重力に逆らって生きるのススメ


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○重力は上から下に作用する。

「上にあるものは、そのままにしておけばいずれ落ちる。これは自然の摂理である」。


唐の高僧、暢珊(大福が大好物で、子どもたちからは「大福和尚」と呼ばれていたらしい)の言葉である。もちろん嘘である。


ただ、空気より軽い気体以外は重力の影響を必ず受ける。これは地球上の法則であって、例外はない。高いところから壺を落とせば、それが100円ショップで買ってきたものだろうと、『開運!なんでも鑑定団』で「良い仕事してますねぇ」と言われた超貴重なものだろうと、下に落ちる。自然の摂理だ。


目に見えるものは、その法則が理解しやすいけれど、実際には目に見えないものにも、この法則は(当然ながら、と敢えて言おう)作用する。酸素や二酸化炭素は空気よりも重たい。だから、沈んでいく。確かプロパンガスもそうだったはずだ。目には見えないけれど、そうなっている。


と考えると、実は、ぼくらの氣持ちや氣分、テンション、やる氣、モチベーションだって、重力の影響をなぜ受けないと考えられるのか(反語表現)。むしろ、「ほっとくと落ちる」と思った方が、自然の摂理に従っている。


○この世にあるものは、重力の影響を受けるのが当たり前

てな話を、ぼくはどこかで誰かから聞いた(聞いた人、忘れてしまってごめん)。例えば、「今日から3か月ラーメン断ちするぞ!」と思い立ち、始め、しばらくはできる。


でも、例えば、夜遅い時間にお腹が空いて、ああ、この流れは天下○品に行って、明太ごはん定食でこってりスープまで飲みきるパターンやなと思った矢先、あああ俺はいまラーメン断ちをしているんだったと思い返し、葛藤に悩んじゃったりするわけである。


意欲を持ち続ける、やる氣をキープし続けるというのは、決して簡単なことではない。暢珊師が言うとおり、万物はほっとけば落ちるのである。


何かをやろう!続けよう!と思った意欲ややる氣には、嘘偽りはない。でも、実はそこの一点が頂点だったりすることはある。つまり、そこから続けていくうちに、意欲ややる氣は緩やかに下降していく。比喩的表現ではあるけれど「重力の影響を受ける」のだ。


○落ちるものを「上げ続ける」工夫

このこと自体を、ぼくらはまず認識する必要があると思う。「決めたことを続けられない!」と自分を責める前に「なるほど、重力の影響を受けてるな」と実感した方が、ぼくは氣が楽になる。これは、ぼくの意欲が減退したのでも、ぼくの精神力が弱いのでもなく、重力という自然の摂理がそうさせている。


そして、そんな自然の摂理に逆らっている自分、スゴいなとまず思うわけだ。ココ、ポイントなのでメモしとくように。


何かを続けよう!と思った背景には、おそらく、それをやることで得られることや、期待していること、あるいは、それを続けることが自分がさらに理想に近付くために必要なことだと感じているはずだ。


なので、「続けられない自分」ではなく「理想に近付いている自分」を見ることも大切だと思う。そうすると、自分の中のねじを巻きなおすというか、ふんどしを締めなおすことができる。


要するに、落ちるものを再度上げ続ける工夫が必要なのである。


氣持ちや意欲や、そういったものはほっとけば下がる。嫌なことに直面すれば逃げたくなるし、疲れ切って帰ってきたのに、自分が決めたとはいえ、トレーニングをやらなきゃいけないってのは正直しんどい。だからこそ、「続けられない自分が悪い」とか「続かないってことは向いてないってことだ」とあきらめるよりは、「なるほど、来たね重力」と思って、取り組む方がぼくの好みには合っている。


「楽しく続けられることを選ぶ」というのも、あるかもしれない。その辺は、また別の記事で書いていきたい。

 

○自分が居たいゾーンで生き続けること

氣持ちが落ち込むこともある。笑顔で居たい、明るい人でありたいと思うけれど、鬱々とした氣持ちがやってくることもある。うん。そりゃある。たぶん人間である以上、誰にでもある。が、それも実は重力の影響だ。


いつでも明るい人は、もちろん常に天然で明るい人もいる。しかし、多くの人はたぶん意識的・無意識的に氣持ちが落ちたときに上げ直すことをしているんじゃないかと思う。ぼくのように、基本ダウナーだけれど、明るい人でありたいと思う人は、常に意識して、自分の氣分を上げ続ける工夫がいるねと思っている。


自分の氣分が良い選択をすること。氣持ちが上がるイメージを持つこと。口角を上げて、笑顔を意識すること。ほっとけば落ちるわけだから、上げる工夫を続けるしかないわけだ。


別に、万人がそうなるべき!とはぼくは思わない。でも、ぼくは常にごきげんで、さわやかで、ど真剣に生きたいと思っている。そのためには、そのゾーンに居続ける、そのゾーンで生き続ける工夫が必要になる。


頑張る必要もないし、やらなきゃ!と義務感に迫られる必要もない。そうしたければ、そのように生きる方が楽しかったり、自分が良い感じなら、そうしたらいい。


そっちの方がお好みなら、ご一緒にいかが?と思っている。ぜひ。

 

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大切なものを本当に大切にするために


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大切なもの、大切な人を、本当に大切にする。

 

文字面だけ見たら、当たり前やんけ、と思う。そりゃそうだ。

 

でもぼくはここ最近、「どう大切にするか」という問いを色々な角度から突き付けられているような氣がしている。

 

○大切にするって、なに?

「大切にする」って、具体的なようでいて、実は抽象度高めの言葉だなとも感じる。こんなときは、コトバンク先生で言葉の定義を確認しておこう。

 

たい‐せつ【大切】
[形動][文][ナリ]
1 もっとも必要であり、重んじられるさま。重要であるさま。
2 丁寧に扱って、大事にするさま。
3 急を要するさま。
デジタル大辞泉

 

重んじるとか、丁寧に扱う、大事にするってのは、人それぞれにやり方が違う。子どもを育てるとき、ある種過保護に、面倒を見まくって育てることを「大切にする」という人もいれば、その子の自主性や感覚・感性をこそ尊重して「大切にする」という人もいる。

 

「大切にする」という言語は、それが指す言動や表現の幅が広いし、どうとでも受け取れるから、「大切」の認識のずれが生じる確率は高いかもしれない。

 

〇何をどう大切にするのか

一見、大切にしていないように見えて、それが結果的に大切にしていることになる、ということがある。

 

ぼくの師匠筋のN氏は、「全宇宙を大切にしたら、全部入って来るやん」と事も無げに言ってのけた。それを聞いて、ぼくはのけぞったのだけれど、まあ真理だなとも思う。

 

かつてのぼくはついつい、大切なものを目に見える形で「大切にしにかかる」癖があった。これも癖だ。相手に合わせて、相手を尊重する。

 

それももちろん、何かを大切にする形の一つではあるけれど、実は大切なものに執着していた表れだったのだと思う。

 

大切なものを失いたくない、手放したくないからこそ、そこにエネルギーを注ぐ。もちろん、それはそれで良いけれど、端から見ると違和感はあるのかもしれない。

 

そうではなくて、より大きなもの、より広範囲に大切なものを守りにかかる、大切にしにかかる。いまは、そんなことを意識している。

 

○より広い範囲を大切にするからこそ

さすがに、いまのぼくはまだ、全宇宙を大切にしかかる意識までは持てていない。せいぜい、目に見える範囲を大切にしたいなと思う。

 

それもこれも、仲間からの指摘を受けて氣が付いたこと。本当にありがたい。

 

そういう仲間や、家族や、恩人や、ご縁をいただいた方々や、ご先祖さまや、その先にいるみんなみんなを大切にしようと真剣に思えたときにこそ、目の前にいる大切な人・ものを真に大切にできるんだろうと、今は思う。

 

そう。だから、いまのぼくはこのブログを読んでくれているあなたを本当に大切に想っています。

 

いつもありがとう。

 

 

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「わからない」を言える人になる

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わからないことを「わからない」と言える人になるトレーニングを始める。

 

ぼくはつい、相手の話を「わかったふう」で聞いてしまうことがある。勤め人ライフでは、これが案外良くて「呑み込みの早い人」と評価されたりする。

 

一方で、相手と本当の本当にわかり合うだとか、相手の考えていること、感じていることに100%寄り添おうとしたときには、この「わかったふう」がじゃまになることがわかってきた。

 

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人のお役に立てる人になると決めた


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○人のお役に立てる人、とは。

ぼくは、人のお役に立てる人でありたい。

 

どんなシチュエーションでも構わない。人から頼りにされて、それに応えられる人でありたいと思う。そのためには、ぼく自身が体幹を鍛えて、しっかりと大地に根を張って、ちょっとやそっとでは倒れない強さとしなやかさを磨き続ける必要がある。

 

あ、別に体幹を鍛えるっていうのは、ゴールドジムに通って、めっちゃ筋トレをして、プロテインを飲んでマッチョになるという意味ではもちろんない。

 

ぼくが考える「頼りがいのある人」とは、自分の両足でしっかりと立っている、立てている人だ。自分のことは自分でキッチリできる。そして変な話、余ったエネルギーを人に振り分ける。あるいは、自分が自分自身を100%生きた結果、それが誰かの役に立っている。そのくらいの方が頼りがいがあると思う。

 

○自分が自立していないと、頼られたときに沈む

自分の足で立っていない人が、人の役に立とうとするとどうなるか。

 

例えば、ぼくが誰かに助けてもらおうとしたとき、相手が自分の足で立っていない人だったとしよう。ぼくを助けてくれようとしているのはわかるし、ありがたいのだけれど、頼った人まで一緒になってアップアップになる。それは、ぼくとしても本意ではない。

 

その人に悪氣があったわけじゃないし、その人はその人なりの愛で、ぼくに手を差し伸べてくれたはずだ。けれど、結果として二人とも沈んでしまっては意味がない。

 

でも、ちょっと前のぼくはそういう状態だったかもなあ、と思う。人のお役に立ちたいと思って、色々動いたり、言ったりやったりする。でも、ぼく自身がしっかりと自分の足で立てていなかったから、二人で沈んでしまう。結果として、ぼくも含めてほかの人に助けてもらうことになる。

 

だから、頼りがいの人でいる、人の役に立つ人でい続けるためには、まず自分自身が自分自身のフィールドで、しっかりと生きられる前提、土台をつくる必要がある。だから、まず自分に集中する。自分が良い状態にあるからこそ、周りの人にもいい影響を与えられるし、頼ってくれた人を引っ張り上げたり、ときには自分でチャレンジしてみろと叱咤激励もできる。

 

そんなことに最近氣が付いた。でも、これもやってみないとわからない領域であって、そのこと自体は決して無駄ではなかったし、悪いことでもないと思っている。

 

○不安定な状態で支え合う関係

「支え合う」という関係性もある。いつでもどこでも、どっしり安定して居続けられる人なんてそうはいないと思うし、誤解を恐れずに言えば、そういう状態に居続けることに成長はあるのかい?と思うこともある。

 

今までの自分ならばしなかったこと、できなかったこと、考えもしなかったことに挑み、チャレンジしている人は、きっと不安定だ。でも、そこにこそ学びがある。

 

キックボクシングの世界で、8人もの世界チャンピオンを育てた名トレーナー、須田達史さんは「不安定は進化、安定は退化」と説く。

 

安定している状態は本当にありがたい。でも、そこに新しい発見は少ない。自らを不安定な状態に身を置くことで、今までになかった着想を得たり、氣付くことで成長できる。別に、万人がそう考えなくたっていい。安定こそ最大の価値、と思う人がいても良い。ただ、ぼくは不安定の中に進化・深化を見出したい。

 

こういう不安定な状態にある自分は人の役に立てないかと言えば、そんなことはないと思う。

 

むしろ、そういう不安定な状態に自分を置き続けている自分だからこそ、自分が通過してきたフェーズにある人や、同じように不安定な中でチャレンジし続けている人に「わかるよ。大丈夫だよ」と、渦中にいる人以上の自信で伝えられるんじゃないか。

 

自分のことは自分では見えにくいし、わかりにくい。でも、自分のことをよく見て、良く知って、その上で自分以上に自分のことを信じ切ってくれる人がいるとしたら、その人の存在がどれだけありがたく、支えになるか。

 

チャレンジしている内容が同じでも違っていても、お互いにお互いを信じ切り、支え合う関係ならば、なお素敵だなとぼくは思う。そういう関係性を構築できたなら、ちょっと自分が怯むようなチャレンジにも、より自信を持って挑めるんじゃないかな。

 

そう。ぼくは、誰かにとってのそういう人であり続けると決めた。既にそうなっている、という実感もあるけれど、そうあり続けたい。

 

そういうことができる自分と、みんなに感謝してます。いつもありがとね。

 

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謙遜し過ぎてしまうあなたへ

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人々が、謙遜し過ぎないで済む世の中になったら、とても住みやすくなるんじゃないかと思っている。


例えば、Aさんが作ってくれたトリのから揚げがとてもおいしくて、「これ、おいしいね」と言ったとき。Aさんが「ありがとう!」と受け取ってくれたら、ぼくは嬉しい。


でも「いや、今日はちょっと出来が悪くてね」と言われたら、なんだかションボリしてしまう。出来損ないのトリのから揚げをほめたみたいで、いまいち嬉しくない。


もちろん、Aさんが理想とするから揚げ像はあったんだと思う。でも、ぼくにとっては目の前にあるから揚げがこの瞬間全てであって、それがおいしいんだから良いじゃないか、と思う。


「ありがとう!でもね、ほんとはもっと○○が△△で、もっとおいしいんだよ」と言ってくれたらば。そりゃー、次回に期待がふくらむというもんである。


○思考停止から抜け出そう

ぼくらは、無意識で「反省することは良いことだ」と思っている。いや、悪いことじゃない。確かに良いことだ。ただ、そこに「過度の反省」が入ると、途端にややこしくなってくる。


ぼくの理想は、最悪の状態にも良い点を見出し、最高の状態にも反省点を見出すことだ。


今日のから揚げは、味付けは濃すぎる、揚げ方は失敗して焦げ焦げ、パッサパサでジューシーさも無かったとする。この事象を捉えて「こんなもんダメだ」というのは簡単だ。

 

でもぼくとしては、そこからでも「良かった点」を見つけ出したい。「濃すぎたけれど、味付けの割合は良かった」とか。「焦げてないところはそこそこイケる」とか。減点法より加点法で考えたい。


逆に、もう味付けも揚げ具合も何もかも完璧で、もう非の打ちどころが一個もない!完璧なから揚げが出来上がってしまった!としても、そこからでも何かさらに良くなる点を探したい。

 

ひょっとしたら、どうしたらコンスタントにこのレベルのから揚げを揚げ続けられるか?かもしれないし、もっとアツアツの状態で食べてもらえるかもしれない?と考えてみたり。付け合せに一工夫できるんじゃないか、なーんてこともあり得る。


要するに「最低」でも「最高」でも、現状を見失うと思考が停止してしまう、とぼくは思っている。


○goodとbadのグラデーション

世の中に、100%ダメなこと、100%悪いことなんて、そうはない。あるかもしれないけれど、ぼくらが生きている中では、だいたい、goodとbadがグラデーションのようになっていると思う。


良いところを切り取ればどこまでも良く見えるし、悪いところを切り取ればどこまでも悪く見える。だから、ぼくがまず取り組みたいのは「客観的に見て、どんな感じか?」を把握することだったりする。


理想の状態を思い描いていると、その状態から少しでも欠けていることが許せなくなってくる。ここが違う、あれが違う、ここがダメ、あれがバツ、と言いたくなる。氣持ちはわかる。だって、理想と違うんだもん。


でも、現状あるものをまず、そのものとして正当に評価することも、ぼくは必要だろうと思う。

 

そう。勘のいい人はここまでぐだぐだ書かなくても、ぼくが何を言いたいかわかってるはずだ。

 

そう。「から揚げ=自分自身」だとしたならば。

 

自分自身を客観的に見ることは非常に難しいけれど、今自分はどういう状態で、どのくらい理想に近付いていて、あとは何が足りないのかを把握する。そうすることで、ようやく対策が打てる。

 

そのためにも、「自分が揚げたから揚げ=自分がこれまで生きてきた半生」を120%(場合によっては200%でも300%でも)認めて、ここから先どうしたらもっと美味しくなるかを考えたい。

 

人から誉められたら、過不足なく受け取って、次の糧にしたい。そんな人が増えたら、この世界はもっとハッピーになる、と信じている。

 

汝のから揚げを讃えよ。

 

唐の高僧、暢珊の言葉である。

 

当然嘘である。でもまあ、そういうことをぼくは言いたいんだよ。

 

 

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「あい」について考えた(唐突に)


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今回は、「あい」について書きたいと思う。

 

うん。「青は藍より出でて藍より青し」の藍ではないし、福原の愛でもない。宮里の藍でもないし、♪ひとりじゃ~ない~から~ キミが私を守る~から~ 強くなれる~ もう何も恐くないよ~♪のAIでもない(JASR○Cの目を氣にしながら)。

 

そう。今回は、どストレートに「愛」について書いてみたいと思う。

 

昔のぼくを知っている人ならば「大丈夫か?」と思うかもしれない。大丈夫。ぼくは完全に正氣だし、あるいは完全に狂氣だ。いずれにしても、皆さんにご迷惑をかけることは(そんなに)ないはずだ。

 

○「愛って何?」という疑問への回答

まず、「愛」の言語的定義を把握しておく。

 

あい【愛】

1)対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ。

 ・相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。愛情。

 ・異性に対して抱く思慕の情。恋。

 ・何事にもまして、大切にしたいと思う気持ち。

2)キリスト教で、見返りを求めず限りなく深くいつくしむこと。 → アガペー

3)(仏) 人や物にとらわれ、執着すること。むさぼり求めること。渇愛

4)他人に好ましい印象を与える容貌や振る舞い。あいそ。あいきょう。

コトバンク大辞林』第三版)

 

愛というと、なぜか男女間のものをイメージしがちだけど、「対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ」と置くならば、決して異性間だけに発生するものとは限らない。

 

同性の間に生まれる友情、家族間の愛情。隣人愛ってのもあるはずだ。となると、人間の間でかけがえのない物と認め(認め合い)、大切にしたいと思うことこそが「愛」と言えるかもしれない。

 

○愛はどこからやってくるのか

では、愛はどこからやってくるのか。

 

例えば、赤ん坊を見て「愛しい」と思う氣持ちに、打算や損得勘定があるだろうか。アカチャンホンポ西松屋にお勤めの方はそうかもしれないけど、多くの人はそうではない。つまり、赤ん坊を愛おしく思うのに理由はほとんどない。

 

アタマでは理解できないことや、理屈では計り知れないものが、そこにはある。

 

人間の感情はすべてそうかもしれないけれど、特にこの愛ってやつは、どこからともなく、自然と湧き上がってくるものだとぼくは感じる。

 

で、昔は「あい=天意」と表現していたと聞いたことがある。これだと、ぼくはものすごくしっくりくる。

 

てんい【天意】

1)天の心。自然の道理。

2)天子の意志。

 

 

例えば「自分にとって得かどうか」、「メリットがあるか」、「どんな価値があるか」という判断基準は、どこまで行っても人間業だ。もちろん、決して悪くない。そういう冷静かつ適切な判断が必要なケースもあるし、そういうのが好きな人だっている。

 

一方で、愛情はそうではない(と、ぼくは思っている)。勝手に湧き上がってくるもの。どこからともなく溢れ出て、止まらないもの。これこそが「あい=天意=天の心、自然の道理」だと思う。

 

だから、湧き上がってきたインスピレーションが、ぼくら人間の理屈を超えてしまうこともある。

 

例えば、結婚している相手を好きになるとか、安定を捨てて不安定な状態に飛び込むだとか。自分が持っている常識や固定観念からはかけ離れたものが出てくることもある。

 

だから、ぼくは自然と溢れてくるものを無視したり、邪魔したり、蓋をしたりしてきた。これは、意識していることもあれば、無意識のこともあると思う。

 

○天意(あい)の世界を生きる

でも、ぼくらがアタマで考えることは、どこまで行っても理屈や因果関係や、過去データから引っ張ってきた世界でしかない。当然ながら想像がつくし、変な話、安心だ。

 

だから、ぼくらが理想を描こうとすると、このゾーンでの理想が出てくることが多い。もちろん、これは全く悪いことじゃないし、間違いでもない。

 

でも、天意(あい)から渡される理想は、はっきり言って突拍子もない。人間的には「マジで?」と聞きたくなることもある。でも、その天意(あい)に沿って生きるのは、実は本当に楽しいし、喜びだったりする。

 

どっちが良いとか、悪いとか、そういうことじゃない。どっちに従って生きてもいい。ただぼくは、天意(あい)の世界を生きたいと思っている。


どうしたらいいか。自分のココロの声に耳を傾けて、インスピレーションを大切にして行動すればいい。どうしても今それができないとすれば「ぼくはそれがしたい人なんだな」と、その氣持ちを受け止めて、尊重すればいい。

 

ぼくは、それができていなかった。自分の意に沿わない、あるいは常識から外れたインスピレーションが渡されたとき「そんなはずはない」と否定してかかっていた。今は違うけれど。

 

突拍子もない、あり得ない思い付きでも、大切にしてみる。天意(あい)の世界は、そこから始まる氣がしている。

 

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「逃げ癖」と「わからない」と「わかると決める」こと


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「無くて七癖」。人には、少なくても7つくらいはクセがあるんだよ、という格言(?)だ。調べたら「無くて七癖、あって四十八癖」というのもあるらしい。四十八もあったら、癖だけで色々忙しそうだ。

 

癖はあっても無くてもどうでもいいもんだと思うし、考え方によっちゃ「習慣」とも言える。靴を脱いだらそろえるのが癖、という人がいるかもしれないし、そういう癖はむしろ良い感じすらする。

 

とはいえ、ぼくらは自分では止めたい、無くしたい癖があると思う。

 

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