まず、火を点ける

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何かを始めるとき、

あるいは、

何かを成し遂げるときには、

まずそのひとの情熱の火を

点すところから始める。

 

そんなことを考えた。

 

「何かしたい!」とか

「何かを始めたい!」というひとがいて。

 

そのひとに対して

「そんなの無理だよ」とか

「現時点での問題はこれで」とか

「こうしたらいいよ」というのは

悪くはないけれど、最善じゃない。

 

大切なことは、まず最初に、

そのひとの情熱に火を点けること。

 

情熱が燃え上がったら、

「じゃあ、どうしようか」

「どうやっていこうか」

「いまの課題は何?」と

一緒に考えていけばいい。

 

「そのひと」というのは

ひょっとしたら、

目の前にいるひとかもしれない。

 

あるいは、自分自身かもしれない。

 

もちろん、自分一人で

情熱の火を燃やし続けられれば、

それはそれで素晴らしい。

 

でも、そうではないとき。

 

誰かの力を借りるのもいい。

 

ぼくが意識しておきたいのは、

誰かの情熱の火を消さないこと。

 

誰かの情熱の火を、信じて、

点し続けられるひとであること。

 

いくら始めるときに

情熱が燃え上がったとしても、

その熱が冷めることもある。

 

一時的に、その火が消えかけることもある。

 

でも、始めるときに燃え上がった

情熱の火は、きっと間違いではない。

 

だから、その火をもう一度、

点し続ける。

 

始めたことを止めたっていい。

 

別の道に進んでいってもいい。

 

ただ、その道に進みたいけれど、

いまは情熱が消えかけているひとを

もう一度奮い起こすことができるひとで

ぼくはありたいと思った。

 

というのも。

 

ぼくがそれをしてもらったと

感じているから。

 

そのことに関しては

本当に感謝しかない。

 

だからこそ、ぼくも、

そういうひとでありたいと

心から思っている。

 

あなたがもし、

情熱を失いかけているのなら。

 

自分に向かって言ってみてほしい。

 

「そこに情熱は本当にないのか?」

「本当にそれを諦めて、後悔はないか?」

 

そして、自分の情熱を発してみる。

口に出してみる。

表現してみる。

 

そうすると、何かが変わるはず。

何しろ、ぼくがそうだったから。

 

一旦始めたなら、

自分が納得するまで、取り組んだらいい。

 

そこで、「あ、ここじゃない」と

次の道に行くのもいいだろう。

 

まずは、進み始めた道を

とことんまで進んでみる。

 

情熱を、燃やし尽くしてみる。

 

次へ進むのは、それからでも遅くない。

 

↑だ、そうです

 

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実践智に落とし込む


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新しいことを学ぶとき、

何が一番大切なのか。

 

最近、「身体で覚えること」

かもしれないなと

思い始めているのです。

 

例えば。

 

いくら本を読んでも、

料理が上手くなることは

たぶんない、というか、ない(笑)

 

ゴルフ雑誌を読むのも良いけれど、

実際にスイングしてみて、

自分のフォームのくせや、

修正点を見つけるのは絶対必要。

 

身体を使うこと以外も、

実はそうなのかもね、と思う。

 

ぼくらが学ぼうとすることの中で、

バーチャルで完結するものは

ほぼないんじゃないか、と思う。

 

だから、学んだことをアウトプットする、

実践してみる、という、

言わば稽古→実践、みたいなものが

必要なのかもしれないなあ、と思う。

 

そうすると、

あれ?わかってるつもりだけど、

実際はよくわからん

ということが、

多くの場合出てくる。

 

だから、復習する。

 

そして、

さらに深い理解に至る。

 

「腹に落ちる」とか

「腑に落ちる」って言うでしょ。

 

「腑」ってのは、内臓のこと。

転じて「心」や「性根」のことも指す。

 

つまり、内臓に染み込むように

繰り返してみると、身に着く。

 

そうすると、自然と、勝手に

出来るようになってくる。

 

料理もそうじゃないですか。

 

最初はおっかなびっくり

包丁を使っていたのが、

だんだん慣れてくる。

 

味付けも、

最初はレシピ通りにしてたけど、

だんだんいい意味で

アバウトになってくる。

 

このくらい

塩を足したらこうなる、が、

肌感覚でわかってくる。

 

何度も繰り返して、

感覚をつかんでいく。

 

知ってるだけでなく、

実践智に落とし込む。

 

そういうことなんだなぁ、

と最近特に思う。

 

間違ってもいいし、

失敗してももちろんいい。

 

そこからの学びを

また実践智に変えていく。

 

そういうひとでありたいなと

ぼくは思ってる。

 

楽読(速読)も、

もちろんそうです(笑)

 

お待ちしてます(笑)

 

↑今度読んでみようと思うよ(笑)

 

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人生はプロレスである

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「人生はプロレスである」という、

むちゃくちゃな持論を展開したい。

 

裏を返せば、

「プロレスは人生である」

とも言える。

 

「プロセス」の打ち間違い、

とか、そういうことではない。

 

正真正銘「プロレス」、

プロレスリングである。

 

たぶん、このブログを読んでくださってる方の

多く(7~8割?)は、

そう言われてもピンと来ないと思う。

 

でしょーーーね!!とも思う。

 

ぼくも、いきなりそんなことを言われても

「ですよね!!」とは

言えないかもしれない。

 

でも、敢えて言う。

 

みなさんがどう感じているかは

わからないのだけれど、

プロレスは、ああ見えて

技術力が必要なものである。

 

まず、基礎的な体力がないと

どうしようもない。

 

屈強な男(場合によっては女性)に

ぶん投げられたり、蹴られたりしながら、

15分なり30分なりの試合をこなすには、

当然それなりの体格と、

基礎体力がどうしても必要だ。

 

次に、「受け身」。

 

何の工夫もなく

技を受けているように見えて、

レスラーたちは受け身を

きちんと習得している。

 

そして、相手の技をきっちり受け切る。

 

もちろん、相手の技を食わないために

よけたり、防御することもあるけれど、

プロレスの妙味は「受けの美学」にある。

 

相手の技なんか一切食らわず、

自分の必殺技をとにかく

試合の序盤から繰り出せばいい、

というものではない。

 

それでは、カタルシスがない。

味わいがない。

 

相手の必殺技を受けて、

うーわーっと思っても、

カウント2で返す。

 

そういう応酬こそが

プロレスの醍醐味である、

とぼくは思っている。

 

その上で、

自分の持ち味を十分に発揮する。

 

レスラーには、色々なタイプがいる。

 

岩のような肉体で、

ゴリゴリ相手をねじ伏せる

パワーファイターもいれば、

華麗な空中殺法で魅了する

タイプの選手もいる。

 

ド派手な必殺技を繰り出す選手も、

地味な関節技が得意な選手もいる。

 

いろんなタイプのレスラーがいていい。

むしろ、色々なタイプがいた方がいい。

 

どの選手が良いも悪いもない。

その選手の持ち味が見られた時、

ぼくらプロレスファンは嬉しくなる。

 

ときには、

悪役に転じることもある。

 

それもまた、味わい深い。

 

勝敗は、もちろん大切。

 

でもそれ以上に、

そのレスラーの個性が

存分に発揮されることこそ、

プロレスの魅力だとぼくは思う。

 

それは、ぼくらの人生も。

 

経済的、社会的、家庭的に

「成功」することは、当然尊い

 

でもそれは、

自分の個性が

最大級に発露した結果、

であってほしい。

 

ぼくはそう願っている。

 

ド派手な必殺技を繰り出す

一部のスター選手だけがもてはやされる、

そんな世界ではなく。

 

エル・サムライ

渕正信のような

地味な実力者や、

自分の立場で役割を

きっちりこなす選手にも

スポットライトがあたる世界。

 

ぼくはそれがプロレスだと思うし、

人生とはそういうものであってほしい、

と思っている。

 

 

答え

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結局、答えは自分の中にある。

 

自分の中、とは言ったものの、

それは例えば

守護霊さんが知っている、でも

宇宙から答えが降りてくる、でも

表現方法はなんだって構わない。

 

ただ、

この世のすべてはある意味

マボロシであり

自分の意識の現れであり

そこに答えはない。

 

ということが言いたいのです。

 

なにか、

歯車が噛み合ってないなとか

ズレてる氣がするなと思うときは

その答えは自分が既に知っている。

 

そう思った方が良いみたいだ。

 

なんか嫌だな、

なんとなく違和感があるな、

なにかがオカシイ。

 

物事を見て、あるいは

誰かの言動を見てそう感じたときは

自分の中に問いかけた方がいい。

 

なぜ、そう感じるのか?と。

 

もちろん、さっきも言った通り、

守護霊さんに聞いても良いし、

宇宙に問いかけてみても良い。

 

ともかく、

目に映る「現実」のようなものには

答えを求めても意味がない、っぽい。

 

そんなことを感じている。

 

ぼくもこのところ、

違和感のようなものを眺め続けている。

 

ぼくの何が反応しているのか。

ぼくはなぜ、そう感じているのか。

 

 はっきり言って、しんどい(笑)。

 

そんなことをするよりは、

誰かのせいにしたり、何かのせいにして、

「だから世の中良くならねーんだよ」とか

「これだから今どきの若いもんは」とか

「トシは取りたくないもんだねぇ」とか

なんつってる方がナンボか楽だと思う。

 

たぶん。

 

注)

別にぼくは若い人に対して

怒っているわけではなく、

世の中の不正を

憂いているわけでもありません。

あくまでもただの例です。

あしからず。

 

でも、まあ解決しないんだよね、

それでは。

 

なにかに違和感を

感じるということは

自分の中で

不調和をきたしているということ

みたいなんだよねえ、

と言いたいのです。

 

それが、どんな不調和なのかは、

悲しいかな、自分で探るしかない。

 

もちろん、

ひとの助けを借りるのも

いいでしょう。

 

ただ、そのひとが

答えを持っているわけではない。

 

ぼくも占いの類は

(最近認めたけど)好きだし、

結構見る。

 

しいたけ占い」なんか、

毎週チェックしている(真顔)。

 

でも、占い師が

物事のすべての

答えをつかんでいる、

わけではない。

 

当たり前なんだけど。

 

結局のところ

 

「自分で考えろ」

 

という、

面白くもない結論に

なってしまう。

 

やれやれ。

 

ただまあ、

最近、ぼくの中で出た

答えの一つは

「求められてないことはするな」

ということだった。

 

例えば。

 

ミッシェルガンエレファント

(またはバースデイ)のボーカル、

チバユウスケが、ライブで

さだまさしばりに

長々としゃべったら?

 

たぶん客は途中で飽きるだろう。

 

逆に、さだまさしがライブで

一言もしゃべらなかったとしたら?

 

これまた、客は不満だろう。

 

わかりにくい例えだけれども。

 

要するに、

そのひとにはそのひとに

求められてることがあって、

それを全うするのが

そのひとにとっても幸せだし、

一番世の中の

お役にも立つんだろうと思う。

 

ぼく?

 

そう。ぼくはぼくで

求められてもいないことを

たくさんやってきたのかもな、と

最近感じ始めている。

 

ま、これも学びだよね。

 

まとまらなくなってきた(笑)。

 

とにかく。

 

あなたがもし、

なにかモヤモヤを

抱えているなら、

ひとに聞く前に

自分に聞いてみよう、

ってこと。

 

答えは、自分が既に知っている。

 

知らないふりをしているか、

持ってる答えに氣付いていないだけ。

 

そこにタッチできれば、

物事は変わっていく。たぶん劇的に。

 

そのくらい、本来のあなたは

エネルギーに満ち溢れている。

 

らしいっすよ。

 

んじゃね。

  

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OVER


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終わりは始まり。

 

シェイクスピア、特に『マクベス

あたりに出てきそうなセリフですが、

残念。出てきません。

 

でもね。終わりは始まりなんだよね、と

改めて最近思っているのです。

 

ぼくが密かにミスチル

Mr.Children)の中でも

隠れた名曲だと思っている

『Over』という曲がありまして。

 

いや、隠れてないかもだけれど、

それはまあ、置いておくとして。

 

心変わりして別れた彼女に対する、

正直じめっとした男心を

歌う曲なのですが。

 

最後、このように〆るのです。

 

何も語らない 

君の瞳もいつか思い出となる

言葉にならない 

悲しみのトンネルを 

さあくぐり抜けよう

 

桜井和寿、天才か。

いや、ぼくが言うまでも

ないことなんですが。

 

そう。

 

終わらないと、

何も始まらないのです。

 

いや、ぼく自身のことで言えば、

何かがあったわけではないのです。

 

むしろ、何もないと言っても良い(笑)。

 

例えば、さ。

 

誰か大切なひとの葬儀に立ち会ったとか

彼女さんと別れたとか、

そういうことがあったかっちゅうと、

そういうわけではない。

 

でも、一度きちんと、

色々なことを終わらせないと、

次のステップにも進めない。

 

そんなことを感じる

今日この頃なのです。

 

何となく宙ぶらりんにしておけば、

その中でぬくぬくと

心地良くいられるかもしれない。

 

でも、そこに未来はたぶんない。

 

だから、

終わったことを嘆くより、

始まったことを祝おう。

 

そう思うのです。

 

終わりは、始まり。

 

そう。だからこそ。

 

終わらせよう。

 

そして、

新しく始めよう。

 

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氣付いて認める


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全ては、氣付いて、

認めることから始まるんだなあ、

ということがわかったのです。

 

最近氣がついたのですが、

ぼくは「距離感」みたいなものを

測るのがどうも苦手らしく。

 

物事との距離感、もそうだし、

人との距離感、もそう。

 

 

ぼくはつい、ひととの距離感を

(意識的にか無意識的にかはわからんけど)

近めに取ってしまう傾向にあるっぽい。

 

で、失敗する。

 

近付き過ぎて嫌な思いをしたり、

相手に嫌な思いをさせてしまったり。

 

特に、このひと好きだなあ、

と思ったひとに対して、

そういうことが起きやすい。

 

だから、なのかなんなのか、

近付き過ぎた!と思うと、

今度は大幅過ぎるくらい大幅に

距離を取ろうとする傾向にある。

 

何なら、こないだまで好きだったのに、

急に嫌いだと言い出すほどに。

 

そうすると、当然のことながら

関係性は徐々に薄れていく。

 

あるいは、何となく変な空気が

お互いの間に流れ始める。

 

そりゃそうだよね。

 

話は脱線するのですけれど。

 

宇宙ってすごくないですか。

 

惑星同士は適切な距離を保って、

干渉しあわず、衝突もせず、

運行し続けている。

 

ぼくには、あれが今のところ

上手にできないのです。

 

このひと好きだなあ、と思って

近付き過ぎた後、

振り子のように逆に振れて、

盛大に距離を取ろうとする。

 

このひと嫌い、とか

腹立つ、とか、

ココが氣に食わないとか

思ったりする。

 

そんなことを繰り返し続けている。

 

 

でも、氣が付いたのです。


嫌いだな、腹立つな、苦手だなと

思ってるのは、なんでか。

 

それは、実はすごくそのひとに対して

関心があったり、愛情があったり、

期待しているからなんだな、と。

 

そのことに氣付いて、認められたのです。

 

そしたら、少し楽になった氣がしたのです。

 

だから何だ、と思うかもしれないけれど。

 

もし、あなたが誰かを見て、

腹立つなとか、嫌だなとか、

ああいうのは好きじゃないと思うとき。

 

ただ単に「嫌い」なだけじゃなくて、

その裏側には、あなたが見たい相手の姿、

ってのがあるからかもよ、と

言いたいのです。

 

そして、それも良いじゃない。

 

認めましょうよ。

 

相手に「こうあってほしい」と思う

あなたの(あるいはぼくの)氣持ちは

決して悪いものではないし、

封じ込めなくてはいけないものではない

とぼくは思うのです。

 

ぼくはあなたにこういうひとであってほしい、

というのは、期待である。希望である。

 

ぼくの勝手な願望である。

 

それもまたよし。

 

それだけ相手に興味や関心や

愛情があるってことなんだから。

 

認めよう。

 

そこを認められたら、

相手と自分とのちょうどいい距離感を

見極められるかもしれないなあ、

なんてことを考えています。

 

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自分フィルター

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映画『イップマン 継承』を見ました。

 

通常、1、2があるものをすっ飛ばして

3を見ることをしない私なのですが

(『継承』は3作目)、

でも良かった。とても良かった。

 

本作品を見て、

言いたいことは色々あるのだけれど、

一つだけどうしても書きたいので書きます。

 

実はイップ・マン(葉問/人名です)、

ブルース・リーのお師匠さんに当たることでも

知られています。

 

本作『継承』には、

若かりし頃のブルース・リーとの

エピソードも出てきます。

 

あ、でも、史実と異なる部分も

あるようなので、

本当のことかどうかは知りません。

 

どんなシーンかというと。

 

イップ・マンの道場を訪れたブルース・リー

弟子入りを志願します。

 

それを聞いたイップ・マン、

ブルース・リーに対して

ちょっとしたテストを出します。

 

その最後に、イップ・マンは

ブルース・リーに対して水をかけ、

リーはその水を蹴ろうとします。

 

「水を蹴ることはできたかね?」

と尋ねるイップ・マン。

答えられないブルース・リー

 

イップ・マンは黙ってドアを開け、

ブルース・リーは出て行きます。

 

さて。物語が終盤に近付いた頃、

イップ・マンとブルース・リーが再会します。

 

そして、ブルース・リーは問いかけます。

「どうして、あの時、私の

弟子入りを拒んだのですか?」

 

イップ・マンは答えます。

「拒みなどしたかね?

私はドアを開けただけだ。

そして、そのドアから君が出て行っただけだ」

 

はい。このやり取り。

 

こういうことって、ぼくらの日常生活にも

起きてるよね、と思うのです。

 

相手の言動の意味や意図を、

こちらが勝手に推測して、

判断してしまうこと。

 

相手にはそんな意図はない

(かもしれない)のに、

勝手にそう思い込んでしまうこと。

 

ブルース・リーにとっては、

このシチュエーションで、

イップ・マンがドアを開けるという行為は

「弟子入りを拒まれた」ことと

イコールだったわけです。

 

イップ・マンは、ひょっとすると、

ブルース・リーが勘違いする可能性をも

見抜いていて、その上で

黙ってドアを開けたのかもしれません。

 

ぼくが見ているこの世界は、

ぼくが創り出しています。

 

同じように、

あなたが見ている世界は、

あなたが創り出している。

 

言い換えると、

ぼくらは、自分というフィルターを

通した世界を見ていることになります。

 

だからこそ、覚えておきたいのは、

自分のフィルターと他人のフィルターは

全くと言っていいほど違う、ということ。

 

なにか、他人の言動で

腹が立ったり、悲しくなったら、

これはホントにそういう意図だったのか?と

自分のフィルターを疑ってみることを

おススメします。

 

案外、こちらの勝手な

思い込みだった、

ということもあったりします。

 

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