才能と、世界を変える一歩目について


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今日は書きまくる日であった。なんやかんや、トータルで7~8時間くらい書いてた(手直しも含め)と思う。

 

で、また書いてる(笑)

 

ある人は、呼吸するかのように自然にできることこそ、その人の才能だという。でも、その才能を持った当人にとっては、呼吸するかのように出来てしまうだけに、それが才能だと気付きにくい。

 

矛盾だ(笑)

 

実は最近、ぼくは自分に対する無価値感を覚えていた。最近、と書いたけれど、実際には思春期の頃から持ち続けてきた感覚かもしれない。

 

ぼくには価値がない。人のお役に立てることが何一つない。生きている意味がない。そう思うこともあった。最近でも、時たまそう思う。

 

でも、今のぼくは声を大にして言いたい。価値のない人間など、この世に存在しない。同じように、何のとりえもない、才能もない人間もまた、存在しない。

 

ぼくは現代社会を生きているので、昔のことは残念ながら良くわからない。ただ、今の社会においては、「お金にならない才能」と「お金になる才能」が明確に分かれてしまっている感覚はある。ひょっとすると昔の時代も、「役に立つ才能」と「役に立たない才能」があったのかもしれないけれど。

 

ぼくらはつい、「お金にならない」あるいは「お金になりにくい」才能は意味や価値がないと思ってしまう。あるいは、「この程度では才能とは言えない」と思い込んだりする。

 

本当にそうだろうか。

 

例えば、料理が大好きで、いくら作っても疲れないし、人にふるまうのも大好きだという人がいるとする。この人がコックさんになれば、その才能は「お金になった」と言える。でも、家でその料理を友だちにふるまって、みんなが笑顔になることには、本当に価値がないのだろうか。

 

あるいは。コックさんになれるほどの腕前じゃない、ということが、その人の才能の価値を下げることになるのだろうか。ぼくは、そうは思わない。というか思いたくない。

 

ぼくは、人々が持っている才能や価値に光が当たれば良いなと思っている。この世の中の人々が、自分の好きなこと、得意なことをすることで、世の中がうまく回れば良いなと思っている。そんな趣旨のことは、前にも書いたと思う。

 

同じように、自分には価値がある、生きている意味があると全ての人が思える世界になれば良いなと思っている。たとえ、会社に行けなかろうと、仕事が出来なかろうと、学校が嫌いだろうと、モテなかろうと、引きこもりだろうと、対人恐怖症だろうと。どんな人にだって、必ず才能はあるし、価値があり、生きている意味はある。

 

その価値や才能をわかりやすく可視化するのが、現代社会においては「お金」ということになるんだろうと思う。そのこと自体は、決して否定しない。

 

ただ、自分の好きなことや、苦も無く出来ることがお金にならないからと言って、自分を卑下することはないと思う。あるいは、プロフェッショナルになれなかったからと言って、価値がないと思う必要もないと思う。

 

お笑い芸人にはなれなかったけれど、子どもたちをいつも笑わせてくれる陽気なおっさんは、それだけで十分価値がある。プロ野球選手にはなれなかったとしても、何年も野球を続けている人には、それだけの価値がある。

 

そんなことわかってるよ、とあなたは、あるいは誰かは言うかもしれない。

 

でも、それでもぼくは敢えて言う。誰も読んでいなかったとしても言う。

 

人にはみんな、価値と才能が必ずある。

 

あなた自身も、あなたの大切なひとも、あなたの周りにいる人たちも、ぜひそういう目線で見てあげてほしい。「この人の才能、価値は何だろう?」と、探してあげてほしい。

 

そんな小さな第一歩が、大きく世界を変えるんじゃないか。ぼくは勝手にそんなことを考えている。

 

文章を書きまくった一日の終わりに、壮大な話が書けて、ぼくは満足しています。

 

ありがとう。

 

・・・あ、でも、やっぱりモテたい(笑)。