20170128_自然にワクワクすることについて


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■自然にワクワクする昨今

僕は元々比較的都会の人で、子供の頃はずっと集合住宅で暮らしていました。たまに親に連れられてキャンプに行ったりはしたものの、そこまで本格的にアウトドアで過ごす、ということをしてきませんでした。

 

だから、というわけでもないのですが、最近自然とか、アウトドアみたいなものが非常に楽しい。

 

なぜか、自然にワクワクするわけです。なぜかを考えてみたら、「先が読み切れないから」ではなかろうかと思ったのです。

 

■人が作ってないから、楽しい

テレビやゲームも楽しいのだけれど、どこまで行っても人が作ったものです。だから、先が読める・・・訳ではないけれど、まあ、パターンや過去に似たようなものを観たことがある、と思ったりもする。

 

あ、人が作った物も好きですよ。もちろん。小説や映画は好んで読んだり観たりするし、お芝居もいい。

 

けれど、自然は人が作った物とはちょっと違う。過去と全く同じ、ということはほぼないし、仮にそうだったとしても、分からない(笑)。

 

例えば、火熾し。かまどに火を入れようとするんだけれど、うまく行かない(笑)。前はこれでうまく行ったはずなんだけど・・・というのが、たまに失敗する。

 

これがおもしろい。だから、再現出来るとちょい、いやかなり、うれしい。スキルが身についていく感覚がある。

 

■大空を眺めていても

東から陽が上り、西へ沈む。太陽の動きは常に変わらないし、いつが満月でいつが新月とか、そういう天体の動きもある程度一定だとは思うのだけれど、それでも、空が見せる表情はいつも違う。

 

いやー、おもしろいなぁと思う。

 

僕にとっては、自然はちょうど良いくらい、未知の物が混ざっているらしい。というか、自然を完全に理解するなんて、有り得ないかもね。そうすると、永遠にワクワクし続けることになる。

 

うん。悪くない(笑)。

20170127_ワクワクの成分表を作る


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ドラえもんと「ワクワク」

ドラえもん。ありますね、ドラえもん。あの、青いカラーリングの猫型ロボットが主人公のマンガ、またはアニメーションですわ。

 

これは個人的感想かもしれませんが、ドラえもん(特に30分アニメ版)を観るとき、「めっちゃワクワクするわ~」という感じはしません。

 

楽しみだなーとは思っても、ワクワクするー、にはならない。嫌いじゃないし、楽しみでもあるんだけど、その感情は「ワクワク」とは違う。

 

もう少し、わかりやすい例があった。『スターウォーズ』。

 

僕は「エピソード4」がシリーズ中で一番好きだけど、観る前に「うわーっ、エピソード4や!ワクワクや!」と、急速に関西人化しながら呟いたりはたぶんしない。

 

でも、「エピソード8」のタイトルが『last JEDI(ラスト・ジェダイ)』に決まりましたよ、と聞くと、ちょっとワクワクする。

 

 

■「お馴染みのこと」は、そんなにワクワクしない。

 例えば、牛角に行けば、そこそこの値段でそこそこに美味しい焼肉が食べられることは知ってるけれど、そこまでのワクワクはない。

 

でも、家の近所のいかにも小汚い、でもいつも客が絶えない焼肉店は、何やらワクワクする。この店では、何が、どんなものが食べられるんだろう?と。

 

近所のスーパーに行っても、そんなにワクワクしない。でも、旅先でスーパーに行くと「何これ?こんなもの売ってる!」とか「もやしがスゲー安い!」とか、なんかワクワクする。

 

■ワクワクの成分とは

この「ワクワク」にはきっと、「未知であること」が良い塩梅で混ざっていることが重要なんじゃないかな?と思う。

 

「全く未知の世界」だと、やっぱり不安が先に立つ。でも、「それこそがワクワク」という人もいる。その辺は、個人差がある。

 

この「良い塩梅」の割合は、たぶん人によって違うんだろう。

 

ちょいちょい登場していただいて恐縮だけど、うちの家人のこと。彼女は、人から頂いたドネーション(物やお金)と、人に助けてもらうこと(ヒッチハイクで乗せてもらったり、家に泊めてもらったり)だけで、日本全国を旅するというチャレンジをして、先日帰ってきた。

 

正直、驚く。僕なら、「ワクワク」の前に不安が先に来てしまう。だけれども、家人はワクワクして旅立っていったし、無事に帰ってきたし、楽しかった、らしい。

 

 ■ポイントは「良い塩梅」

自分にとっての「良い塩梅」を見つけることが、とても大切なんじゃないか、という氣がする。

 

「新しいことにチャレンジしたいけど、なんか一歩踏み出せない」という人は、自分の「良い塩梅」を越えた未知にチャレンジしようとしてるのかもしれない。

 

何しろ、僕がそうだったから(笑)。

 

いきなり「独立や!ベンチャーや!起業や!」で、ワクワクする人は、そうしたらいい。でも、「いやー、いきなり独立は・・・」という人だっていていい。むしろいるはずだ。

 

そういう人は、自分のワクワクにはどのくらいの「未知」が含まれていそうか、探ってみてはどうだろう。

 

というか、それを僕がやろうとしている(笑)。独立云々ではないけれど、自分のワクワクの成分表を確認したい。

 

そうすると、新しいことへのチャレンジが、やりやすくなりそうな氣がするんだよねぇ。

20170126_ブログにするようなもんじゃない


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いつもの記事も、ブログにするような内容かね、と思うけど、今日は特にそう。

 

とりあえず、自分がアウトプットするために書いたのをブログに載せました、的な内容です。

 

書いといてなんですが、読まない方が良いです。

 

 

 

ここ最近、ここ数週間ですか。イライラすることが多くてですね。人に対しても、起きる出来事に関しても。

 

後から落ち着いて、何でだろうね?と思うと、よく分からない。なんでそんなことでイライラするのか、よく分からないことも多々あり。

 

よくよく考えてみると、こういうことかなと。

 

・やりたいことがたくさんある。

・やりたいことが、「やらないといけないこと」になりつつある。

・「やらないといけないこと」を出来てないと、氣分がよくない。

・イライラになる。

 

ふむ。

 

ついでに、「やりたいことがたくさんある」状態で「やりたいこと」にしても、それ以外にしても「色々やっている」から、単純に疲れている、というのもあるみたい。

 

やってる間は楽しいんだけども、終わると疲れている。寝たいんだけども、そうそう寝られない。まあ、そう言いつつ、寝てはいるんだけども。

 

ただ、「私は疲れている」と思ってみると、あーなるほど、と思う節もたくさんあるので、実際そうなのかもね、と思う。

 

疲れているからって人にイライラしてすみません、と思ったりもする。あー、まだまだだねー、自分、とも思う。

 

今のところ、そんな感じですかね。ありがとうございました。

20170125_間違いも失敗も

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■「全然おもしろい」の是非

糸井重里さんと、国語辞典編集者の飯間浩明さんの対談を読んで、いやー、面白いなぁと思った。
 
 
「言葉は生き物」、「時代に応じて変わるもの」というと陳腐だけれど、ホントに使い方が色々変わる。
 
確かに、僕が子どもの頃は「ガチ」なんて、そんなに使わなかった。そのうち、「これ、旨いわー。セメントだわー」とか、若者たちが言う日が来るんだろうか(たぶん来ない)。
 
さて。その中で「全然」の使い方について言及があった。僕が子どもの頃は「全然~ない」という使い方が「正しい」とされていた。この記憶はある。一方、夏目漱石の小説『坊ちゃん』では「生徒が、 全然 悪いです」という使用例もある。「全然+肯定」も、伝統的な用法としてあったらしい。
 
ところが、「全然+肯定」の表現がなぜか廃れて、いつの間にか「間違い」ということになってしまった。元々は、「どっちもあり」だったのに、だ。
 

■人の「間違い」は、指摘したくなるもの

こうなると、「全然+肯定」を「間違っとる!」と指摘したがる人が出てくる。「言葉が乱れとる!」みたいな。まあ、そう言いたくなるのも、分からなくはない。だって、人が間違ったことを言ったりやったりしていたら、「違うよ」と言いたくなるのは、まあ、誰にだってある心の動きだと思う。
 
かく言う私だって、同居している家人が歌を歌っていて、歌詞を間違えていると「違うよ」と言いたくなるし、結構高い確率で指摘してしまっている。別に、家で歌詞を間違えたところで誰も迷惑を被らないのに、だ。
 
僕だって、気持ちよく歌っている家人の歌をわざわざ止めて、「歌詞が間違ってる」と指摘することにメリットがあるとは思っていない。にもかかわらず、何となく言いたくなってしまう。ともかく、そういうことってあるよね、とは思う。
 

■許容する人、再び

でも、それも理解した上で、僕としては「間違い」も 「失敗すること」も 、ついでに「ブレること」も 「訂正」も 、全て許容する人でありたいなあと思う。
 
以前の僕は(これは何度かブログにも書いたけれど)、「間違えてはいけない」と思ってきた。社会通念上、正しいことや、常識的に正しいことをすることが、良いことだと思ってずーっと生きてきた。だから、発言も「間違いのないことを言わなくてはいけない」と思っていた。
 
でも、「100%間違いないこと」なんて、世の中にどれほど存在するか?と思ったら、そんなことをチマチマ考えることが無意味だなあ、と思うようにもなってきた。だいたい、間違いのないことだけを言おうとしたら、こんなブログ書いていられない。
 
講演会なんかで良く「何か、質問はありませんか?」なんて司会者に聞かれることもある。そんなとき、あ、これってどういうこと何だろうと思って質問しようかなと思うのだけれど、あああ、でもこんなこと聞いたら全聴衆と講演者の時間を無駄に使っちゃうんじゃないかとか考えて、結局手を上げずに終わるなんてことが良くある。
 
あるいは、何か質問に答えようとして、的確な表現が思い付かなくて、黙り込んでしまうようなこともある。あるいは、調子に乗ったことを言ってしまって、後から、ああ、あんなこと言うんじゃなかったなあ、と思うことも多々ある。
 

■間違ったって、ブレたって良いじゃない

「間違ってはいけない」と考えると、息苦しくなる。間違えてはいけない、と考えるから、どうしたって安全策を選択する。そうすると、面白くなくなってくる。それよりは、間違えたことを言ったりやったりしたとしても、「あ、間違ってた!」と訂正できる世の中の方が良いと僕は思う。

 
同じような理屈で、「ブレる」ことがあっても良いと思う。
 
第一、人間生まれてから死ぬまで、一点の曇りも迷いもなく、自分の道をスパーっと歩き続けられる人なんて、そうはいない。迷ったり、悩んだり、考え込んだり、こっちだ!と思って進んだ道が全然違ったり・・・。色んなことが起きるのが人生だ。
 
だったら、一度信じた道を離れてみるのも良いかもしれない。その結果、「やっぱりこっちだった」と、元の道に戻ってもいい。そこからまた、別の道を進むのだっていい。一度決めたことを修正も訂正もできない。一度の過ちが致命傷になるなんて、ちょっと厳しいし、つまらない。
 
間違いを恐れて広がりのない、面白くもない日々を過ごすよりは、たとえ失敗したり、ブレたりしたとしても、その時々の自分のココロに素直に生きられたら良いんじゃないか、と思う。
 
だから、少なくとも僕は、間違いをチクチク指摘したり、攻撃する人になりたくない。あるいは、間違えた人や、ブレる(ブレた)人を糾弾したくない。
 
「ま、そういうこともあるよね」と、温かく迎え入れたい。そういう人でありたいなあと、つくづく思う。
 

20170124_人と自分を「比べる」ことについて

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photo by chisako abe 

 

 

■こんなん、まだ残ってたのか。

「あー、自分は意外とそんなことを考えていたのか!」と思って、愕然としたり、うわーっとなったり。

 

まあ要するに、どちらかというとあまり良い気持にならないとき、というのがあります。

 

でも、それもこれも自分由来のものなので、人に当たるわけにもいかないし、まあ、自分でどうにかする以外に仕方がない。

 

言ってみれば「自己嫌悪」みたいなもんですか。でもまあ、意味のない自己嫌悪ではなくて、自分の潜在意識の中に「あー、そういうの、まだ残ってたんだなー」という感じ。

 

■「よそはよそ、うちはうち」システムなのに

最近出てきたので言うと、無意識のうちに、何かと何か、特に自分と人とを「比べてる」自分を発見したこと。

 

例えば、Aさんはこないだ課長になったのに自分はまだ平社員のまま、とか。

 

あの人は高級車に乘ってるのに自分はベンツ(の路線バス)に乗ってる、とか。

 

自分よりも、あの人の方が給料たくさんもらってる、とかね。

 

自分よりも、あの人の方が仕事が早いとか。あの人はなんであんなにモテてるのに、自分は全くモテないんだ!とかとか。色々ある。

 

むろん、「人間」て書くくらいなわけで、人は人の間で生きていくものなんだろうと思う。そうなれば、どこかで「差」や「違い」を認識せざるを得なくなってくる。みんな同じ人間だよね~と言ってみても、当然ながら違いはある。

 

僕個人としては、人と自分を比較してどうこうしたい、という希望はない。むしろしたくない。

 

■「比べる」のは、自分を「甘やかしたい」から

そういう「比べる意識」はきっと、「自分をよく見せたい、よく見られたい」という欲求、あるいは、人と自分とを比べて「自分の方が○○だ」と思うことで、自分を甘やかしたいんだろう、と思う。

 

「自分と人とを比べて、人の方が良く見えると思う時はどうなんだ」と思われるかもしれませんけど、それもたぶん、甘やかしの一環でして。

 

「あの人の方が○○で・・・」と言ってる時も、実は心のどこかで「いや、私の方が○○だし」とか「○○だけが全てじゃないし」とか思ってるかもしれない。

 

あるいは人から「あなたの方が○○ですよ」と言ってもらえるんじゃないか・・・みたいな期待もあるかもしれない。

 

あくまでも無意識で、の話ですけども。

 

■ 自分の理想に向かって走れ(主に自分に向けて書いてる)

これは自戒も込めて書くのですが、自分のありたい姿、自分の理想だけを100%見つめて、それに向かって進んでいれば、人のことなんて氣にならないはず、なのです。だって、自分の理想だけを見れば良いのだから。

 

「比べる」ということは、相対評価をしているということ。自分の理想と向き合っている状態ではありませんよね。

 

つまり、自分の理想に向かって進むことを拒否して、相対評価の中に自分を置こうとしてる、ということ。

 

相対評価は、楽です。だって、人と比べて1点でも上回っていれば、勝ちなんだもの。

 

自分が本当に理想とする姿でなくても、「あの人に勝ったから、良いか」と満足してしまう危険性もはらんでる。

 

もう一度言いますが、自分の理想に向き合っていれば、人と自分とを比べて、喜ぶことも悲観することもない。

 

僕は人と比べてる自分を見つけて、「ここからまたまだ良くなっていくんだなや」と、嬉しくなった次第。

 

もう、しばらくは大丈夫です。自分の理想を見続けて、走ります。

20170123_目標とか方針とか、そういうものの考え方


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 photo by chisako abe

 

■いきなりの例えば

痩せたいとするじゃないですか(唐突に)。その時に、まあ、手段は色々考えられるわけです。

・毎日走る、運動する
・食べない(食べる量を減らす)
・炭水化物を抜く(減らす)
・ライザ○プに通う
・エステに通う

ま、たぶん他にもあるんでしょうけど、それはダイエットブログに任せます。ただ、炭水化物を抜くとてきめんに痩せます。

うん、「それは、お前が炭水化物を食べ過ぎてるだけだ」というご指摘は、甘んじて受ける。

 

■「する」アプローチと「やめる」アプローチ

ふと思ったのだけれど、痩せるための方法論として「何をしない(やめる)か」と「何をするか」の、二つのアプローチがあるなあと。

 

要するに、「ご飯を食べない」、「間食しない」は、「しない」方のアプローチ。一方、「運動する」、「何かに通う」は、「する」方のアプローチ。

 

で、最近思ったのは「○○しない!」っていうのは、結構しんどいなぁ、ということでした。「しない」、つまり禁止されると、それが余計氣になっちゃう。

 

「肉まん食べちゃダメ!」と言われると、かえって肉まんが食べたくなる。僕はあんまん派ですけども。

 

自分で「ご飯食べない!」とした場合も、やっぱりご飯が氣になっちゃう。そんな感じ、しません?

 

■逆転の発想で

それを「する」アプローチに変えてみると良いんじゃないかな?と思ったんだ。「夜10時から朝6時までは、胃を空っぽにする!」とか。まあ、厳密には全く空にはならんのでしょうけど。

 

「食べない!」と思うと食べたくなるから、「胃を空っぽにする」という「する」アプローチに変えてみる。こうすると何となく、ゲーム感出ません?

 

「あ、いま、胃を空っぽにするゲーム中だったわ」みたいな。「あぶねー、せんべい胃に入れるとこだったわ」みたいな。

 

■「しないこと」より「すること」を決める

このように、「何かをしないように」心がけるよりは、「何かをする」ように心がける。最近僕はそんなことを考えているのです。

 

「しないこと」を決めるより、「すること」を決める方が、僕としては精神的に楽だし、楽しい。

 

そうすると、「したくないこと」、「してはいけないこと」ではなくて「したいこと」、「すること」に目が向く。

 

もちろん、「胃を空っぽにしたい」なんて人はいないでしょうけど、「ご飯食べちゃダメ!」思うよりは、少し良いんじゃないかなー。どうかな。だって、その裏側には「痩せたい」があるわけですから。

 

「炭水化物食べない」も、例えば「植物性タンパク質をたくさん摂る」にしたら、自然と炭水化物が減る。無理にガマンしなくてもいいかもしれない。

 

だから何、って話ではない。ただ、そんなことを考えてる。

 

さて。一段落したからあんまん買ってきますわ。

20170122_見たい世界を生きる

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■「よそはよそ、うちはうち」システム

久しぶり、でもないけれど、ここ最近イライラすることが多かったのです。特に人に対して。

 

僕は「よそはよそ、うちはうち」システムを採用しており、人のことは基本的にどーでもいい。どーでもいい、というと冷たく聞こえるのならば「お好きなようになさってください」という感じ。変わらんか。

 

こう言っちゃ身も蓋もないけれど、結局のところ、その人の人生はその人が選んでいるわけで、僕がどうこう立ち入ったことを言うような立場にはない。だから、あなたがそれで良いのなら、それでエエやん、と思う。

 

■ところがどっこいだ

最近、他人の言動を見て、イライラしたり、腹が立ったりすることが続いた。おやおや、「よそはよそ、うちはうち」システムを採用してるのになぁ、と思って、どうしてそうなった?と考えてみた。

 

んだけれど、よくわからない。何となく、「人を批判するエネルギー」や「自分をよく見せたいエネルギー」みたいなものに拒否反応を起こしているようなのだけれど、それにしても良くわからない。

 

うーむ。と思って、少しほっといた(ほっとくと氣にならなくなるのは、僕の特殊技能の一つだと思ってる)。

 

そうしたところ、斜め上から解決策がやってきた。

 

■「許容し合える世界」で生きる

僕はいま、「リターンスクール」なる講座に通っていて、そこで「自分が理想とする世界、見たい世界」について話していた。

 

そこで僕は「多様性を認め合える世界、許容し合える世界」が理想だなと思って、そういう話をした。と、同時に、人に対してイライラしている現状についても話した。

 

そうしたところ、「原因を探ってみるよりも、自分が理想とする世界を生きた方が早いんじゃない?」という意見をもらった。

 

確かに「自分が、なぜその人の言動にイライラするのか」を考えてみても、その人を変えることはできないし、じゃあ、自分がガマンすりゃいいか、というとそれも違う氣がする。

 

となると、自分が「許容し合える社会」を理想として、見ているのならば、「なるほど、この人の世界はそういう世界なのね」と許容すればいい。その人に対する判断、ジャッジを入れずに「なるほどね」と認める。

 

それは、「自分がガマンする」こととは違う。ガマンするということは、自分が正しい(あるいは、自分なりの理想がある)のに、それを抑えてる状態。

 

でも、ここで出たのは「その違いも許容しよう」ということ。そこに正しいも間違いもなくて、「ただ、そう」なだけ。

 

もちろん、すぐにその地平にたどり着けるかどーかはわからない。ただ、その世界を意識して、見ることはできる。間違いなく。

 

■世界征服も許容する

こう書くと、「じゃあ、お前は『世界征服したいんです』というヤツのことも許容するのか?」と聞く人が出てくるかもしれない。

 

答えはイエス。その人がほんとーに世界征服したいんなら、まあ、良いんでないの?と思う。ただ、「何のために世界征服すんの?」とは聞くと思う。

 

ついでに、「あなたがそう思うのは自由。でも、僕はそう思わない」というのだって、許容だ。

 

許容は、別に全て同意することじゃない。あなたの考えは認めるよ、だけど、僕はそうは思わないってこともある。

 

つまり、僕が一足お先に「許容し合える社会」を生きる訳だ。「許容し合える」、つまり、僕はあなたを許容するし、あなたも僕を許容する、ということ。

 

書いてる本人がこんがらがってきたけれど、まぁ、そういうことよ。