時代の半歩先
「時代の半歩先を行く」。
ぼくが以前勤めていた会社の創業者が、こんなことを言ってた(らしい。ぼくが勤めてた頃には、既に創業者は亡くなってたからね)。
「時代の半歩先を行く」。
なるほど。一歩先を行ってしまうと、たぶん行き過ぎなんだろう。
時代の流れから遅れてしまうと、ただの時代遅れである。
時代と同じ歩幅で歩いているのは、凡庸でしかない。
こうして見ると「半歩先を行く」というのは、なかなかに面白い視点じゃないかと思う。
例えば。
原発も要らないし、電気も要らない。電化製品なんて何一つ要らないんだぜ!というのは、時代から遅れているか、あるいは先を行き過ぎている感がある。
世の中のほとんどの人は、まだやっぱり電気が必要な暮らしをしているし、「電化製品なんか使うな」、「野生に戻れ」と言ってもそう簡単ではない。
「電話やスマホなんて古い!時代はテレパシー!」というのも、先を行き過ぎている。
お客様の中で、テレパシーを自由自在に操れる方はいらっしゃいますか?と飛行機の中で尋ねてみて、自信満々に手を挙げるのはエスパー魔美くらいなもんだろう(挙げないか)。
逆の例を挙げよう。
一昔前は「ベジタリアン向けレストラン」なんてなかったし、あってもそんなに流行ってなかったんじゃないかと思う。
でも今はヴィーガンの方向けのレストランは結構あるし、ヴィーガンラーメンなんてのもある。しかも、結構流行っている。
ぼくはヴィーガンそのものには興味がない(正確に言えば、その人が食べたいものを食べりゃいいと思っている)けれど、ここに目を付けた(という言い方はイヤらしいが)人は「半歩先」を行ってるように感じる。
世の中から何が求められているのか。世の中がどう動いているのか。そこを見て、「半歩先」を行く。自分を取り巻く環境を把握できていなければ、半歩先も何も、どこに自分の身を置くかすらもわからないだろう。
これは「主観と客観の一致」ってことにもつながってくるんだろうな、と思っている。
自分が「素晴らしい!意味がある!」と思っていることでも、他の人からのニーズがなければ、大きなムーヴメントになることはない。
時代の一歩(場合によっては二~三歩)先を行ってしまっていると、どうしたって受け入れてはもらえない。もちろん、「わかってねーなー」で済ませるのも手だし、「これがわからない地球人なんてクソ」と思って自分を慰めるのも良い。
自分の理想や、自分が見たい世界があって、それが世の中の一歩(あるいは二~三歩)先を行っているものだったとして。
それを一人きりで実現できるなら、わざわざ「半歩先」なんてところを狙う必要はない。信じた道を突き進めばいい。
ただ、多くの場合、それでは何も変わらない。一歩先のビジョンを実現するために、半歩先まではしごを降りてあげる。そういうことも必要だろうと思っている。
ところで、「ヴィーガン」って何?
=====
本当のあなたの可能性に出会う、
人生を楽に楽しく先読みする速読
『楽読』の体験会は↓↓こちら↓↓から
https://rth.co.jp/access/yaesu/seminar
=====