勝つしかない
これを書いているのは、2019年3月31日。
早めのエイプリルフールだと思って読んでほしい。
負けたくないのである。いや、勝つしかないのである。
「勝った負けた、そんな小さいことで俺らこのプロレスしてないですよ」と言い放ったのは、新日本プロレスのスター選手、内藤哲也選手である。
内藤選手の言わんとするところもわかる。ぼくもずっと、勝つとか負けるとかは、どうでもいいことだと思って生きてきた。
でも、今は違う。勝ちたい、ですらない。勝つしかないのである。
発端は、怒りである。そして、憤りであり、悔しさでもあり、もう少し深堀していくと、寂しさでもあり、哀しみでもあるかもしれない。
何のこっちゃ、と思われるだろう。そりゃ仕方がない(すみません)。
ぼくもこのブログで、何があったかを書くつもりは一切ない。
この想いは墓場まで持っていく。ただ、ぼくは(ひょっとしたら、人生で初めて)勝つしかないんだと思ったかもしれない。
ぼくの言う「勝つ」とは、何を指してるのか?と思う方もいるだろう。これもあからさまに書くことは差し控えるけれど、ぼんやり言えば「自分の為すべきこと、求められていることを100%完遂する」ということになる。
いままでも、何度も「やるしかない」と思ったことはあった。でも、今回ほど「やるしかない」と思ったことはない。
発端は、先に書いた怒りだ。そして、情けなさだ。
怒りも、情けなさも、いずれも自分に対して感じているものである。
今回の記事は、100%(あるいは1000%)自分のために書いている。ただ、それが誰かのためにもなれば良いなとは思う。
でも、そんなことの前に、自分のために書いている。この感情を忘れないために。自家発電するために、である。
怒りのエネルギーで何かをする、というのが、良いことかどうか。ぼくは知らない。知りたいとも思わない。ただ、ぼくはいま、このエネルギーを自分が為すべきこと、実現したいことにフォーカスする。そして、必ず勝つ。そう決めた。
いいですか。そうしないと自分で自分を許せないってことが、人にはあるんだと思うんです。だから、やるんです。これはぼくの決意表明であり、ある意味宣戦布告でもある。見てろよ。絶対やってやる、という意志の表れでもある。
・・・今回のブログは、特別編です。
次回からは、また明るく楽しいいつもの「そのたもろもろ」に戻りますので、またぜひごひいきに(笑)
オイ、「いつも別に明るくも楽しくもねーけどな」とか言うのよせ!(傷つくから)
またね。
悔しいです
爽やかである。
爽やかに、悔しいのである。
僻みも、妬みも、苛立ちも、歯がゆさもなく、いや、あるにはあるのかもしれないけれど、そんなものをはるかに飛び越えて、ただただ悔しい。
そして同時に、清々しいほどに爽やかである。
ぼくはいま、そんな心理状態にある。
悔しいとは、なんだ。
くやし・い
[形][文]くや・し[シク]
1 物事が思うとおりにならなかったり、はずかしめを受けたりして、あきらめがつかず、腹立たしい気持ちだ。残念でたまらない。2 後悔される。くやまれる。
個人的に、あまり「悔しい」という感情を抱いたことがない。いや、あるにはあるのかもしれないけれど、そこをきちんと見たり、味わったりしてこなかった、と思っている。
まあ、過去のことはどうだっていい。
爽やかなほどに悔しい想いをしている今、ぼくはとてもいい氣分である。
それは、自分の伸びしろやら、まだ成長できる磨きどころがあからさまに見えたから、だと思う。
どうしようもないこと、自分じゃどうにもこうにも手が届かないなと思うことには、人は多分悔しさなんて覚えないんだろう。
「悔しい」と思うってことは、多少なりとも、手が届きそうな気配を感じたから、なんだろうとぼくは思っている。
例えば。
自分が高校の弱小野球部の選手で、強豪相手に0対15で負けたとしたら、悔しいを通り越して「しゃーないな、これは」と思うだろう。
でも、1点でも返していたら、ひょっとしたらオニのように悔しいかもしれない。
ひょっとしたら、勝利に少しでも手が届いたかもしれないと思うからだ。
悔しがる、ということは、決して悪いことじゃない。
あなたにも言いたい。
悔しいときは、きちんと悔しがると良い。
僻むでも、妬むでも、羨むでもなく。
あるいは、自分を卑下するのでもなく、誰かを過度に持ち上げるのでもなく。
自分の磨きどころや、伸びしろや、さらに良くなるポイントをしっかりと見て、理想との違いを認めて、悔しがると良い。
なので、ぼくはいま、爽やかに悔しいを味わうことにする。
お約束だけど貼っとくね。
じゃまた。
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時代の半歩先
「時代の半歩先を行く」。
ぼくが以前勤めていた会社の創業者が、こんなことを言ってた(らしい。ぼくが勤めてた頃には、既に創業者は亡くなってたからね)。
「時代の半歩先を行く」。
なるほど。一歩先を行ってしまうと、たぶん行き過ぎなんだろう。
時代の流れから遅れてしまうと、ただの時代遅れである。
時代と同じ歩幅で歩いているのは、凡庸でしかない。
こうして見ると「半歩先を行く」というのは、なかなかに面白い視点じゃないかと思う。
例えば。
原発も要らないし、電気も要らない。電化製品なんて何一つ要らないんだぜ!というのは、時代から遅れているか、あるいは先を行き過ぎている感がある。
世の中のほとんどの人は、まだやっぱり電気が必要な暮らしをしているし、「電化製品なんか使うな」、「野生に戻れ」と言ってもそう簡単ではない。
「電話やスマホなんて古い!時代はテレパシー!」というのも、先を行き過ぎている。
お客様の中で、テレパシーを自由自在に操れる方はいらっしゃいますか?と飛行機の中で尋ねてみて、自信満々に手を挙げるのはエスパー魔美くらいなもんだろう(挙げないか)。
逆の例を挙げよう。
一昔前は「ベジタリアン向けレストラン」なんてなかったし、あってもそんなに流行ってなかったんじゃないかと思う。
でも今はヴィーガンの方向けのレストランは結構あるし、ヴィーガンラーメンなんてのもある。しかも、結構流行っている。
ぼくはヴィーガンそのものには興味がない(正確に言えば、その人が食べたいものを食べりゃいいと思っている)けれど、ここに目を付けた(という言い方はイヤらしいが)人は「半歩先」を行ってるように感じる。
世の中から何が求められているのか。世の中がどう動いているのか。そこを見て、「半歩先」を行く。自分を取り巻く環境を把握できていなければ、半歩先も何も、どこに自分の身を置くかすらもわからないだろう。
これは「主観と客観の一致」ってことにもつながってくるんだろうな、と思っている。
自分が「素晴らしい!意味がある!」と思っていることでも、他の人からのニーズがなければ、大きなムーヴメントになることはない。
時代の一歩(場合によっては二~三歩)先を行ってしまっていると、どうしたって受け入れてはもらえない。もちろん、「わかってねーなー」で済ませるのも手だし、「これがわからない地球人なんてクソ」と思って自分を慰めるのも良い。
自分の理想や、自分が見たい世界があって、それが世の中の一歩(あるいは二~三歩)先を行っているものだったとして。
それを一人きりで実現できるなら、わざわざ「半歩先」なんてところを狙う必要はない。信じた道を突き進めばいい。
ただ、多くの場合、それでは何も変わらない。一歩先のビジョンを実現するために、半歩先まではしごを降りてあげる。そういうことも必要だろうと思っている。
ところで、「ヴィーガン」って何?
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ハブ
自分自身の立ち位置というか、スタンスというか、在り方というか、存在意義というか、そういったものをずっと探し続けていたような氣がする。
自分で言うのもなんだけれど、ぼくは決して派手なタイプではないし、表に立ってみんなを引っ張るリーダー気質もない(たぶん)。
かと言って、数字にめちゃくちゃ強いわけでもない(どちらかと言えば弱い)し、リーダーを支える名参謀という感じでもない。
どちらかと言えば脇役、裏方タイプではあるけれど、緻密さだったり、段取りだったりが得意なわけでもない。さらに言えば、ぼくにはピアノがないし、君に聞かせる腕もない。
どうにもこうにも、自分的には帯に短し襷に長し、小野ヤスシにさだまさしだったわけである。
で。最近ちょっと、自分の使い方について氣付き始めている。ぼくはまず、文章を書くことが苦にならない。
面と向かっては冗談の一つも言えない生真面目なぼくだけれども、文章であればいくらでもしょーもないことを書き連ねられる。
だから、文章を書くことで何か世の中の役に立てるんじゃないかと思っている。
もう一つは「ハブになりたい」ということかもしれない、と思い始めた。
と言っても、別にフィギュアスケートで金メダルを取って全国の女子をワーキャー言わせたいわけではないし(言わせたいけども)、将棋の永世名人とかになりたいわけでもない。沖縄などに生息する、毒を持ったヘビになりたいわけでもない。
ほら、「香港はハブ空港だ」みたいな言い方するじゃないですか。中継点としての「ハブ」。何かと何かをつなぐ、ハブ(hub)みたいな存在で在りたいと思い始めたのだ。
多くの人は、乗り換えの空港なんて別にどこだって良いと思うだろう(多少、乗り換えやすいとかはあったとしても)。
でも、そこを経由するからこそ旅人たちは自分の目的地へ到着できるわけで、なければ困る存在ではある。
文章を書くことで、何かと何かをつなぐ。ぼくはそれをしたい人なのだろう、と最近思っている。
何か、は何でもいい。人と人かもしれないし、人とモノかもしれない。人と情報かもしれないし、人と地球外生命体かもしれない。
直接繋がれればそれで良いけれど、上手く繋がらなかったり、単純に存在を知らなかったり。繋がりたいのに繋がれない、なんてこともあるかもしれない。
例えば、仕事を探している人と、働き手を探している人。情報を持っている人と、その情報を探している人。部下のことがわからない上司と、上司のことがわからない部下。お互い、隣の部署が何をしてるかわからない職場。
ハブが機能できそうなことは、たくさんある。
そのことで、世の中がもっと良くなったり、いらんもめごとが減ったり、みんなのやる氣が上がったり、より生産性が向上したり、求めていた情報にアクセスできたりしたら、ハッピーじゃないか、と思ったのだ。
余談だけれど、こんな話も最後に書いておきたい。
ハブ(hub)
1)車輪の中心部。また、自動車の車輪を取り付ける部分の円板や、航空機用エンジンのプロペラを取り付ける金具。
2)中心。中核。
3)コンピューターシステムで、複数の端末を集めて連結する中継器。LANなどを組むのに使われ、減衰した電気信号を復元する機能などをもつ。集線装置。
(出典:『コトバンク/デジタル大辞泉』)
2)の意味に注目してほしい。中心。中核。
で、ぼくの本名には「央」の字が使われている。
おう【央】
[音]オウ(アウ)(呉) [訓]なかば
なかほど。まんなか。「震央・中央」
(出典:『コトバンク/デジタル大辞泉』)
「央」の意味するところは、「まんなか」なのである。
要は「中央」の「央」だ。
「氏名は使命」てなことを言う方もいるけれど、別にぼくはそういう知識があるわけでもないし、まあ、たまたまじゃないかと思わなくもない(笑)。ただ、運命的なものを感じるのも事実ではある。
ぼくはずっと、人の輪の中心、中央にいる人間だと自分を定義したことはない。今でも、社交的な輪の中でシャンパンを片手にウフフ、なんてことをするタイプではないことは百も承知である。
だからこそ、自分の名前の中に「央」の字があることに違和感があったのも事実だったりする。
でも、「ハブ」と捉えると、何となくしっくりくる。ぼく自身が中央・中心だからと言って、目立たなくても良いし、注目を集めなくても良い。
ただ、求めあっている者同士を繋げて、さらに良くしていく。あるいは、旅人が目的地へたどり着くためのお手伝いをする。そんな役割をしていきたい、と今は思っている。
伝える、と伝わる
想いがあるのに、伝わらないのはもったいない。
人にはそれぞれ、秘めた想いがある、とぼくは思っている。
それを秘めたままでも構わないし、表に出さなくても構わない。
ただ、「伝えたいんだけど、伝わらない」というのは、どうにもこうにももったいない、とぼくは思っている、らしい。
相手に何かを伝えるというのは、とても簡単なようで、意外と難しい。
「伝わればいい」だけならばまだ比較的簡単だけれど、伝えたいということは、その裏側に「こちらの望んだ行動を、相手にとってほしい」というのがくっついてくることが多い。
氣になる異性に「好きです!」と伝えるとき、多くの場合は付き合ってほしいとか、結婚してほしいとか、そのたもろもろ、まあなんかそういうのがある。
洋服屋の店員さんが「お似合いですよ」というときは、洋服買ってね、が多くの場合付いてくる。
まあ、そういうものだ。
もちろん、相手のためを想って伝える、ということもあるだろう。でも、そこにも相手の成長や、変化を期待するこちらの氣持ちがある。
それを、相手が受け取りやすく伝えるのには、それ相応の技術がいる、とぼくは思う。
「想いがあれば伝わるんだよ!」的思考は、わかるけど、ぼくは採らない。
『伝える本』という本を読んで、コピーライターである著者の山本高史さんは伝えるための技術として「相手が聞きたいことを言う」と書いていた。たしか。
言い換えると、相手が聞きたいと思う言い方をする、ということになると思う。
一理ある、と思う。
同じことを言ってるけど、この人から聞くと理解できるけど、この人からは全く聞けない、ということもある。
そりゃ、ある。仕方がない。
伝える側としては、聞いてくれる話し方や、聞いてくれる人になること、聞いてくれる可能性を高める関係性を作る努力をする必要がある。
伝えられる側としては、できるだけ聞く姿勢と、相手によって判断を変えない意識とを持つ必要があるんじゃないか。
人はみんな、伝え手であると同時に受け手である。何かを発信し、何かを受信して生きている。
だから「人間」である。
いまから人間やめます、って訳にもいかないし、山の中で一人で仙人のように生きるのも難しい(そして辛い)。テレパシーが使えれば良いけれど、今のところまだ使い手が少なすぎる。
だとしたら。ぼくらはまだまだ、コミュニケーションというか、伝える技術、受け取る技術を磨く必要があるんだろうなぁ、と思う。
そんなことを、使えないバイトを叱る店員がいるラーメン屋で考えた。
店員さん。あんたの言いたいこともわかる。でも、その言い方じゃ伝わらないんだと思うよ。
バイトさん。あんたの想いもわかるけど、相手の言うことは聞こうよ。
「自分の話は伝わらないかもしれない」
「相手の言うことを理解しよう」
そんなお互いの歩み寄りが、世の中を少しマイルドにするんじゃないか。そんなことを思っている。
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前提の共有
「前提を共有すること」の大切さを、改めて教わってきた。
ぜん‐てい【前提】
1)ある物事が成り立つための、前置きとなる条件。
2)論理学で、推論において結論が導き出される根拠となる判断。
はい。ここでもぼくは、「前提」の意味を辞書から引用して、読者の皆さんと「前提とは、どういう意味か?」の前提共有を試みたわけだ(そして多分、成功している)。
ぼくらは、みんな前提が同じだと思って生きている。
「りんご」と言えばあの赤くてシャリシャリした歯ごたえの木の実だろう。
「かね」と言ったら、福沢諭吉や新渡戸稲造が印刷されている紙を思い浮かべる。
「かつら」と言えば、頭髪が薄くなった人や髪形を変えるためにかぶる、髪の毛の集まったアレだと思う。
ただ、これらは全て「前提」を共有していないとおかしなことになる。
「りんご」はひょっとしたら木の実ではなく女性シンガーソングライターで、東京事変のボーカリストかもしれないし、かねはお寺の敷地内に吊るされている、大みそかに鳴らすアレかもしれない。かつらは、かぶるものではなくて、北海道北見市の地名かもしれない。
これは単なる「同音異義語」であって、さほど混乱をきたすものではない。ただ、文脈が少しややこしいと、ズレる可能性はある。
では。
「夢」とは何だろう。
「志」とは?
「幸せ」って何?
「豊かさ」ってどういうこと?
この辺になると、かなりややこしくなってくる。
「あなたにとって、価値ある人生とは?」
なんて質問になると、いよいよ難しくなってくる。
どういうものを「夢」と呼び、「志」と言い、「幸せ」と呼ぶか。そして「幸せ」をどう定義するのか。
「価値」とは何で、「人生」とは何なのか。
こういう様々なことの前提を共有しないまま話をしていると、まあまあの確率でズレていってしまう。良い、悪いではなくて、話が噛み合わなくなってくる。
ぼくらはみんな、自分が見たいように、あるいは自分のフィルター、メガネを通してこの世の中を見ている。だから、見え方は人それぞれに違っている。
大雑把に言えば
「この世はハッピーに満ち溢れている!」と思っている人もいれば
「この世は辛いこと、問題ばっかりだ」と思っている人もいる。
どちらが良いとか、悪いとかではない。
そう見ているだけのことである。
この二人が世の中のことについて話し合っても、そりゃ話がズレまくるし、合わないに決まっている。まず、そのひとの中にどういう情報が入っているのか。そのひとが世の中をどう見ているのか。そういう前提を共有してから、物事を話すのが建設的である。
いやもちろん、これをやるには結構手間ひまがかかる。時間もかかる。だから、関わったひと全員と前提共有するべき!!とは思わない。出来たらやったら良いと思う。ただ、違いに驚かされることは多いかもしれない。
ただ、大切なひとや、一緒に仕事をするひと、パートナーと認め合っているひととは、一度前提の共有をしてみてはいかがと思った。
そこのズレが解消するだけでも、コミュニケーションや意思疎通が意外とスムーズになるんじゃないかね、と思ったりする。
※最近書いているブログの中身の多くは、ぼくが最近学んでいる師匠から教わったものが多いです(違うものもあるけど)。なので、ぼくが100%思いついたものではないものもありますので、あしからず。師匠についてご興味ある方は、お声がけくださいな。
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「なぜ」の代わりに
「なぜ」、「なんで」、「どうして」・・・。
という問いは、必要な場合もあるのだけれど、時と場合によってはあまりうまく機能しない、と感じている。
例えば、やる氣が起きないな~と悩んでいる人に対して
「なんでやる氣が起きないの?」
と聞いても、たぶん言葉に詰まる。
「それがわかんないから困ってるんじゃん」
となるケースが多い。
特にネガティブ(と、一般的に思われていること)方面においては、「なぜ?」と聞きに行くと、ぐるぐるのループにはまってしまうケースがけっこうある。
「なんで、やるって言ったのにやらないの?」
「どうして宿題やらないの?」
「なんで、何度も遅刻するの?」
「どうして、あの人のことそんなに毛嫌いするの?」
「ねえどうして、すごくすごく好きなこと、ただ伝えたいだけなのに、ルルルルル、涙が出ちゃうんだろう?」
うん。ダウトが一つ混じってるのは氣にしないで先に進もう。
「なんで」、「どうして」と聞きに行くと、当たり前なのだけれど「理由」を探しに行く。ぼくの考えでは「理由」は過去にあることが多い。
やろうと思ったことができない理由も、宿題をやらない理由も、遅刻してしまう理由も、アイツが大嫌いな理由も、すごくすごく好きなことをただ伝えたいのに涙が出ちゃう理由も、過去にある。
やろうと思ったんだけど、テキストを開いたら眠たくなってやる氣が失せて以来、やる氣が出ない、とか。
一度遅刻してしまったら、何となく時間通りに行くのがあほらしくなってしまった、とか。
アイツが過去に言ったあの一言が未だに許せなくて、自分でももう忘れたいのに忘れられずに未だに顔を合わせるたびにチリっとくる、とか。
色々ある。そして、ぼくに言わせればそりゃ仕方がない。だって、そういうことがあったのは(その当人にとっては)事実だろうし、その過去は変えられない。
だとしたら。ぼくは提唱したい。
「どうだったら良いか、嬉しいか、幸せか?」と問うのである。
相手に対してでも良い。自問自答にも、結構使えるんじゃないかと思う。
やると言ったことをやらない人に対して、なぜやらないのかを問い詰めるのではなく、「どうだったら嬉しい?」と問う。
これは確かに、「はい!もうやりたくないっす!その方が幸せっす!」という回答が返ってくる可能性もある、諸刃の剣ではある。ただ、相手の幸せには繋がりやすいし、事が前に進む。
この問いは、矢印が現在と未来に向かっているのがポイントだ、とぼくは思っている。
いま、どうしたいか。どうだったら幸せか。この先、どうしていきたいか?を問うのである。
そうすると、人によっては前向きに撤退することを決断できるかもしれないし、あるいは、自主的に再始動を選べるかもしれない。
我ながらむちゃくちゃだとは思うが、宿題をやりたくなければ、やらなきゃいい、というのがぼくの基本スタンスである。それが幸せならば。ただ、宿題をやらないことで、将来起こるであろう厄介ごとについては、知っといた方が良いよね、とは思う。
だから、知ってる限りでお伝えしたりする。
ぼくには子どもがいないけれど、いたらたぶん、そう育てるんじゃないかな。「宿題やらんでいい」なんて言ったら、奥さん激怒しそうだけど。
遅刻も、誰かが嫌いなことも同じである。遅刻し続けるのが本人にとって本当にハッピーならば、それはそれで構うまい。誰かを嫌いで居続けるのだって、随分無駄なエネルギーは使いそうだと思うけれど、氣持ちとしてはわからなくもない。
ただ、それがあなた(自問自答の場合は自分)にとって、本当に幸せで、嬉しいことなんですか?という問いを立てる。たぶん、答えはノーのことも多いんじゃないかな。
すごくすごく好きなことをただ伝えたいだけなのに、涙が出ちゃうのは、その時点で幸せだから、きっともう何かを問う必要がない。末永くお幸せにとだけ言っておこう。それはそれは、夢のような瞬間だろう。
まさに「Dreams Come True」である(などと)。
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