小さな「善きこと」
最近、こんなことがあった。
公園のベンチに座って、音楽か何かを聴いていた。終わったし、さて帰るかと思って、何となくイヤホンを耳から外したら、一個隣のベンチに座ってるおっちゃんが「それ、携帯で聴いてんの?」と聞いてきた。
多少びっくりしつつ、そうですよと答えると、おっちゃんは「そうか。おっちゃん、そういう機械弱いからわからんわ」と言った。
それからおっちゃんは、今日は浅草に行ってきたこと、久しぶりに会った友人と昼から4軒はしごして飲んだこと、巨人は勝ったかどうか、おっちゃんは広島出身で、広島出身の人間はみんな応援していること、西城秀樹が亡くなったこと、彼もまた広島の出身で、山陽高校卒であることなどをぽつぽつと話した。
ぼくは聞くでもなく、聞かぬでもなく、何とも中途半端な状態で、おっちゃんの話に耳を傾けていた。
おっちゃんは、親も先立ち、兄も亡くなり、もうこの世に未練はないと言いつつも「でもまあ、まだ生きていたいけどな」と、少しだけ広島弁の名残がある発音で話した。
そしておっちゃんは去り際に「まあ、頑張ってな。わしゃもう寝る」と言い残して帰っていった。
○また別のおっちゃんとのこと
遡ると、こんなこともあった。
家に帰ろうと電車に乗っていたら、細見だが、がっちりした、色黒のおっちゃんが乗り込んできた。おっちゃんはぼくの隣の空いていた席に座り、ごく自然に「これは新宿行く?」と聞いてきた。
行きますよ、と答えるとおっちゃんは感謝を述べると同時に、宮崎からさっき飛行機でこちらに来たこと、息子が入院したので飛んできたこと、宮崎はもう温かいのにこちらは寒い(確か春先のことだった)と思ったこと、実は息子は性同一性障害で、男の人が好きだということ、それに対して自分は理解したいけれどできないこと、などなどを話した。
新宿に宿(ややこしい)を取っているというので、ぼくは遠回りして新宿で降り、おっちゃんをホテルまで送り届け、自宅に帰った。
おっちゃんは大変感謝してくれ、ぼくはぼくで、また会いましょうと言って別れた。連絡先の交換もしていないけれど。
○「かみさま」との遭遇
だから何だ、と思う方が多いだろう。ぼくだって、急にこんな文章を読まされたら、たぶんそう思う。
ぼくはこの2つの出来事を「かみさまとの遭遇」と呼んでいる。というか、今回二度目にして、そう呼ぶことにした。
小説『アルケミスト』には、思いがけない出会いから、主人公が進むべき道が見えてくる、というエピソードがある。
別にぼくは、彼らから進むべき道を授かったわけではないけれど、彼らはたぶん、かみさまだったんだろうと思っている。
ぼくは、このかみさまとの遭遇を通じて、人間というのは潜在的に「人の役に立ちたい」生命体なんじゃないかと思った。
どんなに一人で生きていきたい、一人きりでいたいと思う人でも、何か人の役に立つことができる自分を発見したとき、嬉しい氣持ちになるんじゃないかなと。
ぼくは(おっちゃんに姿を宿した)かみさまたちに、何かをしてあげられたとは思っていない。ただ、彼らはぼくに話をしただけで、何か少し嬉しいような、満足したような顔で去って行った(氣がする)。
○人という字は、ではないけれど
人は、人の間で生きるから「人間」である。人間の心は、不思議だなあといつも思う。
ぼくで言えば、ああ楽しかったと家に帰る道すがら、何か、もう少し話足りないと感じることがある。あるいは、不安や心配、さみしさや孤独で押しつぶされそうなとき、誰かと話したいと思うことがある。
ぼくが出会ったかみさまたちが、そうだったとは言えないし、それはわからない。ただ、もしそうだったとするならば。
ぼくがかみさまの立場なら、たまたま隣に座った兄ちゃん(ぼくのことだ)が、自分の話を聞いてくれ、ふんふんと頷いてくれるだけでも、とても嬉しいし、ホッとするんじゃないかなとも思う。
別におっちゃんじゃなくても、きれいなおねーさんでも、若くてかわいいお嬢さんでも良いのだけれど、目の前の人に、小さなことで良いから、何か「善きこと」を提供できる人でありたいなあ、と思った。
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