好きなもの

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おモチが好きなんです。

 

三度のメシよりモチが好き、

とまでは言いませんけども、

三度のメシがモチでも良いかなと

思うくらいには餅が好きです。

 

お雑煮も好きです。

なぜお雑煮は正月にしか食べないのか、

と常々思っています。

 

なので、お正月は

お雑煮ばっかり食べてます。

 

おせちも好きなのですが、

どっちかと言われると

お雑煮でしょうか、最近は。

 

この「好き」という感情。

 

「なんで?」と問われても、

答えに困ったりします。

 

おモチが好きな人は、あの食感だとか、

味だとかが好きなんだけれど、

あの粘る感じとか、

伸びる感じがどうにも許せない、

って人も世の中にはいるでしょう。

 

「好き」っていう感情には、

根拠がありそうで、

実はないんじゃないかと思っています。

 

もちろん、おモチに関しても

「これこれこうだから好き」と

説明することはできる。

 

でも、自分がなぜそれを

好意的に受け止めているのかは、

少なくともぼくは、

自分ではわかりません。

 

「だって好きなんだもん」

としか言いようがない。

 

お笑いを見ていて

「オレは和牛が好き」

「ぼくはジャルジャルがオモロイと思う」

「ぼくは霜降り明星だなあ」

「いや、相席スタートだろ」

と意見が分かれたとする。

 

それぞれのコンビの面白さについて

分析することはできる。

 

どこがどう面白いのか?を説明し、

解明することはできるだろう。

 

ただ、もう一度言う。

なぜそれを

「好ましい」「好きだ」

と思うかのメカニズムは、

こりゃもう謎でしかない、とぼくは思っている。

 

ぼくの場合、 

モチにしろ、お雑煮にしろ、

レキシ(ミュージシャンです)にしろ、

ラ・ラ・ランド』にしろ、

『LEON』にしろ(両方映画です)、

「理屈はどうあれ好き」なわけです。

 

恋愛なんかは、

より分かりやすいかもしれませんね。

 

もちろん、好きなタイプとか、

こういう性格が良いとか

いろいろあるとは思いますが、

「なぜその人が好きなのか?」

については、

理屈だけでは解明できない。

 

だって、自分がそれを

「良い」、「好き」だと感じてるから。

 

ぼくは「理想」とか「夢」とかも

同じじゃないかなあと思うのです。

 

もちろん、過去の経験や体験から

積み上げた理想や夢もあるけれども、

「自分がこんな世界を創りたい」とか

「こういう分野で活躍したい」と思うのは、

けっこう直感なんじゃないかな?

 

ピンとくる、というか、

パッと閃く、というか。

 

逆に言うと、あなたがいくら、

過去にこれをやってきたから!と考えて、

それを活かして何かしようとして。

 

そのことについてピンと来てなくて、

エキサイティングでなかったら、

たぶん上手く行かないんじゃないかな。

 

そんなことを考えたりします。

 

ぼくらは経験や、常識や、

過去データに囚われて

生きていることが多い。

 

こうだから、こうしなきゃいけない。

過去こうだったから、

きっと未来もこうだろう。

 

これはまさに、

固定観念でしかないわけで。

 

ひとが安心して生きていくためには、

前提条件として

固定観念」が必要なこともあるけれど、

多くの場合、自分で勝手に作り上げた

固定観念の中で

悩んでいることも多い。

 

それはそれで悪くはないけれど、

ときには、自分の直感や閃きに従って

行動してみる、生きてみるのも

良いんじゃないかなあと

ぼくは思っています。

 

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しがみつかない

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映画『ボヘミアン・ラプソディー』で。

 

しつこいようだけど、もう一つだけ言いたい。

 

・・・安心してほしい。ネタバレはしない。

 

Queenが『Killer Queen』でヒットを飛ばした後、

プロデューサーと話をするシーンがある。

 

「また『Killer Queen』みたいな曲を」

 

そう言われたQueenのメンバーが出してきたのが、

当時としてはあり得ない、6分超の長さである楽曲。

 

そう、『Bohemian Rhapsody』だったという。

 

こういうことって、いつの時代にもあるんだね、

と思ったのである。

 

パッとアタマに浮かんだのが、

ビリー・ジョエル

 

『Just the Way You Are(素顔のままで)』の

ヒットを受けて「またあんな曲を」と言われ続け、

作成したのが『Honesty』だ、ってな話を

小耳にはさんだことがある。

 

これは、別にミュージシャンに限った

話ではない。

 

ぼくらは(あるいは人間は)、ついつい

過去の成功を追体験したくなる。

 

もちろん、再現性のある成功は素晴らしいけれど、

「あの時のアレみたいの」を追い求めるのは、

既に後退が始まっている証拠なのかもしれない。

 

過去の成功、ヒットは置いといて、

次の成功、次のステップへ進む。

 

そうすることでしか、ぼくらは

進化していけないのかもしれない。

 

そんなことを考えていたら、

ぼくの友人が素晴らしいブログを書いていた。

 

ameblo.jp

 

そう。

 

過去の成功事例にしがみついても

今日、明日も成功できるとは限らない。

 

過去の自分を認めつつ、

いまの自分を生きる。

 

いかに、過去にしがみつかずに

いま、全力で生きられるか。

 

ふと思ったけれど。

 

傍から見ていると

すごい実績を残してきたひとほど、

過去に執着せずに

いまを駆け抜けている印象がある。

 

果たして、ぼくはどうだろう?

 

いまを全力で生きられているか?

 

しがみつくほどのこともない過去に

未だにしがみつこうとしてはいないか?

 

学びである(笑)。

 

いつもありがとうございます。

 

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『ボヘミアン・ラプソディー』

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ひょんなことから、

映画『ボヘミアン・ラプソディー』を見てきた。

 

ものすごくQueenファンというわけでもなく、

ものすごく詳しいわけじゃないけど。

 

ま、フレディ・マーキュリーだよねとか、

ブライアン・メイだよねとか、

バンドメンバーはわかるし、

有名な曲は知ってるよ、くらいの知識で。

 

行って、見て。

終盤はまあ、泣いてた。

 

実際には、事実と違う

部分があるって話も

あるらしいんだけど、それでも。

 

ここから先はネタバレ的になるので、

これから見て楽しみたい方は

読まない方が良いかもしれない。

 

ただ、映画とは関係あるけど、

関係ない話をするので

大丈夫かもしれない。

 

ま、どっちでもいい。

任せる(テキトー)。

 

ぼくがこの映画の

何に反応したかって、

それはもう

「家族」というフレーズである。

 

ファルーク・バルサラという青年が

フレディ・マーキュリーとなって。

 

Queenのフロントマンとして

様々なものを手にしてきた中で、

最も欲していたもの。

 

それが「家族」だった。

 

敬虔なゾロアスター教徒で、

厳格な父との確執。

 

バンドとして成功する中で生まれる

メンバーとのいざこざや仲違い。

 

愛する女性と結婚しながらも、

自らがゲイ(バイセクシャル?)

であるために、彼女と

離れなくてはならなくなったこと。

 

恐らく彼は

ずっと孤独だったし、

心のよりどころが

欲しかったんだろう。

 

ひとはいつまでも

生きられるわけではない。

 

ひとはいつか必ず死ぬ。

 

そのときに。

 

誰と一緒に居られるのか。

 

心が通じ合えた家族が

自分の周りにどれほどいるのか。

 

敢えて一緒にするけれど、

ぼくやフレディが求めているのは、

血がつながっているとか

どうとかではない。

 

「家族」とお互いに認めあって

心が通じ合えるひとたちがいること。

 

フレディにとって、それは

当然両親であり、妹であり、

恋人であり。

 

それと同時に、

ひょっとしたらそれ以上に、

別れた奥さんであり、

何よりもバンドメンバーだったんだろう。

 

ここはもう、想像の世界だけれど、

Queenは、音楽を通じて

お互いを理解し、尊重し合い、

認め合い、愛していたんだろうと思う。

 

少なくとも、映画を見た感想は

そういう感じ。

 

もちろん、実際にはそんな

きれいごとばっかりじゃない

んだろうけども。

 

クライマックスのライブシーン。

 

それがものすごく伝わってくる。

 

そして、フレディの心の声が

歌詞を通して聴こえてくる。

 

そこがまた、素晴らしくて。

 

ライムスターの宇多丸さんがラジオで

「自分の人生を肯定する映画」

ってなことを言ってたけど、

ほんとその通りだなと思って。

 

それが凝縮されてるのが

実は『We are the champions

の歌詞だったりするんだけども、

引用すると長くなるので、

サビの1フレーズだけ。

 

We are the champions, my friends,

And we'll keep on fighting 'til the end

 

我々こそが勝者なんだ、友よ。

そして、最後まで闘い続けるんだ。

 

そう。闘い続けよう。

きみの、あるいはぼくの

世界の勝者であり続けるために。

 

フレディ・マーキュリーは、

実に45歳の若さでこの世を去った。

 

でも、彼は世界の勝者になった。

 

それは富や名声を手に入れたから、

だけではなくて。

 

様々な出来事や

あるいは自分自身と

闘い抜いて、

素晴らしい家族との時間を

手にできたからだ、と

ぼくは思っている。

選択


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この世は全て、

自分の選択で成り立っている。

 

この間、友人が

こう言っていた。

 

「全て自分で選べるんだよ、と伝えたい」

 

なるほど。確かにそうだ。

 

友人は、そのために、

自分自身が様々な

選択をしてきたし、いまもしている。

 

そう。

 

すべては自分で選べる。

言い換えると、

全て自分が選んでいる。

 

いま、目の前にあるものは、

過去自分が選択してきたものの

集大成だと言ってもいい。

 

この世の中に、

絶対的な正解も

絶対的な不正解もない。

 

そして、

自分で選択できないことは

限りなく少ない。

 

「何も選ばない」ことすら、

「何も選ばない」ことを

選択しているわけだ。

 

いま、自分が幸せでも

不幸せであっても、

それは自分が選択していること。

 

裏を返せば、ぼくらは

自分で選択できることで

悩んだり、苦しんだり、

じたばたしている、とも言える。

 

それも味わいなんだけれど。

 

もちろん、自分の選択だけで

どうにもならないこともある。

 

けれど、自分の心の持ちようは、

常に自分が選択できる。

 

自分が楽しい、嬉しい、幸せ、と

感じる物事の見方をするのか、

つまらない、嫌だ、不幸せだ、と

感じる物事の見方をするのか。

 

それだけでも、物事の見え方は変わる。

 

不思議なものだよね。

 

だからこそ。

 

いま、何を選ぶのか。

起こる出来事をどう見るのか。

目の前の現実をどう捉えるか。

 

それこそが、自分にとって大切なんだろう。

 

そう。この世の全ては

自分が選択できるし、

選択している。

 

それが腑に落ちたなら、

この世の中は

自由自在なのかもしれない。

 

そんなことを考えた。

 

決める前に、認める

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「決めたら叶う」

みたいな話を聞くことがある。

 

自分の理想や目標を、

「そうなる!」と決めたら叶うと。

 

うん。よくわかる。

実際、そうだと思う。

 

あなたが例えば、

月に100万円稼ぎたいひとだとして。

 

「月に100万円稼ぐ!」と

本気で決めたら、そうなる。

 

でも、その前に

ひとによっては、踏むべき

ステップがあるかもねと

先日友人から教えてもらった。

 

それは、

決める前に、認めること。

 

あー。そう思ってるんだ。

へえ。そう感じてるんだね。

 

自分自身が、

自分自身の感情や想いを

認めてあげる、ということ。

 

さっきの例で言うならば。

「あ、ぼくは月に100万円稼ぎたいんだ」

と認めることから始める。

 

ひとそれぞれだけれど、

このステップが、

多くのひとにはどうも必要っぽい。

 

片想いの相手とお付き合いしたい、

金銭的に余裕のある暮らしをしたい、

家族ともっと多くの時間を過ごしたい、

もっと影響力のあるひとになりたい、

アイドルになりたい、

リサイタルを開催したい。

 

何でもいい。

 

あなたが本当にそう願っているのなら、

「ああ、そう思ってるんだ」と

認めてあげることがスタートになる。

 

ぼくらはついつい、

いろんな形でブレーキを踏む。

 

「100万円稼ぐ」で言えば、

100万円稼いでない現状を見たり、

100万円稼げなそうな理由を探して、

ぼくらはブレーキを踏む。

 

いや、これはもう、

脳の構造上仕方がない、っぽい。

ぼくらの脳が現状維持を好む以上、

ほっとけばそうなる。

 

ただ、これも思考のくせだ。

 

ブレーキを外し続ければ、

自ずとブレーキを掛けずに、

アクセルを踏めるようになる。

 

ほかのことだって、同じだ。

 

 

でもさ。

 

そうしたい!と感じてるのは、誰?

そう。他ならぬぼくであり、あなたである。

 

とするならば、その感情や想いは、

まず受け止めてあげる必要がある。

 

できるかできないか?は

どっちでもいい。

 

うん。そう思ってるんだね、を

認めないと、先には進まない。

 

そう思ってる自分がいて、

じゃあ、どうするか。

 

まず、自分の想いを

受け止めて、認める。

 

認められたら、たぶん、

決められる。

 

そうなって初めて、

その想いが叶う。

 

というか、

その想いを実現するための

アクションが動き始める。

 

どうしたら実現できる?

どうしたらこの想いは叶う?

 

脳が勝手に、

実現するための

情報をサーチする。

 

四六時中そのことを考えていれば、

いいアイデアや知恵が出る。

 

上手くいくかどうか

わからないけど、やってみよう!

という氣持ちになる。

 

そうなってこそ、

想いは叶うんだろう。

 

まずは、認めよう。

 

自分の理想や、願望や、

なんやかんやを

認めることから始めよう。

現状維持


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人間、あるいは人間の脳は

現状維持を好む本能がある。


自分の理想を描いて、

新しい場所に踏み出そうとしても、

その本能がジャマをすることがある。

 

なぜならば。

 

新しい場所、世界、環境は、

未知の世界だ。

 

未知の世界では、

自分が生きて行けるかどうか

未知数だ。

 

でも、現状は生きている。

 

つまり、現状に留まれば、

少なくとも、しばらくは

命が続く。

 

だから、できるだけ人間は

現状に留まろうとする。

 

そんな話を聞いたことがある。

 

現状維持の誘惑は、

様々な形で僕らの前に現れる。

 

これが準備できたら、

新しいことを始めよう

 

こういう自分じゃないと、

あれはできない

 

いま、こうじゃないから、

ああいうことはできない

 

新しいことをやりたいのかどうか、

わからなくなった

 

新しいことを始めよう、

何かを変えようとしたとき。

 

何となく乗らない、あるいは

ネガティヴな感情が生まれたりする。

 

もしくは、

これができたら始めよう・・・

みたいな前提条件を付ける。

 

そのときに疑うべきは

「現状維持の誘惑」だ。

 

新しいことを始める、

自分を変えるのに、

必要条件も何もないし、

タイミングも関係ない。

 

全ては意識を変えることから

スタートするしかない。

 

いつまでも

ブレーキばっかり

踏んでるんじゃない。

 

・・・

 

てな話を友人にした。

 

言葉はブーメランである。

 

ウルトラセブンアイスラッガー

と言っても良い(どうでもいい)。

 

その言葉は、そっくりそのまま、

ぼくに返ってくる。

 

そう。この言葉は、

ぼくがぼく自身にかけた

言葉とも言える。

 

何かを変えよう、始めよう、

チャレンジしようと思うなら、

いましかない。

 

やるならいましかねえ、

なのである。

(『北の国から』より)

 

ぼくは、

変化しないこと、

チャレンジしないこと、

新しいフェーズに進まないことを

条件が整っていないせいにしたり、

環境のせいにしてみたり、

性格のせいにしてみたりしていた。

 

お恥ずかしい限り

ではあるけれど。

 

でも、ぼくは取り組んでいく。

なぜならば、それが望みだから。

 

過去を振り返って、

グダグダ言いたくない。

 

踏み出さなければ

一生やってこない未来を

「いつかはこうなるから」と

眺めていたいわけじゃない。

 

次のフェーズへ。

次のステップへ。

新しいチャレンジへ。

 

やるならいましかねえ、である。

(元ネタは長渕剛『西新宿の親父の唄』)

言えねえな


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言いたいとか言いたくないとか

そういうことじゃなくて、

言えねえな、話せねえなと

思うことがあって。

 

言いたいことや、話したいこと。

 

それは、ぼくの中に

たぶんあるんだけれど、

それがうまく言葉にならない。

 

あるいは、言いにくいと感じている。

 

だから、

ひとが何か聞いてくれても、

上っ面の答えを返してる

自分がいたりして。

 

せっかく聞いてくれているのに、

どうして本音を言えないんだろう?

とは思うのだけれど。

 

せっかく聞いてくれた相手にも

何となく申し訳ないし、

ぼくもちゃんと本音で話がしたい。

 

そう思ってるんだけど、

言えねえな、が出てくる。

 

もちろんそれは、

ぼく自身が解消すべき問題で。

 

そしてもちろん、

相手は相手で

「そこまで真剣に聞いてねえわ」

と思ってるかもしれないことも

加味しつつも。

 

あるひとに

「自分のことしか考えてないよね」

と言われたことがある。

 

自分のことだけ考えて、

自分が傷つかない方法を選んで、

失敗しないやり方を探して、

その場を何とかやり過ごす。

 

あるいは。

 

感情を表に出すということをせず、

ひととなあなあで付き合って、

深いところには入らず、入らせず、

何となくの関係を築いていく。

 

いや、そこまで彼が考えていたかは

全くわからないけれど、

そんなことを指摘されたように感じた。

 

確かに、自分のことしか考えていない。

 

「自分の話をするのは、相手に悪い」

「自分のことで時間を使ってもらうのは恐縮だ」

「聞いてもらうほどのことでもない」

 

みたいな無意識のブレーキが、

言えねえな、話せねえなの背景には

あるのかもしれない。

 

でも、ぼく自身が本当にそれを望んでたのか。

 

逆に、相手から

そういうコミュニケーションを取られたら、

ぼくはどう感じるだろうか。

 

そんなことを、かつてのぼくは微塵も

考えたことがなかったのである。

 

むしろ、相手のことを考えている、

とすら思っていた。

 

だから、彼はぼくに対して

「自分のことしか考えてない」

と言ったんだろう。

 

ややこしいけれど。

 

何が言いたいかっていうと。

 

ぼくには本当は言いたいこと、

話したいことがあって、

話を聞いてくれようとしたひとたちに

ぼくがそれを言えなかったことを

ぼくは密かに後悔している、ってこと。

 

それを言いたい。

 

もう少し言うと、謝りたい。

 

いつもありがとうございます。