「逃げ癖」と「わからない」と「わかると決める」こと


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「無くて七癖」。人には、少なくても7つくらいはクセがあるんだよ、という格言(?)だ。調べたら「無くて七癖、あって四十八癖」というのもあるらしい。四十八もあったら、癖だけで色々忙しそうだ。

 

癖はあっても無くてもどうでもいいもんだと思うし、考え方によっちゃ「習慣」とも言える。靴を脱いだらそろえるのが癖、という人がいるかもしれないし、そういう癖はむしろ良い感じすらする。

 

とはいえ、ぼくらは自分では止めたい、無くしたい癖があると思う。

 

 

 

○「わからない」で逃げる癖

ぼくには、逃げ癖がある。もしくはあった。これを認めるのは、自分的にはまあまあヘヴィなのだけれど、書く。

 

一例というか、その表れの一つに「わからない」を多用することがある。ぼくはつい、なにかの拍子に「わからない」と言ってしまう癖がある。

 

その「わからない」は、本当にわからないのではなく、「話の焦点をぼやかしたい」とか「わかりに行きたくない」というココロの表れかもしれないなと思うことがある。

 

会話の中で、ぼくはもはや無意識的に「わかんないけど」と言っていることがある。口癖になってしまっている。そして、それをやめたい。

 

「~だと思う」、「~のはず」も、ぼくの口癖だ。自分のことなのに、つい断言を避ける。こういう癖の積み重ねがぼくの言動に影響を与えている氣がする。

 

と書いてまたもや「氣がする」と逃げを打っている自分を発見する。もちろん、本当に影響を与えているかどうかはわからないけれど、ぼくの体感としては影響を受けているわけで、「影響を与えている」と言い切ったところで誰かに迷惑をかけるわけではないのに、だ。

 

○逃げるから、踏み込みが甘くなる。

これは「失敗したくない」というココロの防御反応から来ている、とぼくは見ている。断言して違ったら困る。だから、「わからない」とか「~だと思う」、「~のはず」、「~な氣がする」と、予め煙幕を張る。ある意味、逃げ場を作っている。

 

だから、わずかに踏み込みが甘くなる。

 

変な話。剣術に例えるならば、稽古であればそれでも形にはなるし、そこそこの段位までは行くだろう。ただ、真剣勝負になったとき、この腰の引け具合は命取りになる。すんでのところ、あるいはそれよりももっと前に、ぼくの切っ先は相手に届かず、ぼくは相手にバッサリと切り捨てられるだろう。

 

「自分の言葉を一番聞いているのは自分」という話を聞いたことがあるかもしれない。自分がどういう言葉を発したかを、最も聞いているのは自分。そりゃそうだ。そして、その聞き続けた言葉は、話し手(≒最大の聞き手)の思考や性格を形作っていく。

 

つまりぼくは、長いこと「わからない」を自分に聞かせてきた。結果、何か困難な局面や大きな判断、決断を迫られたとき、自分のココロに従って選べば良いだけなのに、思わず「わからない」と言ってしまう、逃げてしまう癖を身に着けてきたのだ。

 

○ぼくはぼくのことが「わかる」ことに決めた

でも、当たり前ながら、自分のことは自分が一番良く知っているし、自分だけがわかる。そのぼくが「わからない」といった瞬間に、この世の中にぼくのことがわかる人は誰もいなくなる。それは、さみしい。

 

ぼく自身くらい、ぼくのことをわかっていてあげたい。最近、そう思った。

 

だから、ぼくは自分のことを100%わかることにした。あるいは、わかると決めた。

 

かつてなら「わかんない」と選択を逃げて、流れに任せていたようなことでも、ぼくはぼくの決断を信じるし、ぼくの意志を信じる。

 

それがたとえ、人間業で見ると「えーっ」と思うようなことでも。かつてのぼくならば選ばなかったような、茨の道であっても、だ。

 

それでもつい、「わからない」と言ってしまったときには、間髪入れずに「わかりますけどー」と言っていきたい。周りからは多少変な目で見られるかもしれないが、まあ良いだろう。

 

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