「○○じゃないと××してはいけない」の罠
【固定観念】
心の中にこり固まっていて、他人の意見や周りの状況によって変化せず、行動を規定するような観念。固着観念。
今から書くことは、あくまでもぼくの個人的な考えで(当ブログは常にそうだ)、別に固定観念が悪いとか、ない方が絶対に良いとかではない。
ただ、ぼく個人としては、固定観念を持ち続けて生きたくはないと思っていることは表明しておく。
○まだまだあった固定観念
ぼくはもともと固定観念に囚われていた。最近はだいぶなくなってきたと思っていたけれど、最近新種を発見した。
それは「○○じゃないと××しちゃいけない」というやつだ。これは汎用性が高い。
例えば「友だちじゃないと、相手の嫌なところを指摘しちゃいけない」とか、「成果を出してないと、発言しちゃいけない」とか。近いカテゴリーに「良いことを言わないといけない」というのもある。「めっちゃ体調が悪くないと、会社を休んではいけない」とかも。
実は全て幻想である。にもかかわらず、ぼくはずーーーーっとこの幻想に囚われ続けていた。
○行動に理由が必要か?
これが行き過ぎると、何か行動を起こすのに全て理由が必要になる。
例えば、ブログやフェイスブックの投稿にコメントを残す。このくらいのことでも「さほど仲良くないのに、ぼくがコメントしていいかな?」と考えたりする。
いざ書くとしても「何か良いこと言わなきゃ」とか「何か相手が嬉しいことじゃないとダメじゃないか」とかとか、さんざん考えてた。
要するに、何か行動するのに理由が必要だと考えるわけだ。
でも、記事を読んだ。→なんか良いな!なんかこう思った!→それを伝えたくなった。→そのまんま伝える。
これ以上に、何か行動の理由が必要だろうか?うん。必要ない。その人の記事を読んで、自分の中の何かが動いた。今のぼくにとって、もう十分すぎる理由だ。
裏を返すと、明確な理由がなくたって、行動していいわけだ。
○固定観念の(無意識の)メリット
では、なぜこんな固定観念が生まれ、定着するのか。実は行動しない方が生きる上ではカンタン、というメリットがあるからだと思う。
わかりやすい例として、役割に関する固定観念を挙げてみる。「この人がこの役割だから、私が出しゃばって何かするのは良くないよね」とか「子どもを注意するのは、親の仕事だよね」とか。「自分はその役割じゃないから、その役割の行動をしてはいけない」というやつ。
実際には、そんなことはない。目の前の子どもが道に外れたことをしていたら、通りすがりの大人が叱ったっていい。むしろ、その子の将来のためにはその方がプラスかもしれない。でも、多くの大人は見て見ぬふりをする。
なぜか。「自分はその役割じゃないから、その役割の行動をしてはいけない」という固定観念を持っているからだ。このゾーンに居続ければ、その人は行動を起こさなくて済むし、行動に伴う責任も取らなくて済む。
うん。ぼくは長らく、意識的にか無意識的にかはわからないけれど、この「固定観念のメリット」を生かして、やらずに済ませることを選んできたのだ。
でもさ。自分がいる会社や組織やコミュニティ、さらにデカいことを言えば自分が住んでる町や国、つまりは世界を良くしていこうと思ったときに「私の役目じゃないんで、やりません」とかあり得る?むしろ、自分ができること、やりたいと思ったことは、多少無理してでもやるでしょ?と思った。
むしろ、やる自分でありたいなと思った。だから、自分を変えることにした。ただ今、絶賛取組中だ。ひょっとしたら、コケることもあるかもしれない。失敗もするかもしれない。でも、やり続ける。
なぜか。それをやることが、ぼくの理想に繋がっているから。
そんなことを最近考えた。
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