想いを言葉にして、後世に遺す


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「遺す」。

 

なぜ、ぼくは文章を書くのか。あるいは、文章で何をしたいのか。

 

文章を書くことを仕事にしようと最初に思ったのは、小学生か、中学生のころだった。

 

その当時は、「自分は小説家になるものだ」と勝手に思い込んで、妙ちきりんな小説を書いては悦に入っていた。が、書いてるうちに「こりゃ本当に面白いのか?」がわからなくなって、いつしか「小説家になる」ことはあきらめた。

 

少なくとも、今のところは。

 

小説家になるものだと思っていた大学生のぼくは、何か文章を書く仕事に就こうと思って、出版社やマスコミを受けまくった。が、就職氷河期だった当時、ぼくのような凡庸な大学四年生を採用しようなんていう奇特な大手マスコミは当然なく。ぼくは小さな編集プロダクションで社内報の編集に携わることになった。

 

面白いもので、ぼくはここで、市井の人々の話を聞く面白さを知った。世の中を動かしているのは、偉い経営者や政治家だけではない。実は、会社で日々働いている人たちだって、立派に社会を動かし、支えている。そして、多くの人は、何かしらの志や想いを持って、日々の仕事をしている。

 

ぼくは、社内報の外注を請け負うライターという立場で、実に様々な人々にインタビューする機会に恵まれた。

 

大きな会社の社長さんや、取締役から、プラントで働くエンジニア、凄腕のMR、化学品の研究職や、某牛丼屋さん・某ハンバーガー屋さんのアルバイトさんまで。

 

本当に様々な人たちの「働く姿」を見て、その人々の想いを聞いてきた。

 

そして、出版社に移ったり、実際に会社で広報の仕事をしたりして、また社長のゴーストライターをしたり、社員のインタビューをする機会を得た。

 

最近、色々な方と話をさせていただく中で、ぼくがやりたいのは「想いを言葉にして、後世に遺す」ことだと、何となく見えてきた。正直、自分では「遺すこと」になんて興味がないと思っていただけに、ビックリもしたけれど、今はしっくり来ている。

 

例えば、中小企業の社長さん。例えば、一代で事業を成した名経営者。あるいは、目立たないにしても、想いを持って仕事を続けてきた市井の人々。

 

ぼくは、そういう様々な人々の想いを文章にして遺したいのだなと、最近感じている。

 

「遺」とは、貴重なもの、貴いものを次へ送る、といった意味の漢字らしい。だからこそ、ぼくは「残」ではなく「遺」を使いたい。

 

ぼく自身のことで言えば、ぼくは自分の祖父がどんな人かを知らない。父方の祖母は会ったことがあるけれど、祖父は僕が物心ついた頃には既に他界していた(確か、父がまだ学生の頃になくなったように聞いた記憶がある。あやふやだけど)。

 

祖父が炭鉱で働いていたらしい、ということまでは聞いたことがある。でも、彼がどんな想いで、どんなことを考えて仕事に取り組んでいたのかは、知る由もない。もし、祖父の想いが何かの形で遺っていたならば。

 

あいにく、ぼくには子どもが(今のところ)いない。この先どうなるかはわからないが、もし、自分に子どもが生まれた時、彼または彼女の祖父母(ぼくの父や母)、あるいは曾祖父母がどんな人だったのか、知れたらどうだろうか。

 

もちろん、今や動画でも何でも、遺す方法はいくらでもある。ただ、ぼくは文章の力を信じている。文章だからこそ、伝わる想いがあるんじゃないかと思っている。

 

だからぼくは、「想いを言葉にして、後世に遺す」ことをしていく、と決めた。

 

どういう形でか、はわからない。どういうやり方で、かもまだ見えていない。でも、決めた。

 

もしかしたら、まずは自分のことから、かもしれない。

 

父や母や、あるいは祖父母のことを、誰かに聞いてまとめるかもしれない。

 

それは、どこかに発表するようなものにはならないかもしれない。でも、自分自身のためには確実になるだろう。ひょっとしたら、この先生まれてくる(かもしれない)ぼくの子どもたちがそれを読んで、自分たちの曾祖父母や祖父母の存在を身近に感じられたら。

 

そして、自分たちが唐突にこの世に生み出されたのではなく、連綿と受け継がれてきたご先祖様からのリレーを受けて今ここにいるのだと気付き、その貴さを実感できたなら。きっと、嬉しいだろうと思う。

 

そんなことを、たくさんの人に提供していきたいとも思う。ただ、今はまだノウハウも無ければ、やり方もわからない。でも、そんなことを考えている。

 

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小さい頭で考えない


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ものすごいひとに、ものすごい話を聞いてきた。

 

ぼくが会った「ものすごいひと」は、ものすごいエンジニアで、今の我々の生活に欠かせないアレとかアレとかの開発を手掛けた方なのだが、そこは伏せる。ともかく、超一流のエンジニアで、バリバリの理系の方である。

 

その方に「なぜ、そんな難しい開発が出来たのか」と聞くと「ふと思いついた」という。「神さま、仏さまに祈ったから」とも。

 

曰く。三次元に暮らす、我々人間のアタマで考えられることには限界がある。どこかで、人知の及ばないもの、というものがあるのだという。

 

それを利用しないことには、人々が今まで生み出したことがないものや、情報がないものの開発なんてできない、と。

 

これがある意味「他力」ということなのかもしれない。

 

ぼくら(特にぼく)は、自分のアタマや能力、実力「だけ」で何とかしようとして、どうにもこうにも上手くいかなくなることがある。

 

一方で、とんでもない成果や実績を上げる人というのは、おそらく、ある意味人知の及ばない能力を使っている。

 

ぼくの会った「ものすごいひと」も、大企業のトップであればあるほど、こういう話に共感してくれる、と言っていた。

 

要するに、そこまで上り詰めるには、そういう「他力」がどうしても働くのだろう。だから、自分の実力でここまで来た、なんて思わない(思えない)。

 

こうなると、自然と感謝が湧き起こる。というか、感謝しかなくなるだろう。

 

だって、自分の力で何かを成し遂げたわけじゃないんだもの。

 

想像でしかないけれど、この「ものすごいひと」が言ってる「神さま・仏さま」とつながるのは、ぼくらが本来持っている能力なんじゃないかと思う。

 

人知を超えたものと繋がる能力を、本来ぼくらはもっているのだけれど、それに現代人の多くはフタをして暮らしている。

 

直感や感覚・感性を研ぎ澄ませていると、きっとこういう「ものすごいもの」とつながることができるんじゃないか、とぼくはにらんでいる。

 

なのにぼくらは、限られた自分のアタマの中で組み立てた論理や理屈をこねくり回してしまいがちだ。論理や理屈が通っていると、人間的には安心する。

 

でも、人知を超えたものには到達できない。突き抜けることはできないんだろう、たぶん。

 

直感を信じろ。感性を磨け。

 

最近は、そんなことを思っている。

 

 

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映画『空母いぶき』を見てきたよって話(感想、ネタバレありかも)

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人に勧められて(というか見ろ!という指示を受けて)、『空母いぶき』見てきました。

 

マンガも読んでなければ、海上自衛隊マニアでもない(当然陸上自衛隊航空自衛隊も)。そして、西島秀俊にも佐々木蔵之介にも佐藤浩市にもさほど興味がない(男前だとは思うけど)、事前の興味ポイントとしては本田翼くらいな僕でしたが、良かったです。

 

あ、ちなみにマンガとはだいぶんストーリーが異なるようです。

 

見てきた感想で、特に言いたいことを3つにまとめてみたので、どうぞ。

 

  1. それぞれの持ち場で「戦う」こと
  2. この日常は「当たり前」じゃない
  3. 映画『空母いぶき』は相互理解の物語である

 

それでは、行ってみましょうか。

 

それぞれの持ち場で「戦う」こと

この物語は、近い未来、東南アジアに民族主義的国家が勃興し、日本の与那国島(だったはず)不法占拠するというところから始まる。

 

もちろんフィクション。ただ、尖閣諸島問題やら何やらを考えると、全くあり得ない話でもないわな、という氣にさせられる。

 

で、日本側は与那国島自衛隊初の航空母艦「いぶき」を旗艦とする第五護衛隊群を現地に直行させる。が、当然ながら敵国(架空の国家、東亜連邦)も第五護衛隊群に攻撃を仕掛けてくる。

 

このあたりが面白いところで、自衛隊は「自衛権」はあるけれど「交戦権」を行使してはいけない、という憲法上の縛り(と、敢えて言おう)がある。

 

そのため、戦術的にこちらから手を出した方が絶対に有利な戦局であっても、迂闊に攻撃を仕掛けられないというジレンマがある。

 

第五護衛隊群の艦長をはじめとする乗組員の面々は、それぞれの思想や考えを持ちつつも、この「先に手を出さない」、「相手もこちらも被害を最小限に抑えつつ、任務を遂行する」という極めて難しい戦闘を強いられる。

 

一方、総理大臣をはじめとする内閣の面々や、外務省アジア大洋州局の面々は、外交でこの難局を乗り切るべく奔走する。いかに相手国との軋轢を避けつつ、自国の主張を通すのか。いかに国連を動かすのか。つまりは「政治」というフィールドでの戦い。

 

一方、任務前には訓練航行を行っていた「いぶき」には、マスコミの人間が取材のために搭乗していて・・・という設定もなかなかニクイ。民間人かつマスコミの立場としては、戦闘の様子を広く人々に伝える役割がある。これはこれで「報道」という戦いでもある。

 

さらにさらに。映画の中ではコンビニの店長さん(中井貴一。贅沢!)が登場する。彼もまた、彼のフィールドで戦っている。劇中の時間設定は、クリスマスイブ。コンビニの店長である彼は、クリスマスプレゼント用のお菓子の詰め合わせセットをせっせと作る。しかも手書きで子どもたちにメッセージを付けて。

 

その中の一つが、これ。

 

「せかいはひとつ。みんなともだち」

 

国家が領土問題でつばぜり合いを繰り広げている中で、このメッセージ。でも店長さんは、これを子どもたちに伝えたいと心から願っている。これはこれで、店長さんが次世代の子どもたちに何を伝えるかを賭けた「戦い」なのである。

 

そう。空母や護衛艦に乗って戦闘している自衛官たちだけが「戦っている」のではなく、政治、ジャーナリズム、そして市井の人たちも「戦っている」。それぞれのフィールドで、それぞれの武器を持って。

 

この日常は「当たり前」じゃない

ぼくらはこうして今、あくびでもしながら、あるいはポテチでもつまみながら、あるいは恋人とイヤンバカンウフフなどしながら(羨ましいぞ!)、このブログを読み、日常を暮らしている。

 

けれど。その日常は決して「当たり前」のものではない。

 

何かのボタンが掛け違ってしまえば、局地的な「戦闘」が勃発する可能性だって秘めているし、それはまかり間違えば「戦争」に発展するかもしれない。

 

それをしない、させないための政治であり、あるいは自衛権なのかもしれない。

 

そして、一人ひとりがどうあるか。どういう世界を望むのかが、この世界を創っていく、と僕は思っている。

 

国同士がいがみ合い、自国の権利を主張し合うのではなく、お互いの文化や違いや、考えを尊重しながら手を取り合っていく。そんな世界をぼくは望む。だから、そのために何ができるのか、を常に考えたいと思っている。

 

「平和な日常」は、誰かがもたらしてくれるものではないのである。

 

そう。映画の中のコンビニの店長さんが、子どもたちに訴えようとしたように、たとえ影響力は小さくとも、出来ることはあるはずなのである。

 

映画『空母いぶき』は相互理解の物語である

映画や物語は往々にしてそうだけれど、たくさんの二項対立で描かれる。この映画も御多分に漏れず、である。

 

日本←→東亜連邦

海自←→空自

(「いぶき」の艦長は、航空自衛隊の元パイロットという設定である)

強硬派←→穏健派

自衛隊←→マスコミ

 

考え方の違い、立場の違いは、対立を生む。対立は、争いにつながる。しかし、この映画の登場人物たちは何とか、相互理解を図ろうと努力する。仲間が殺されてもなお、である。

 

主人公の「いぶき」艦長が、東亜連邦の軍人に対し、こんな趣旨の台詞を言うシーンがある(うる覚えなので、あくまで趣旨です)

 

「君たちの国では知らないが、日本では、宗教や信じる神の違いを超えて、クリスマスを祝う。この日くらいは、平穏な一日であるようにと」。

 

ぼくはこの台詞を書いた脚本家さんはスゴイと思う。以前は「クリスチャンでもないのによ」と思ってた日本のクリスマスが、ぐっとステキなものに感じられたのだ。

 

・・・思いのほか長くなった。お付き合いいただいてありがとうございました。

 

ぼくは『空母いぶき』の関係者から一銭ももらってませんが、良い映画でした。戦闘シーンの迫力もあるし、泣かせるシーンもある。

 

・・・そして何より、本田翼がかわいかったでしたね。

嫁に来てくれないやろか(そんな終わり方)。

 

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才能と、世界を変える一歩目について


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今日は書きまくる日であった。なんやかんや、トータルで7~8時間くらい書いてた(手直しも含め)と思う。

 

で、また書いてる(笑)

 

ある人は、呼吸するかのように自然にできることこそ、その人の才能だという。でも、その才能を持った当人にとっては、呼吸するかのように出来てしまうだけに、それが才能だと気付きにくい。

 

矛盾だ(笑)

 

実は最近、ぼくは自分に対する無価値感を覚えていた。最近、と書いたけれど、実際には思春期の頃から持ち続けてきた感覚かもしれない。

 

ぼくには価値がない。人のお役に立てることが何一つない。生きている意味がない。そう思うこともあった。最近でも、時たまそう思う。

 

でも、今のぼくは声を大にして言いたい。価値のない人間など、この世に存在しない。同じように、何のとりえもない、才能もない人間もまた、存在しない。

 

ぼくは現代社会を生きているので、昔のことは残念ながら良くわからない。ただ、今の社会においては、「お金にならない才能」と「お金になる才能」が明確に分かれてしまっている感覚はある。ひょっとすると昔の時代も、「役に立つ才能」と「役に立たない才能」があったのかもしれないけれど。

 

ぼくらはつい、「お金にならない」あるいは「お金になりにくい」才能は意味や価値がないと思ってしまう。あるいは、「この程度では才能とは言えない」と思い込んだりする。

 

本当にそうだろうか。

 

例えば、料理が大好きで、いくら作っても疲れないし、人にふるまうのも大好きだという人がいるとする。この人がコックさんになれば、その才能は「お金になった」と言える。でも、家でその料理を友だちにふるまって、みんなが笑顔になることには、本当に価値がないのだろうか。

 

あるいは。コックさんになれるほどの腕前じゃない、ということが、その人の才能の価値を下げることになるのだろうか。ぼくは、そうは思わない。というか思いたくない。

 

ぼくは、人々が持っている才能や価値に光が当たれば良いなと思っている。この世の中の人々が、自分の好きなこと、得意なことをすることで、世の中がうまく回れば良いなと思っている。そんな趣旨のことは、前にも書いたと思う。

 

同じように、自分には価値がある、生きている意味があると全ての人が思える世界になれば良いなと思っている。たとえ、会社に行けなかろうと、仕事が出来なかろうと、学校が嫌いだろうと、モテなかろうと、引きこもりだろうと、対人恐怖症だろうと。どんな人にだって、必ず才能はあるし、価値があり、生きている意味はある。

 

その価値や才能をわかりやすく可視化するのが、現代社会においては「お金」ということになるんだろうと思う。そのこと自体は、決して否定しない。

 

ただ、自分の好きなことや、苦も無く出来ることがお金にならないからと言って、自分を卑下することはないと思う。あるいは、プロフェッショナルになれなかったからと言って、価値がないと思う必要もないと思う。

 

お笑い芸人にはなれなかったけれど、子どもたちをいつも笑わせてくれる陽気なおっさんは、それだけで十分価値がある。プロ野球選手にはなれなかったとしても、何年も野球を続けている人には、それだけの価値がある。

 

そんなことわかってるよ、とあなたは、あるいは誰かは言うかもしれない。

 

でも、それでもぼくは敢えて言う。誰も読んでいなかったとしても言う。

 

人にはみんな、価値と才能が必ずある。

 

あなた自身も、あなたの大切なひとも、あなたの周りにいる人たちも、ぜひそういう目線で見てあげてほしい。「この人の才能、価値は何だろう?」と、探してあげてほしい。

 

そんな小さな第一歩が、大きく世界を変えるんじゃないか。ぼくは勝手にそんなことを考えている。

 

文章を書きまくった一日の終わりに、壮大な話が書けて、ぼくは満足しています。

 

ありがとう。

 

・・・あ、でも、やっぱりモテたい(笑)。

 

航海に出るときに、最も必要なもの


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漫画の『ワンピース』を読んでるんです。最近になって。

 

どうやら100巻近くある中の、まだ5~6巻までしか読んでないらしいのですが、想うところがあるので書きますね。

 

「なぜその行動を取るのか」という目的が、何か行動を起こす時にはとても大切なんだと。

 

主人公であるルフィで言えば、「ひとつなぎの財宝」を手に入れて、海賊王になる。今のところぼくが一番気に入っているキャラクターのロロノア・ゾロで言えば、世界一の剣豪になる。

 

この目的がはっきりと定まることで、全ての行動が決まる。海賊王になるためには、仲間が必要だし、船が必要だし、自分が強くならなければいけない。世界一の剣豪になるためには、世界一と名高い剣豪に勝つ必要がある。そのためには、腕を上げるのはもちろん、世に名を知らしめる必要がある・・・といった具合に。

 

そんなもん、当たり前やないかと思われるかもしれませんが、人間やってると、その目的を見失ってしまうことも案外あります。

 

目的のために手段があるはずなのに、手段ばかりに目が行って、目的達成からほど遠いところに行ってしまったり、目的があいまいなままスタートしてしまって、何となく「アレ?」となってしまったり。

 

そもそもの目的設定が間違っていて、その目的は達成されたのに嬉しくも何ともないし、むしろなんでこんなところに来ちゃったんだろうと思ったり。

 

自分は何のために生きているのか。何のために生まれてきたのか。何のために死ぬのか。

 

そんなことを考えたことはあるでしょうか。

 

決して、大きな目的や目標がなければいけないわけではないのです。家族と一緒に幸せに生きていく、目の前の仕事を100%やり切る。それでもいいでしょう。

 

でも、なぜその仕事なのか。その仕事をすることで、どんな目的が達成できるのか。どんな世界を創りたいのか。そんなことまで考えられたら、「何のために」がより深まるような気がする。

 

理由は、実はなんだって良いのです。子どもの頃に芽生えた憧れでも良いし、初期衝動でも良い。自分が動かされる情熱や衝動、感情こそが答えだったりするかもしれない。

 

裏を返せば、目的がはっきりしない航海に出ることほど、辛くて危険なことはない、と僕は思う。自分で「目的のない航海」をやってきた自覚があるからこそ、そう思う。

 

目的がはっきりしていれば、誰が何を言おうと、どんな困難が待ち受けていようと、その目的のためにならば進むしかない。失敗しても、別の方法を考えてでもトライするしかない。

 

でも、目的があいまいだと、そうはならない。別の目的に目が行ったり、あるいは航海ではなく「遭難」かのように、波に流されるまま進んでしまうことになる。

 

流されるままに進む。それはそれでいい。ただ、目的を定めて流れに乗るのと、ただ何も持たずに流されていくのでは、たぶんたどり着く先が違うだろう。「流れに乗る」のと「流されていく」のは、別だと思う。

 

何が言いたいかっちゅうと、全ての行動には目的があるはずで、その目的が明確であればあるほど、手段や方法は渡される。流れもやってくる、ということ。

 

まずは目的を定めるところから。何のために、そこへ向かうのか。何のためにそれをするのか。そして、その目的が自分にとって情熱が注げるものであること、自分が心底やりたいと思えることであること。そういうことなんだろうなと思っている。

 

あなたと私の航海が、実り多きものでありますように。

 

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愛と怒りと


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降りてきちゃったし、ガラでもないし、お仕事につながりそうもないけれど(笑)、書かずにはいられないから書いておくね。

 

今回は「愛」について。

 

・・・しばらく沈黙の後、今度はずいぶん壮大なテーマが続くなと思うかもしれませんが、たぶんそんなに続かないはずです(笑)。

 

「愛」という字は真心で、「恋」という字は下心、と歌ったのは確か桑田佳祐だったはずだけれども、そういうことが言いたいんじゃなくて。

 

愛っていうと、何となく「好き」の上位互換みたいな感じがしてる(してた)けど、そうじゃないのかもねと、最近思っている。

 

まず、「好き」ってなんだ。

 

すき【好き】[名・形動]
1 心がひかれること。気に入ること。また、そのさま。⇔嫌い。
2 片寄ってそのことを好むさま。物好き。また、特に、好色。色好み。
3 自分の思うままに振る舞うこと。また、そのさま。

(出典:『コトバンク』:デジタル大辞泉

 

なるほど。一般的に使われるところで言えば、心がひかれる、気に入っている状態のことだと。

 

一方で、「愛」とは何か。

 

ぼくがいま感じているのは、好きとか嫌いとかそういうことじゃなくて。あるいはそういうことすら超越して「相手の幸せを願ってる」。それこそが愛なんじゃないか。

 

相手のことが嫌いだし、気に入らないし、腹立つし、すごく嫌だけれど、それでも相手の幸せを願ってる。そういう状態もあり得る。それもまた「愛」であると。実は、そんなことを最近思っているのです。

 

これは、実は「怒ってる時」の自己防衛に結構有効な考え方かもしれない、とも思うの。

 

「怒り」は、よく言われることですが、大体「二次感情」。ただただ「怒り」が湧き出ることってのはあまり(ほぼ、と言っても良い)なくて、怒りの裏側には、自分が大切にしていたものが(誰かに)大切にされなかったり、ないがしろにされたと感じて寂しかったり、実は相手がうらやましかったり。

 

そういう別の感情が、怒りのスイッチを押していることがとても多いと感じる。

 

だから、自分が何かに(誰かに)怒っているなと感じたら、まずきちんと「感じること」が大切だと思う。「あ、いま自分はこれについて怒っている」と。

 

その上で、「では、どうだったならば怒らなかったのか、嬉しかったのか」を感じてみる。相手がこうしてくれたら良かったのに、ドタキャンじゃなく、事前に連絡があれば良かったのに、チョコじゃなくて抹茶アイスだったらこんなに怒らなかったのに、とかとか。

 

その上で、「相手にとってはそれが最善・最良だったのだな」と思ってみる。心の底からそう思えなくても大丈夫。まずは。ぼくだって、そう思えないことの方が多い(笑)。

 

でも、そうしてみると、相手が幸せならば、それでいいか、と少し思えるようになってくる。たぶん。

 

そういう「愛」の状態にいると、怒りのあまりドアをぶち破ったり、フライパンを真っ二つにしたりすることは減るはず(してたんかい)。

 

愛は、決して崇高なものでも、どこにもないものでもなくて、ぼくらの心の中にひっそりとあるものじゃないかな。

 

その愛を引っ張り出してくること。それだけで、気持ちが優しくなるんじゃないかと僕は最近思う。

 

ま、それだけ最近プンスカ怒っていた、ということの裏返しでもあるんだけども。

人間とは


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人間を人間たらしめているものは何か。

 

1か月以上放置していたブログの書き出しではないと自分でも思うけれど(笑)、そんなことを考えた。

 

もちろん、たくさんある。直立二足歩行の哺乳類であること。道具を使うこと。感情があること。思考すること。

 

それと同時に、「言語を使うこと」も、大きな特徴だとぼくは思っている。ひょっとすると、動物も鳴き声でコミュニケーションを図っているのかもしれないけれど、それはそれとして。

 

ぼくたち人間は、基本的に相手が考えていることや、感じていることを100パーセント察知することはできない。もちろん、人間観察に熟達した人ならば、相対した人の動作、しぐさ、表情、その他様々な情報から察知することはできるだろうけれど。

 

だから、言葉を使うしかない。情報交換をしたり、想いを伝えあったり、自分の感情を出すためには、言葉を使うのが早い。

 

ところが、言葉は万能ではない。自分がいま感じていることが100あるとして、その100を全て言語にできるかと言うと、多くの場合はそうではない。場合によっては90しか言葉にできないこともあるし、それが70になることもあれば、妙な形で120になったりすることもある。

 

言葉はあくまでツールで、大切なのはその人の中にある想いだろうとぼくは思っている。でも、あるいはだからこそ、言葉が大切だとぼくは思っている。

 

言葉にしなければ、伝わらないことがたくさんある。わかってくれていると思っても、言葉にしなければならないことというのも、ぼくはあると思っている。

 

それは、自分のことを相手にわかってほしいから、もある。一方で、相手に自分が思っていることを伝えることが、相手にとって必要ということもある。

 

相手がいま、何を想い、何を感じているのかがわかることで、要らない誤解や、感じる必要のない憤りや哀しみを避けることができるかもしれない。場合によっては、その相手に共感できるかもしれない。

 

「それ、言ってほしかったなあ」と思うことが、ぼくにはある。その想いを聞いていれば、ぼくはもっと、その時に優しい感情で居られたのになと思うことが。

 

もちろん、全ては必要があって起きている。その人が、その時言葉にできなかったのには、それなりの理由や意味があるし、ぼくがそのことを知らずに怒ったり、悲しんだり、寂しがったりすることにも、また意味はある。

 

それでも、だ。

 

それはもちろん、ぼくのワガママかもしれない。だけれども。言葉を発する、いまの感情や感覚を口にすることが、時には相手のためになることもある、ということを言いたい。

 

そのために言葉はあり、文章は存在するんだろうと思っている。

 

ぼくは、言葉の力、文章の力を信じています。

 

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