん』は僕が物心つく前からやってるから別格としても、放送開始当時を知ってる『ちびまる子ちゃん』ですら、既に「当たり前感」が出始めている。
例えば、『ちびまる子ちゃん』以前、フジテレビで日曜18時に何を放送してた?と聞かれて、パッと思い出せる人は少ないはず。それだけ、その前提が染み込んでいる。
これは、良くも悪くもない。人間は「そういうもん」だ。
■問い続けよう、自分に
僕らにフジテレビの編成権はないし、「笑点」の司会を小朝師匠に替えることもできない。太陽を西から登らせることも、東に沈ませることも、今のところ不可能だ。その他に関してはともかく、太陽に関してはたぶんこの先も当分無理だろう。
だからこそ、自分で変えられることについては「ほんとにそれで良いの?」と、常に自分に問い掛け続けたいと思う。自分の習慣や考え方は変えられる。今のところ「コレがベスト!」と思っていても「いやいや、コレもあるかも?」と考えてみる柔軟さは持ち続けたい。
結果、「いろいろ試してみた結果、これが今のところのベストなんですよねぇ」というくらいに落ち着くのが、心地良い感じがしているのです。
■逆に、ではないけれども。
物事を長く続けるメリットも、もちろんある。パッと思いつくことで言えば、最初はシンドイなぁと思っても、続けているうちに、何となく「まあ、別にフツーですよ」と感じられるようになること。
別に、どーしてもイヤなことは、続けなくても良いと思う。それがどーしてもイヤでイヤでたまらないのなら。
糸井重里という人は、多分世の中的には賛否両論ある人だろうと思う。いや、賛否両論ない人なんてこの世にはいないな。たいていの人は賛否両論ある人だわな。えーと。何の話だ。そう。糸井重里。僕は割と彼の言ったりやったりすることは好きだ(ジャイアンツファンなのはいただけないけれど、プロ野球全体への愛も感じるしね)。で、イトイさんは仕事について、こんなことを言っている。
ワクワクすることが見つからない人には、ひとつだけアドバイスがある。「絶対にやりたくないことからは逃げる」と心に決めること。
ほうほう。なるほどね。でも、興味深いのは、実はここからだったりする。
これは逆説でもあって、「絶対に」が付かない程度の、文句を言いながらやれることなら、逃げずにやり遂げろということ。そうしているうちにワクワクが見つかるから。
僕も今まで、いろいろなことから逃げてきた。でも、文句を言いつつも、続けてきたこともある。確かに、それが今の僕を形作っているようにも感じる。
「やりたいことだけやる」というのも、大いに結構。でも、「やりたいこと」の中に微量の「やりたくないこと」が含まれることもある。そんなときはどーする?という話もある。
おっと。この続きは、長くなったからまた今度。
手帳と私
■手帳を忘れる
昨日、手帳を忘れた。普段はカバンに入れっぱなしなので、まず忘れないのだけれど、たまたま忘れた。
すると、自分がけっこう手帳に頼ってることに氣付いた。
スケジュールの管理には手帳も使うし、スマホのカレンダー機能も使うハイブリッド派なんだけども、それでも、手帳が必要なんである。
■私に手帳が必要な5つの理由
ハイ、ソレっぽい中見出し付けてみたよ。それはそうと、私がどのよーに手帳を使っているのか、だ。
・前日の私からの申し送り
何を言ってるのか、と思われるかもしれないけれど、これは意外に重要である。要するに昨日はどんな仕事をして、どこまで作業が終わってて、今日はどこから何をするか、をメモしておく。
こう書くと、まるでおじいちゃんのようだけれども、やっといて損はない。リアルにすっかり忘れていることなんかもあるから、油断ならない。
・自分が考えたことのアウトプット
これも備忘録に近い。アイデアや考えたことなどを、とりあえず手帳に書き留めておく。何でもいい。
最近メモしたことで言うと「『なぜ』よりも『なんのために』を追求した方が良い感じ」とか「競争から生まれるものもあるけれど、競争からは決して生まれないものもある」とか書いている。
「コーヒー買うこと」とかもメモしてる。「ごま油も」だと。知らんがな。
そう、ここからブログのネタが生まれることもある。
・調べたことのメモ、引用
例えば「参加」と「参画」、「接遇」と「接客」の違いなどを調べる。その時は「ほへー」と理解するのだけれど、たいてい忘れる。ので、メモる。
また、Webの記事などを読んでると、これまた「ほへー」と感心することがある。これもメモる。
こうしておくと、過去に私がどういうことに興味を持っていたか、何を考え、何を調べたのかの記録が残る。案外、過去の自分が調べたことを読んで「ほへー」と感心したりする。アホみたいだが。
・スケジュール管理
うん。普通にね。ただ、手帳にペンで書く場合、ペンの色で「仕事(本業)」「仕事(副業)」「遊び」という感じに書き分けるのが容易である。スマホでも出来るんでしょうけど。
・日記とか、自問自答とか、2017年にやりたいことリスト、とか
こっそりと日記を書いております。ええ、ブログの他に日記です。ただ、これも後日まとめて書いたりするわけですが。これも、読み返すとなかなか味わい深い。
それから、何かモヤモヤっとしたときは、そのモヤモヤの中身を手帳に書いたりする。これ、細かいことは別途書きますね。ちゃんと説明すると長くなる(笑)。
2017年にやりたいことリストは、まあそのまんま。随時更新してます。
誰得なのかサッパリ分からないけれど、とにかく僕はこのように手帳を使ってますよ、という話でした。
大きなことを小さく考える
■肩こリストの独り言
昔は肩こりとは無縁だったし、何それ美味しいの?と思っていたし、説明を聞いてもピンとこないなと思っていたのです。
しかし、実際に自分がなってみると、なるほど説明しがたいものではありますよね。
「痛いの?」
「んまぁ、痛いっていうか・・・」
「重たくなる感じ?」
「それもあるんだけど、ねぇ」
「ゴリゴリする?」
「当たらずとも遠からずっていうか」
「じゃあ何なん?」
「うーん、肩こりとしか言いようがない」
みたいな。
■不快感を分解してみる
そこで「私は肩こりなのだッ」と頑なに思ってしまうと、まあ、肩こり確定ということになるかなと。
いや、症状としては既にあるんだから、肩こりでしょ?と思われるかもしれませんが、そうとも言えるし、そうではないとも言える。
先日、小池龍之介さんの『「自分」から自由になる沈黙入門』という本を読みまして。
この本によれば、きっとこんなブログを書くなんてのも、自己愛の表れだといわれるのでしょうが、それはさておき。
面白いなぁと思ったのが、「不快な感情」を分解してみよう、という考え方(概要)。
漠然と「不快感」を捉えると、取り扱いが難しくなってしまう。そこ止まりになる。そこで、その対象を「見つめる」、「解剖してみる」という考え方です。
■不快感の中に何があるか
例えば、何か腹立たしいことがあったときに「腹立つ」をそのまんまで受け止めると、とにかく腹立つ!となる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いシステムになる。改めて考えると、ムチャクチャだけど。
そこで、腹立つ感情の中にはどんなものが含まれているのかを分析してみてはいかが?と。
腹立たしい出来事の中にも、よくよく分解してみると「これはそうでもないな」とか「ここはまぁ、エエやないか」とか「むしろ、この部分に限っては喜ばしいことなんじゃないか」なーんてことに氣付けるかもしれない。
そして、そうやって分解して見ていくと、不快感が消えていく、というのが小池さん(というか仏教)の見解であると。
何か大きな物を、大きなままとらえようとすると、掴みどころがなくて漠然と捉えてしまう。結果、「何となくイヤだ」、「何となく大変そう」と感じて、ますますイヤになることもある。
でも、小さく切り分けていくと、輪郭や取っ掛かりが見えてくる。そうすると、解決の糸口が見えてきたり、そもそも問題なんかなかった!と思うことすらある。
そういうことってありますよねぇ。
20170131_時間について
■ひと月が長く感じる、ということは。
■歳を取ると、時間が過ぎるのが早くなる理由、のようなもの
1. 学びつづける2. 行ったことのない場所を訪ねる3. 新しい人に会う4. 新しい活動にチャレンジする5. 自発的になる
■2月も時間を延ばしていこうかなと
自分で書いたブログですけども(笑)。まあ、これをやってみようかなと。
20170130_コンパニオンプランツ的生き方
■そもそもコンパニオンプランツとは
「コンパニオンプランツ」というのがあるらしくて、とても良いなぁ、と思った。
コンパニオンプランツとは「共栄作物」とか「共存作物」と言うらしく、コイツとアイツを一緒に植えとくと何かとエエで、という組み合わせのこと。
例えば、トマトとバジルを一緒に植えると、トマトに付きやすい害虫を遠ざけ、トマトも美味しくなる、らしい。しかもすぐにトマトソースも作れる。違うか。
または、サトイモとショウガを一緒に植えると、サトイモのつるの陰でショウガが良く育ち、両方生育が良くなる、なんてのもある。
ネギの根っこにいる菌が、他の植物の病気を防ぐ、なんて組み合わせもあるそうなので、奥が深い。
ちょっと調べた程度だから、詳しくは分からないけど。
■バジルはバジルを生きる
「許容しあえる世界」というのが、ここしばらく(というか、たぶんこの先もしばらく)僕の中でのテーマになっている。多様性を認める世界、と言ってもいい。
そこでキーワードになるのは、こういうコンパニオンプランツ的な考え方なのかなぁ、と思う。
別にバジルは「トマトさんのお役に立ちまっせ」と思って生きている訳ではないし、サトイモにしても当然そう。
ただ、己を100%生きる、もしくは生きようとすることが、結果として他の人の役に立っている、ということ。
たぶん、人間が「雑草」と表現してしまう、道に生えている草も、どこかで何かの役に立っているんだろう、と思う。
■自分の人生を大切に生きる
だから、人間も「自分は何の価値もない、役に立たない」と思う必要はないんだよなぁ、と思う。ただ、自分の人生を大切に生きようとさえしていれば。
その結果、そのことが誰かのお役に立つ、あるいは既にお役に立っているかもしれない。
「人の役に立とう」と志を立てるのも素晴らしい生き方だし、良いことだと思う。でも、まず自分の人生をしっかりと、自分が満足できるように生きる。その結果、そのことが人の役に立っていたというのも、とても素晴らしい在り方じゃないかな、と思う。
自分にとって喜ばしい生き方が、結果として人の役に立つ。そういう人でありたいと僕は思っています。
20170129_信念について
■こんな記事を読んだ
僕も一応ビジネスパーソンの端くれなので、日経ビジネスオンラインなど、たまに読むわけです。意外と面白い。
んで、先日「そりゃそーだよなぁ」と思った記事がありました。
トランプさんがアメリカ大統領になりましたけど、どうっすか(要約)?という質問に、建設機械大手であるコマツの社長が答えた記事なのですが、あまりにもまともだったので、備忘録としてブログを書きたいなと。
しっかりした会社にはしっかりした信念があります。政策変更なんて当たり前の話で、それにいちいち左右されて信念を変えていたら、すぐ死んでしまいますよ。
我々はこれまで、もっと大きな波を乗り越えてきました。鉱山機械の世界需要は過去7年で5分の1になってしまった。そういう大きな波が、この数十年続いてきたんです。そういう業界にいる人間からしたら、「何が心配なんですか」というくらいにしか思っていません。
(大橋徹二氏 コマツ社長兼CEO)
■目からウロコというか、何というか
トランプさんが大統領になったからあーだのこーだの、日本経済にはどんな影響があるのかーだのと言ってる人が多い中で、「何が心配なんですか」ときたか・・・と。
別に僕はコマツが好きでも嫌いでもないし、株主でもないし、従業員でもない。ですが、ここまでビシッと言ってくれる社長がいる会社は、強いだろうなと思います。
■このことって、実は
でまあ、これ、この人はトランプさんが大統領になったことについて言ってるわけなんですが、我々に起きる多くのことにも当てはまるよなぁ、と。
僕たちは、やれ景気が悪いだの、政治が悪いだの、次の流行りはどうだの、AIが人間の仕事を奪うだの、あの人がこう言っただの、社会がどうだのと、ついつい考えてしまいます。
でもそれは、どこまで行っても外部要因であって、「時代が変わる」、「社会が変わる」なんて、当たり前のこと。
「しっかりした会社には、しっかりした信念がある」ように、「しっかりした人間には、しっかりした信念」があるはずなのです。
信念、なんて偉そうなことを言わなくても良いのですが。要するに世の中に自分を合わせて生きるのか、それとも世の中は世の中、人は人と捉えて、自分がありたい姿を目指して生きるのか。
うん。そういうことを改めて問われたような氣がします。