人生わくわくワークショップ化計画


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皆さんは「わくわくする」と聞いて、どんな印象、どんな感じをを持つだろう。


楽しそう、期待に満ちている。うん。そんなところだろうと思う。


実は当「そのたもろもろ」、わくわくについてもいくつか記事を書いているし、そちらも併せて読んでいただけると主にぼくが喜ぶのだけれど、今回も「わくわく」について書いていく。


最近、「わくわくに従って生きたらうまく行く」みたいなことをよく言う人が多い(いま、少し調べてみたらバシャールあたりが発信源らしい)。うん。確かにそうだし、わくわくしないことをし続けていたら、宇宙の法則的に、わくわくしないものが寄ってくることになる。


昨日(一昨日か?)にも書いたけれど、この世界はぼくらの意識が作っている。とすれば、わくわくして世界を見ればわくわくした世界になるし、そうでなければ、そうでない世界が実現する。


さて。ここでぼくが曲者だなと思っているのが「わくわく」というキーワードである。


「わくわくすることだけしたらいいんだよ!」と言われて「そうか!じゃあやるー!!」とその世界に飛び込めるのは、本当の天才か、本当のバカかのどちらかだ(しかもその差はたぶん紙一重)。


たいていの人は「いやー、そうは言っても」とかとか、色々とブレーキを踏む。決して悪いことじゃない。むしろ当然だと思う。


○「わくわく」を国語辞典で調べてみる

わくわく( 副 ) スル

期待や喜びで心がはずんで落ち着かないさま。 「 -(と)しながら、登場を待つ」

出展:コトバンク 大辞林 第三版の解説


そう。ぼくらが「わくわくする」と言うときは、基本的にはこういう状態を指す。では、ほかの辞書も見てみよう。

 

わく‐わく[副](スル)

期待や喜びなどで、心が落ち着かず胸が騒ぐさま。どきどき。「胸をわくわく(と)させて包みを解く」

[補説]古くは、心配で胸が騒ぐさまにも用いた。

出展:コトバンク デジタル大辞泉の解説


どうだろう。共通して言えるのは、「心が落ち着かない」ということだ。期待や喜びで心が弾み、落ち着かない状態になる。それが「わくわく」。感情や想いが「湧く」ところから「わくわく」になったという説もあるくらいだから、そういう想いが自然と湧き出てくる状態にある。


もう一つ、デジタル大辞泉の方で注目したいのは補説である。


「古くは、心配で胸が騒ぐさまにも用いた」


ここ。


ぼくは、実はここが結構大切なんじゃないか、と思っている。


○「未知なる領域」にこそ、わくわくする

「わくわくする」ことには、多くの場合「未知なる何か」が含まれている。


ぼくが天下一品に行って、明太ごはん定食を注文するとき、安心感や楽しみはあるけれど「わくわくするー!!」という感情は湧かない。なぜならば、ぼくは天下一品の明太ごはん定食のおいしさを知っているし、絶対の信頼を置いているからだ。


言い換えると、天下一品のおいしさは、ぼくにとって既知の情報なのだ。


逆に、一人で博多に行って、地元民がわんさかいる小汚いラーメン屋に足を踏み入れラーメンを注文するとき、ぼくはわくわくするだろう。そこには未知の何かが待っているからだ。

 

果たして、どんなラーメンが食べられるのか。これは完全に未知の世界だ。でも、いや、だからこそわくわくする。


ドラゴンボール孫悟空は、めっちゃ強い敵が現れたときにこう言う。「オラ、わくわくすっぞ!!」と。このとき、彼の中に一抹の不安もないと言えば、嘘になるんじゃないかと思う。人間だし(あ、人間じゃないけど。サイヤ人だけど)。


でも、それ以上に自分の中の期待や喜びが湧きだしてくる。それは、ぼくや悟空が未知の領域に足を踏み入れているからだ(例とはいえ、ぼくと悟空の「未知の領域」の差がデカすぎてな)。


言い換えると、既に分かっている世界に「わくわく」はあり得ないとぼくは思う。自分が知らない、見たことがない世界を見られると感じたとき、ぼくらは「わくわく」を感じるのではないか。


だから、不安があって当然、心配があって当たり前なんである。すべてオールクリアで、知ってる範囲で遊んでるのは安心だけど、つまらなくなるかもしれない。


○わくわくは「怖い」と表裏一体

わくわくの世界で生きたい!と思うけれど、怖くて二の足を踏む・・・という方。めっちゃわかる。ぼくもそうだ。それならば、未知の領域に飛び込むからこそ、コケないための準備をすればいい。


ぼくの師匠筋の一人は、めっちゃビビりで小心者で、実は長年それがコンプレックスだったらしい。でも、それを彼の師匠筋に話したところ「そりゃ素晴らしい!!」と言われたんだという。


曰く、世界レベルで活躍する人はめちゃビビりかめちゃアホかのどちらかしかいない。めちゃビビりの人は、それだけ事前に綿密に準備をして事に当たれるからこそ、世界を獲れるのだと。


もちろん、「怖いから一歩踏み出さない」もあり。「怖いけど、とりあえず一歩踏み出してみる」もあり。さらに言えば、「怖いから、うまく行くための準備を綿密にする」というのもありだ。


ここからはもう、いつもぼくが書いている「あなた次第の世界」になってくる。未知の世界、自分がいままで見てこなかった世界を見て生きていきたいのか。良く知っている世界で、安心して生きていたいのか。どっちが良いも悪いもない。


ぼくは、飛び込む。だから、準備も練習もする。そのことにいま、ぼくはわくわくしている。

 

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あなたがあなたの世界を創っている


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「あなたが目の前のものをどう見るかで、そのものがどうなるか、どうあるかが決まる」と言ったら、どう思うだろう。


「だよね!!」と思った方は、今日の「そのもろ」は読まなくても良いかもしれない(笑)。もう、ぼくの言いたいことは伝わっている。

 

「んなこたあない」と思った方は、ぜひ、この先もお付き合いいただきたい。


○コンビニのおむすびのおいしさを左右するもの

例えば、コンビニのおむすびは、どこまで行ってもコンビニのおむすびだ。でも、このコンビニのおむすびも、見る側、食べる側の氣分や意識によって、どうとでも変わる。


以下2つのシーンを想像してほしい。


一つ目。真夜中、仕事で疲れ切って明日も朝早く出なきゃいけないから寝たいんだけど、お腹は空いたし、とりあえず風呂に入る前におむすびでも食べとこう、というシチュエーションでコンビニのおむすびを食べている。


二つ目。大好きな恋人と、さわやかに晴れ渡った日に、新宿御苑(あ、ここは円山公園だろうが代々木公園だろうが、どこだっていい。任意の場所を想定してほしい)に行く道すがらでコンビニに寄っておむすびを2個買って、広々とした芝生の上で二人で肩を寄せ合っておむすびを分け合いながら食べている。


この2つのシチュエーションにおける「おむすびのおいしさ」が、果たして同じといえるだろうか、いや、言えまい(反語表現)。


ここでぼくが言いたいのは「ファミマよりローソンのおむすびがウマい」とか「ツナマヨと明太子だったら、そりゃおいしさは違うだろ」とか、「そもそもコンビニのおむすびはおいしくない」とか、そういうことではない。


あくまでも、ぼく個人の感覚(妄想)だけれど、1つめのシチュエーションで食べるおむすびのおいしさを仮に1と置くならば、二つ目のシチュエーションで食べるおむすびのおいしさは少なく見積もっても2000は超えるだろう。てか二つ目のヤツら、うらやましいな(謎の憤り)。


でも、コンビニのおむすびそのものは何も変わってはいない。糖度、塩分、粘度、そういった諸々を抽出してみても、おそらく一つ目のシーンと二つ目のシーンにおけるおむすびの客観的なデータが大きく違う可能性は低い。あっても、誤差の範囲だろう。


こういうことが、ぼくらの世界では当たり前だのクラッカーで起きているのである。


○モノの見方を変える稽古

例えば、「いつも仕事の細かいところを指摘してくる、口うるさい嫌な上司」がいるとする。この人を、あなたがそう見続けていれば、その人はそういう人であり続ける。

 

逆に「仕事を細部まで確認してくれ、的確なアドバイスをくれる素晴らしい上司」と見れば、そうなる。


別に、ぼくは成功するためには嫌なことを無理してやるべきだとか、我慢しろと言うつもりはない。嫌なことをいくらやったって、そのことが好きでやってる人には、どう逆立ちしたって勝てっこない。ただ、「嫌だなフィルター」を一度外してみることはおススメしたい。


ぼくらのアタマに浮かぶ「嫌だな」という感情は、実は過去データ、あるいは固定観念にすぎない可能性がある。上司が口うるさく何か言ってくる=嫌なこと、みたいな。でも、裏返して考えれば、それだけ時間を使って細かくチェックしてくれ、指摘してくれるということは、大変ありがたいこと、と思える。


的外れな指摘や、こちらの意図がわからないで指示を出してくる場合は、「こちらの意図が伝わらないケースがある」というフィードバックだと思えば、大変参考になる。


いや、ぼくだって100%こういうことがすべてポジティブに受け止められているとは言えない。めんどくさい仕事を振ってくる人にいらっとしたり、女性がぼくを見て微妙な表情を浮かべたのを見て「あああ嫌われたに違いない」と思ったりすることもある。むしろしょっちゅうだ。


でも、何事も最初から完璧にできる人なんていない。練習・稽古を重ねて、上手くなっていくわけだ。どんどん自分が見たい世界、自分が生きていたい環境を自分の意識で作っていくことが出来る。


この世のすべては、ぼくら一人一人の意識が作っている。だからこそ、意識が変われば世界が変わる。

 

むろん、信じるも信じないもあなた次第だ。でも、ぼくはこっちの方向で試してみている。良ければご一緒に。

 

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謙虚と自信の相関関係について


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「自信がある」という言葉から、皆さんはどんな印象を持つだろうか。


もちろん、ポジティブなイメージを持つ人もいるだろうけれど、それと同じくらい、ひょっとしたらネガティブな印象を持つ人も多いかもしれない。


ぼくがいま力を入れている活動の一つに「楽読」という速読がある。インストラクターとして受講生さんとレッスンを進めていく中で、脳トレの一環として、ちょっとしたゲームをしたり、質問を投げかける時間がある。


あるとき、楽読の体験に来てくれた方にぼくはこんな質問をした。


「○○さんが自分で思う自分の良いところ、イケてるなと思うところを10個、挙げてみてください」


すると、その○○さんは即座にこう答えた。


「えーっ。そんなのないですよ」。


アイルトン・セナ(リスペクト)並みのスピードでそんな答えが返ってきたので、ぼくは少しのけぞった。


○自分の良いところにフォーカスする

自分の良いところ、イケてるところが一個もない(または思いつかない)なんて、読者の皆さんからすると「んなアホな」と思うかもしれない。でも、体験レッスンをしてこの質問をすると、考え込んだり悩んだりする人は多い。


ためしに、自分の良いところ、イケてるところを10個挙げてみてほしい。10個挙げられた人は、次は20個、30個とチャレンジしてみよう。さて、何個くらい挙げられるだろう?


ちなみに、先に例に出した○○さんはどうなったか。


まず、多くの人は自分のどこが良いところか、イケてるかなんて、普段考えない。だから、そこに意識を向けるだけでも見つかったりする。そこに意識を向けてもらうのが、インストラクターの役割だ。


その上で、楽読では右脳と左脳のバランスを整え、固定観念で(無意識に!)踏んでいるブレーキを少し緩める。だから、徐々に思考の枠が外れてくる。そうすると「あ、あれも、これも」という感じで、自分の良いところ、イケてるところがポロポロと出てくる。


○謙虚と自信は両立するか

「謙虚であること」は美徳だ。でも、自分のことを過小評価するのは「謙虚」とは違うとぼくは思っている。


ぼくらは、自分の良いところ、イケてるところ、言い換えれば才能や特長を「的確に」認識する必要があると思う。ぼくらは、ついつい自分が持っている良いところを過小評価してしまう。あるいは、虚勢を張って、自分を大きく見せようとしてしまう。


自分の良いところ、イケてるところを認められない人ほど、自分の弱いところ、イケてないところを隠したがる傾向にある。正直に白状すると、これは過去のぼくのことである。


要するに、自分が持っているものを的確に把握・分析できていないから、自分の強みを100%信じ切れない。だから、自分の弱いところも認められない。そうすると、全部自分でやろうとしてしまう。なぜなら、人に頼むと、自分の弱さ、甘さが露呈してしまうから。


自分の良いところに自信があれば「ここは任せて!代わりにここは頼んだ!」ということがスッと言える。この状態こそ、助け合いだし、調和だし、ぼくが目指している世界だ。なのに、それを出来ていなかった自分に氣付いた(笑)。

 

○本当の謙虚、本当の自信

本当に謙虚な人は、自分に何ができ、何ができないかを理解している。その上で、自分の力をひけらかすことはない。だって、できると自分でわかっているから。それこそが本当に自分を信じている、自信があるということだとぼくは思う。


本当の意味で自信がない人は、人からの評価を欲しがる。だから、自分の力を見せたがる。だから、自信があるような口ぶりだけれど、どこかで揺らぎがあったりする。


本当に謙虚な人は、実は自信がある人。相反するものではない。最近、ぼくはそんなことを感じている。ぼくは、そういう人でありたいなあと思う。もし、あなたもそうならば、自分の良いところ、イケてるところを自分で認めるところから始めたら良いと思う。


一人でやるのももちろん良いけれど、経験上、仲間と一緒にやることをおススメする。人が客観的に見た自分の特長を聞くことで、改めて自分の良いところに氣付けるから。


共に磨きましょう。

 

 

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「比べる」ことの意味について


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人と比べちゃいけない、順位をつけてはいけない。差をつけるのは良くない。


うん。ぼくもそう思う部分もあるけれど、一方で、比べたり、順位をつけたり、差をつけることも必要な面もある。


例えば。ぼくは先日、楽読インストラクターNo.1を決める大会「R-1グランプリ」に参加してきた(リアルな話、会場にこの催し物名が出ているのを見て、一般の人が「R-1(お笑いピン芸人No.1を決める方)やってんの?」と聞いてきたという逸話がある)。


楽読の創始者である平井ナナエ氏(ナナちゃん)は、「インストラクターが増えれば増えるほど、レッスンの質は上がる」と断言したという。通常は、のれん分けすればするほど質は落ちるという定説にもかかわらずだ。


なぜか。それは「人」がやることだから。明るく楽しくハッピー!なAさんのレッスンが好きな人もいれば、静かで深い、ゆったり落ち着けるBさんのレッスンが好きな人もいる。受け手が同じでも今日はAさん、来週はBさんのレッスンが良いな、と感じることもある。


もちろん、レッスンのメソッド・流れは統一化されていて、どのインストラクターもそこから逸脱することはない。でも、それぞれのインストラクターが自分らしく生きていると、レッスンの味わいが自然と変わる。


だから、ナナちゃんは「インストラクターが増えれば増えるほど、質が上がる」といった。Aさんのレッスンが響かない人にも、Bさんのレッスンは響く可能性があるからだ。


この点に関しては、比べてもしょうがない。というか、比べるべきものではない。落ち着いているのが特徴の人に「もっと楽しく!ウキウキで!」というのは違う。ちなみに、「落ち着いてる」のと「暗い」のとは全く別物。そのあたりについては、また後日書く氣になったら書く。


○比べないと、わからないことがある

ただ、比べるべきもの、比べた方が良い場面というのもある。


例えば、ぼくはご飯を食べるのがめっちゃ早い。けれど、これはほかの人と比べてみないとわからないことだ。自分的には松屋吉野家でもすき家でも良いけど)に入って、店を出るまでに30分かかると「長居したな」と思う。牛丼なら、食べている時間は正味10分程度くらいだと思う。


だから、ぼくが人と一緒にご飯を食べに行くと、ぼくが注文したものが後から出てきたのに、先に食べ終わってしまい、相手が食べ終わるのを見守るみたいなこともよく起こる。良い悪いではなく。


でも、そのスピードは人と比べないと認識できない。だって、それが自分にとってスタンダードだから。比べてみて初めて「え?これってみんなそうじゃないの?」となる。


実は、人と比べることでその人の才能が際立つ・氣付くことがある。カール・ルイスだって、他の人と比べたから足が速いことがわかったわけで、一人で走っていたら氣付かなかっただろう(なぜ、ボルトとか最近の人を例に出さなかったのか、については自分でも不明)。


順位や段位をつけるのもそう。「この人はこの分野で一番」とか「この道ではこの人は黒帯」みたいなことが明確化されていると、その分野、道を進む人の目安になる。「なるほど、ナンバーワンはこうしてるのか」とか「黒帯はこんな感じか」と自分との違い、差を確認できる。だからこそ、己の伸びしろに氣付くことが出来る。


アカンのは、その順位や段位(地位といっても良いか)と、人格を結びつけちゃうこと。別にその人はナンバーワンだからすごいわけでもなく、エライわけでもない。発言権があるわけでもないし、2位以下の人がへりくだる必要もない。


○人間の評価軸は無限にある

評価軸が少なすぎるから、そういうことが起こるんじゃないかなー?とぼくは推測している。


かけっこの速い子が、必ずしも絵を上手に描けるとは限らない。絵が上手い子は、必ずしも文章が上手ではないかもしれない。文章が上手な子も、ひょっとしたらコピーライティング的なのが上手い子と、詩を書くのが上手な子と、小説を書くのが上手い子に分かれるかもしれない。逆に、これらすべてを万遍なく、80点くらいで出来る才能を渡されている子もいるかもしれない。


それもこれも、比べたからわかることだ。そして、比べて違いが浮き彫りになるから、お互いをリスペクトできる。一見、何も取り柄がなさそうに見えるけれど「場にいるとめっちゃ和む」。これも大切な才能だ。


人には全員、必ず何かしらの才能がある。その才能がわかりやすい人もいれば、わかりにくい人もいる。1つの能力が恐ろしく高くて、他がポンコツな人もいれば、万遍なく振り分けられている人もいる。


RPG好きな人ならわかると思うけれど、それぞれのパラメーターに数値が振り分けられているイメージだ。そのパラメーターが、恐らくぼくらが認知しきれないくらい多いだけで。


「私、何の取り柄もなくて」なーーーんていう前に、何か人より得意なこと、苦も無く出来るのに人に喜んでもらえちゃうことを探せばいい。絶対何か見つかる。そこに目を向ければ、その才能は開花する。


何かが人より得意なら、それをさらに伸ばせばいい。そうでもないなら、伸ばすよう取り組めばいい。不得意なことを人に任せるのも手だ。それもこれも、比べてみないとわからない。


コツは「自分には絶対才能がある」と信じて比べること。でないと、「自分には取り柄がない、自分はダメな人間」の罠にあっさり絡め捕られる。


何度でも言う。あなたが人と比べて得意なことは、絶対にある。あなたがその才能を発揮することが、周りの人のためになり、社会のためになり、世界のためになる。自己嫌悪なんてしてるヒマはないのである。


さあ。あなたの才能に氣付こう。

 

※ぼくはこのことについて、須田達史氏が主宰する私塾『覚醒塾』に参加して氣付かせていただいた。しれっと自分で考えた風に書こうかとも思ったのだけれど、ちょっとフェアじゃない感じがしたのでこの一文を入れておく。


『覚醒塾』について、詳しくはこちらから。

http://cyushin-do.com/kakuseijuku/

 

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才能について


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たまには、ぼくの過去の話を書いてみようと思う。もちろん、今ココ以外はすべて過去か未来でしかないわけで、そういう意味で過去の話は書いてきたんだけれど、そういう意味ではなく、子どもの頃の話。


ぼくの父親は本が好きで、週末に街(ぼくが生まれ育った札幌では、市街地のことを『街』と呼んでいた。うちだけかもしれないけれど)に行っては、地下街の紀伊国屋書店で本を買って帰るのが定番だった。だから、父と外出すると本屋で好きな本を買ってもらえた。そんなことから、ぼくは子どものころから本を読む人だった。


裏を返すと、当時のぼくは内氣で人見知りで引っ込み思案という三冠王だったから、どちらかと言うと、仲間とワーッと遊ぶよりも、本を読む方が好きだったのかもしれない(決して、仲間がほしくなかったわけではないのだけれど)。


その頃よく読んでいたのは小説の類だった。物語なら、ほぼ何でも読んだ。夏目漱石安部公房みたいな文豪系から、赤川次郎アガサ・クリスティとかの国内外のミステリー、一時期は三国志にハマったこともあるし、歴史小説も読んだ。ライトノベルのはしりみたいな、コバルト文庫を(当時ちょっと好きだった女の子に勧められて)読んでいた時期もある。氷室冴子とか好きだったな。っていうか、亡くなってたのか。合掌。


それはさておき。それだけ読むのが好きだったこともあって、自然と自分でも書いてみよう、という氣になった。というより、「自分は小説家になるもんだ」と勝手に思い込んでいた。


で、原稿用紙を買ってきて、書いてはみるものの、どーにもこーにも筆が進まない。途中までは書けるんだけれど、「あれ?これって面白い?」という疑問が頭をよぎり、そうなるともう、進まないこと山の如しになってしまい、飽きてかかなくなった。で、何かの拍子に思い出したように別の作品を書き始めるんだけれど、これも頓挫するということを繰り返してきた。


○文章を書くのと、小説を書くのは別

以来、小説を書くことにチャレンジしたり、同人誌を作って小説を掲載してみたり、色々とやってみたのだけれど、どうにもこうにも自分的に納得のいく作品はできなかった。


でも、書くのは好きだから、社内報(会社の中で読まれる、社員とかが登場する雑誌みたいなやつ)を作る会社に入社して、ライターの仕事をした。ライターの仕事は、楽しかった。相手がこういうことを言いたいんじゃないか、こんなことを想ってるだろうということを聞いて文章にするのは、何の苦にもならなかった。


ただ、ぼくはずっと小説を書きたいと思っていた。なのに、トライするけれど、どうしても自分で「面白い!」と思える作品が書けない自分に納得がいかなかった。


でも、最近氣付いたことは、ぼくの才能はそこではないらしい、ということだった。


小説を書く、というのは、「0→1」を生み出すということだ。自分の頭の中に虚構世界を作り出して、その中で読者を楽しませたり、考えさせたり、自分の言いたいことを伝えたりする。どうも、ぼくにはその才能はあまりないらしい。


でも、人から聞いた話を整理してわかりやすくしたり、(当ブログのように)学んだこと、感じたことをまとめたり、文章構造をシンプルにして伝わりやすくするのは好きだし、得意だ。


○あなたにも必ず才能は渡されている

人には必ず、才能が渡されている。その才能をパンパカパーンと生かして生きている人もいれば、全く別のところで生きている人もいる。その才能が探さなくても見つかってしまう人もいるし、若いうちに自然と発揮されてしまう人もいる。でも、多くの場合は探して、磨かなければ使い物にならない。


ぼくの場合、どうやら「文章を書く」とか「物事を分析・整理する」才能があるのだけれど、その「書く」才能を、子どものころから慣れ親しんでいた「小説」と組み合わせてしまったがために、小説を書いては挫折するということを繰り返したんだろうと思う(いや、ひょっとしたら死ぬ氣でやったら小説家デビューくらいはできたかもしれないけれど、それが幸せかどうかはわからない)。


何度でも言うけれど、自分のことは自分ではわからない。だから、自分の才能は何か、その才能をどこでどう生かせばよいかは、自分だけではわからない。わかるとすれば、自分が何をしているときに氣分が良くて、楽しいか。その方向に、才能はあるんだろうと思う。


自分がやりたくて、楽しければ、自然と続く。一時的にやりたいと思っても、一過性のものなら続かない。


ぼくは、文章を書くことは本当にいくらでもできる。でも、小説を書くとなると、途端に「これでいいのかな?」が出てくる。いずれ解消するかもしれないけれど、いまのところはね。


だから、好きで好きで仕方なくて、ずーっとこれをしていたい!と思うものを、飽きるまでやり続ければよろしい。飽きないってことは、その方向性に何らかの才能が眠っているはずだ。その才能を輝かせたら、必ず誰かが喜ぶ。誰かのお役に立つ。


ぼくは、そういう人々が自分が好きで、いくらやっても苦にならない得意なことを持ち寄って成立する社会が理想だ。もちろん、これはあくまでぼくの理想で、押し付けるつもりはない。ただ、ぼくはそっちに進もうと思う。苦手なことは誰かにお願いする。代わりに、ぼくが得意なことは引き受ける。


まさに、天才集団だ。そんな世界が、ぼくの目の前にはすでに広がっている。

 

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「はじまりはいつも小さい」(ぼくが出会った名言集)


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「はじまりはいつも小さい」(byキケロ&某会社の社長)

 

哲学者のキケロさんは「はじまりはいつも小さい」と言ったそうな。その話を、ある会社の社長が話していた。なるほど。

 

はじまりはいつも小さい。これ、実は金言かもしれないと思っている。

 

例えば。ビジネスで成功する!と思っても、最初はビジネスを始めるところから(たいていは)スタートする。オギャーと生まれて、いきなりスタスタ歩き出す赤ん坊はいないし、世界を愛で満たそうと思ったら、自分の周りから満たしていくしかない。もっと言うと、自分自身を愛で満たしていくしかない。

 

○理想と現実化のタイムラグは、宇宙さんの愛である

「コレができてない、アレが足りない」と思う氣持ちはわかるし、素晴らしい。それだけ成長しようという意欲があるからだ。でも、一足飛びに自分の理想に到達することは、どうやら宇宙の法則的に無理っぽい。

 

ぼくの師匠筋の一人が、「意識と現実化の間にタイムラグがあるのは、安全弁みたいなもんだ」という。

 

例えば、意識がすぐに現実化するとしたら、ついカッとして「アイツ死んでまえ」と思ったら、死んでしまう。「うわー。こんなことしちゃった。死にたいわー」と思ったら、これまた死んでしまう。危ない。

 

意識という現実化の間にタイムラグがあるのは、実は宇宙さんの愛なんである。

 

○だからこそ、小さいことから始めよう。

世界平和のために、目の前のゴミを拾う。大切な人の幸せのために、目の前の人を100%大切にする。誰かに貢献できる自分になるために、自分を磨く。

 

小さなことを軽く見るということは、ひょっとすると、スタートを軽く見ているということなのかもしれない。

 

自分の中にある小さな良いところを見続け、育て続けていくことで、より素晴らしい自分になっていく。

 

大きな理想を実現するために、小さな一歩から始める。わかっちゃいるけどさ、と、ぼくもいつも想う。でも、意識し続けることで、小さなことを大切にできる自分に変わっていくはずだ。

 

このところ、ブームが来ているKANさんの曲のフレーズから引用して終わる。

 

「良ければ一緒に その方が楽しい」(『良ければ一緒に』より)

 

そう。なんでか。その方が楽しいから。そんな小さな一歩が大切だな~と想ってる。

 

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知識や情報が不安を払拭することはない、ということについて

 

「たくさんのものを持っている」、特に「たくさんのことを知っている」ことが、必ずしも幸せだったり、成功だったりにつながるわけではないよねえ、と最近改めて思っている。

 

何か新しいことを始めるとき、多くの人は情報を集めるところからスタートする。

 

確かに、魚の知識が全くゼロの状態で寿司屋を始めてもうまく行かないだろう。最低限の知識は持っておいてくれよ、とは思う。

 

ただ、あまりにたくさんの「知っている」を持ちすぎていると、それがかえって邪魔になることもある。

 

昔、『冒冒グラフ』という番組(知らない人多いだろうな)で「知識は荷物になりません。あなたを守る懐刀」というキャッチフレーズがあったけれど、実は、知識も持ちすぎると「お荷物」になることがある。

 

○明日のことなど誰にもわからない

先のことは、今のところ誰にもわからない。ひょっとすると『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(何度見ても素晴らしいタイトルだ)のデロリアンだったり、『ドラえもん』のタイムマシンだったりが既にあるならば別だけど。

 

少なくともぼくには、未来がどうなるかは全く知らない。1時間後、1分後だって、何が起こるかわからない世界で生きている。

 

にもかかわらず、ぼくらは未来を見ては不安になる。仕方ないっちゃ仕方ないんだけど。で、不安を払拭するために情報を集めたりする。成功するためにはどうしたら良いか。幸せになるためには、どうすれば良いのか。

 

もちろん、世の中の道理がどうなっていて、こうすればこうなる、という最低限のルールや仕組みは知っておくに越したことはない。また、ビジネスで成功したいと思ったら、先人の考えややり方を学んでみるのも手だ。

 

では、知識や情報を知れば知るほど、不安は払拭されるのだろうか。答えはたぶん「NO」だ。むしろ、知れば知るほど不安は増し、一歩を踏み出す勇氣が失せていく。

 

「たくさんのことを知りたい」という欲求の根源は「欠乏」にある。「情報がないと失敗するかもしれない、だからたくさん知りたい」と、「失敗するかも」が前提にある。実はこれ、底なし沼のようなもので、いくら情報を集めても、完全に不安がなくなることはない。

 

例えば、初めてスキーをしようというとき、どれだけ情報を集めてみても、「コケるかもしれない」という不安を完全に払拭することはできないし、仕入れた知識だけではゲレンデをスイスイ滑れるようには、まずならない。むしろ、ある程度情報を仕入れたら、コケる覚悟を決めて始めるしかない。

 

○知識が行動の邪魔をする

知識や情報があると、シミュレーションができる。だから、多くの場合「失敗したときのシミュレーション」をしてしまう。そうすると、二の足を踏む。知識や情報がないと、良くも悪くもシミュレーションが成り立たない。だから「とりあえずやってみよう!」になる。

 

このとき、必ずうまく行く保証はない。ただ、「ま、うまく行くだろう」という根拠のない自信はあるかもしれない。何しろ、先のことは誰にもわからないのだ。

 

未知のことを既知の情報で分析・解析しようとしても、限界があるのは火を見るより明らか。それならば、実際にトライしてみて、生データを集めた方がよほど建設的だ。

 

もちろん、知っていれば回避できる課題や問題は、事前に情報を仕入れておいて、対応すればいい。ただ、世の中には「やってみないとわからないゾーン」というのが確実にあると感じる。これは、もはや飛び込んでみないとわからない。

 

何かあなたが新しいことにチャレンジしたいけれど、どうしても不安を感じるというときは、情報を集めるよりも、思い切って飛び込んでみた方が、何かを得られるタイミングなのかもしれない。

 

もちろん、どっちも選べる。「何とかなるでしょ」で飛び込んでみるもよし、「やっぱり不安だから嫌だ」でブレーキをかけるもよし。どっちだって良い。

 

ぼくの敬愛するKANさん(かつて『愛は勝つ』で大ブレイクしたKANさんだ)は、名曲『TOKYO MAN』でこんな歌詞を書いている。

 

「明日のことなど誰にもわからない/その日その日を生きていくしかない」

「明日のことなど誰にもわからない/信じていればできないことはない」

 

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