執着とさみしさについての考察
自分自身に対する認識と、本当の自分が実は違っている、ということはよくある 。
ものすごくわかりやすく言えば、「ぼく、うどん好きじゃないんだよね」と言いつつ、三食うどんを食べるようなことが起こる。あくまでも例え話だけれど。
あ、ぼくは三食うどんは避けたい派です(香川県に行ったら別)。
何の話だっけ。うどんじゃなくて。
そう。「自分ってこういう人間」と思っていることと、実際の自分の在りようや、していることがズレてる、極端なときは逆を行ってるなんてこともある。
いまから書くのは、ぼくが最近氣付いた、ぼく自身の中にある認識のズレ(あるいは、真逆のやつ)についてだ。ひょっとしたら、同じようなことを感じている人もいるかもねと思って、書いてみる。
○愛が濁ると、執着になる
このところ、物事に対する執着が強いなと感じていた。
しゅうちゃく【執着】
ある物事に強く心がひかれること。心がとらわれて、思いきれないこと。
執着している先は色々で、仕事のことだったり、人間関係だったり、パートナーについてだったり、色々の色々だ。
「執着しているのかもしれない」と氣付いたきっかけは、ものすごくおおざっぱに言えば「上手くいっていなかった」からだ。
ぼくが相手に対して、こうした方がいいとか、こうしたらもっと良くなるとか、 そういう氣持ちがあって何かを言ったりやったりしたんだけれど、それが相手に受け入れられなかったり、ときには衝突を引き起こしたりした。
もし、ぼくの言動が本当に相手を想ってのことならば、うまくいくはずだ、と思ったのだ。おこがましいかもしれないけれど。自分が良かれと思ったことがスッといかない、何か引っかかる というのは、ぼくに原因があると考えた。
だから、ぼくが何かをしようとしていることは、「執着」なのかもしれないなと思ったのだ。
物事にこだわったり、強い想いを持つことは、決して悪いことじゃない。でも、そこにコントロールしようという意思が入ったとき、ぼくはそれを「執着」と呼ぶ。
例えば、相手のことを想って、何か言う、する。その言動そのものは愛だと思うし、尊いと思う。でも、そこに「相手から良く思われよう」とか「この人を変えてやろう」とか「こういう自分を見せつけよう」みたいな意思が入った時、愛は濁り、執着になる。ぼくが、自分の言動の結果にとらわれているからだ。
ふむ。結果にとらわれるのには、何か理由があるはずだ。そう思って、自分と対話してみた結果、なんと「さみしかった」という結論にたどり着いた。
○自分のさみしさを埋められるのは自分
ぼくは自慢じゃないけれど、友だちや仲間には恵まれていると思う。別に友だちがいなくてさみしいと思ったことはない。
で、ぼくが何を感じたかと言うと、「自分が自分を認めて、寄り添っていなかった」ということに氣付いてしまったのだ。
表面的には「ぼく、イケてるんです」とか「ぼく、頑張ってます」とは言えるし、人からもそう言ってもらえるけれど、自分自身が心の奥底の深いところで、自分を認め切れていなかったな、と思った。だから、人からの承認や賞賛がほしかったし、よく見られたい、認められたい、という想いがあった。
では、そのさみしさは誰が埋められるのか。これはもう、実はぼく自身しかいない。
ぼくらは(少なくとも、ぼくは)さみしいとき、つい誰かと繋がりを持とうとする。これは、人間的には間違ってない。誰かと一緒にいれば、さみしさをまぎらわすことができる。でも、今ぼくが言っている「さみしさ」は、もう一段奥にあるものを指している。
ぼく自身がぼく自身を認めて、手をつないで、しっかりと共に歩む必要があることに、改めて氣がついた。そういう自分であれば、人から何かをもらう必要はない。承認も何もかも、自分が自分に与えられる。余った分は、人にも提供できる。
アタマではわかっていたけれど、体感的に「自分はさみしかった」と感じるまでには至っていなかった。これはもはや、理屈の世界ではない。感覚・感性の世界だと思う。
○自分自身と手をつなぐために、人に会う
ひょっとしたら、世の中の多くの人は自分自身としっかり手をつないで生きているのかもしれない。
でも、ひょっとしたら以前のぼくのように、自分自身と手をつなげずに、無意識的にさみしい思いをしている人もいるかもしれない。
そういう人に、ぼくは自信を持って言える。大丈夫。あなたが氣付きさえすれば、あなたは必ずあなた自身と繋がれる。
だって、あなたの心の中にいるあなたは常に、あなた自身を待っているから。待ちくたびれてあなたの元を去ることも、別の人と一緒になることもない。死ぬまで、ひょっとしたら死んだ後も、あなたを待っている。
ただ、命が尽きる前に自分自身と繋がりませんか?とは思う。ぼくの場合、だいぶ待ちくたびれて、暇つぶしに始めたツムツムにも飽きて、少し拗ね始めていたみたいだったから(たとえ話です)。
もし、あなたがひょっとして、自分自身と繋がれていないんじゃないかと思ったら、どうしたらいいか。逆説的だけれど、人と会うと良いと思う。特に、自分自身と手を繋いでいる人と会うのが良いと、ぼくは思っている。ぼく自身、人と話し、自分の中を見に行くことを繰り返すことで、この「さみしい」という感情に氣付けた。
だから、もし良かったら、ぼくに話を聞かせてほしいと思う。どれほどのことが出来るかはわからないけど、自分のさみしさに、少しだけ先に氣付いた先導者として、何かしらのヒントはお渡しできるはずだ。
共に生きましょう。
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「○○じゃないと××してはいけない」の罠
【固定観念】
心の中にこり固まっていて、他人の意見や周りの状況によって変化せず、行動を規定するような観念。固着観念。
今から書くことは、あくまでもぼくの個人的な考えで(当ブログは常にそうだ)、別に固定観念が悪いとか、ない方が絶対に良いとかではない。
ただ、ぼく個人としては、固定観念を持ち続けて生きたくはないと思っていることは表明しておく。
○まだまだあった固定観念
ぼくはもともと固定観念に囚われていた。最近はだいぶなくなってきたと思っていたけれど、最近新種を発見した。
それは「○○じゃないと××しちゃいけない」というやつだ。これは汎用性が高い。
例えば「友だちじゃないと、相手の嫌なところを指摘しちゃいけない」とか、「成果を出してないと、発言しちゃいけない」とか。近いカテゴリーに「良いことを言わないといけない」というのもある。「めっちゃ体調が悪くないと、会社を休んではいけない」とかも。
実は全て幻想である。にもかかわらず、ぼくはずーーーーっとこの幻想に囚われ続けていた。
○行動に理由が必要か?
これが行き過ぎると、何か行動を起こすのに全て理由が必要になる。
例えば、ブログやフェイスブックの投稿にコメントを残す。このくらいのことでも「さほど仲良くないのに、ぼくがコメントしていいかな?」と考えたりする。
いざ書くとしても「何か良いこと言わなきゃ」とか「何か相手が嬉しいことじゃないとダメじゃないか」とかとか、さんざん考えてた。
要するに、何か行動するのに理由が必要だと考えるわけだ。
でも、記事を読んだ。→なんか良いな!なんかこう思った!→それを伝えたくなった。→そのまんま伝える。
これ以上に、何か行動の理由が必要だろうか?うん。必要ない。その人の記事を読んで、自分の中の何かが動いた。今のぼくにとって、もう十分すぎる理由だ。
裏を返すと、明確な理由がなくたって、行動していいわけだ。
○固定観念の(無意識の)メリット
では、なぜこんな固定観念が生まれ、定着するのか。実は行動しない方が生きる上ではカンタン、というメリットがあるからだと思う。
わかりやすい例として、役割に関する固定観念を挙げてみる。「この人がこの役割だから、私が出しゃばって何かするのは良くないよね」とか「子どもを注意するのは、親の仕事だよね」とか。「自分はその役割じゃないから、その役割の行動をしてはいけない」というやつ。
実際には、そんなことはない。目の前の子どもが道に外れたことをしていたら、通りすがりの大人が叱ったっていい。むしろ、その子の将来のためにはその方がプラスかもしれない。でも、多くの大人は見て見ぬふりをする。
なぜか。「自分はその役割じゃないから、その役割の行動をしてはいけない」という固定観念を持っているからだ。このゾーンに居続ければ、その人は行動を起こさなくて済むし、行動に伴う責任も取らなくて済む。
うん。ぼくは長らく、意識的にか無意識的にかはわからないけれど、この「固定観念のメリット」を生かして、やらずに済ませることを選んできたのだ。
でもさ。自分がいる会社や組織やコミュニティ、さらにデカいことを言えば自分が住んでる町や国、つまりは世界を良くしていこうと思ったときに「私の役目じゃないんで、やりません」とかあり得る?むしろ、自分ができること、やりたいと思ったことは、多少無理してでもやるでしょ?と思った。
むしろ、やる自分でありたいなと思った。だから、自分を変えることにした。ただ今、絶賛取組中だ。ひょっとしたら、コケることもあるかもしれない。失敗もするかもしれない。でも、やり続ける。
なぜか。それをやることが、ぼくの理想に繋がっているから。
そんなことを最近考えた。
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「絶対尊敬」(ぼくが出会った名言集)
「絶対尊敬」(わもん創始者・藪原秀樹氏&I氏)
自分でも氣付いていない(あるいは氣付きたくない)自分を知って、愕然としたり、自己嫌悪に陥ったりすることはないだろうか。
ぼくはある。しょっちゅう、とまでは言わないけれど、ある。
ぼくは、自分だけで自分のことが全てわかる、なんてことはないと思っている。むしろ、自分のことは自分が一番わからない、とすら思う。
だから、人に聞く。あるいは、自分が氣付かないとき、人が教えてくれる。本当に、ありがたい環境に身を置いている。
○傲慢だったぼくと「絶対尊敬」
最近のぼくは、これが立て続けに来ている。今まで自分自身は「こういう人だ」と思っていたものが真逆だったり、実は錯覚だったり。その一つが「ぼくはものすごく傲慢だった」ということがある。
直接的に「傲慢だ」と言われたわけではない(近い指摘は、振り返ってみればあった)し、傲慢が故に誰かと仲違いしたわけでもない。ただ、ぼく自身として、傲慢だったことに氣付かされてしまったのだ。
人間、氣付いてしまった以上、それを意識しないわけにはいかない。そのタイミングで、ぼくの師匠筋であるI氏がくれた(というより、思い出させてくれた)言葉が、冒頭の「絶対尊敬」だった。
「絶対尊敬」とは、聞く力を磨く修練法である「わもん」の創始者・やぶちゃんこと藪原秀樹氏が言い始め、わもんではとても大切にされている言葉である。
絶対尊敬とは何か。このブログでは、『目の前の方の言う事、やる事、考え方存在の全てをありのままに受け止め、すべてを信じ、包み込むような気持ちのこと』と説明している。なるほど。
ぼくは数年前にこの「わもん」の本を読んで、とても感銘を受けた。で、「絶対尊敬すごいな!」と思っていた。だから、この言葉自体は知っていたのに、ここ最近のぼくは全く実践できていなかったのだ。
○傲慢と絶対尊敬の表裏一体
目の前の人の言動、考え方をありのまま受け入れ、尊敬し続ける。これが絶対尊敬。
これをし続けるために、一番何が必要か。
実は、自分自身を「絶対尊敬」し続けることじゃないかと思う。
裏を返せば、人に対して傲慢な人は自分に対しても傲慢だし、逆もまた真なりだ。
ぼくは、自分自身に対して傲慢だったと今思う。
自分を甘く見て、低く見積もって、この程度の人間だよねと思っていた。こういう状態のぼくが誰かと相対したとき、自分と相手との間に「上下」を無意識で作った可能性がある。
それは無意識に自分を守るためだったかもしれない。自分よりも下がいると思いたかったのかもしれない。
本来、人間関係はすべてフラットだ。天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。なのに、なんと天に代わってぼく自身が人に上下をつけていた。そのことに氣付いてしまったのだ。
このことを認めて、こうしてブログに書くのは、人間的にはとても心苦しい。けれど、こういう経験があるんじゃないかと思う。誰しも。でも、それは決して悪いことじゃない。だからぼくは「そういうこともあるよね」と受け止めたい。
けれど、ぼくはこの先、他の人を上に見たり、下に見たりして生きていきたくはない。
○当たり前に「絶対尊敬」の先
自分のありのままを認め、絶対尊敬できていない状態で、相手のありのままを絶対尊敬できるだろうか。うん。できるかもしれない。でもそれは、上っ面でしかないだろう。
相手を絶対尊敬し続けていった先に、自分自身を絶対尊敬する境地が来るのか、自分を絶対尊敬し続けたら、相手もそうできるようになるのかは、良くわからない。ただ、表裏一体であることは間違いないと思う。
人間は、つい忘れる。忘れないためには、無意識で「そう」である状態を作るのが早い。そのためには、繰り返すしかない。
おかげさまで人間は、有意識、あるいは顕在意識をコントロールすることが出来る。そこから、無意識にアプローチすることだってできる。
だから、ぼくは無意識に誰に対しても「絶対尊敬」の状態でいられる自分でありたい。自分を絶対尊敬し、自分の偉大さを認め、その覚悟を決め、そのゾーンで生き続ける。
自分が偉大で、自分を尊敬することは、実は勇気がいることだ。自分のありのままを認め、自分を尊敬するのが当たり前になれば、このエネルギーを何のために使うのか、と真剣に考えざるを得なくなる。
そうすると、世間の評価や常識、人と比べてどうのこうのということにエネルギーを割けなくなる。それは本当に、自分が絶対尊敬している自分がすべきことなのか?という疑問が生まれるんじゃなかろうか。
ぼくはその領域に船を漕ぎ出そうとしている。もちろん、まだ道半ばだ。寄り道もする。難破しそうになって、近くの港に停泊することもある。でも、漕ぎ出そうとしている。
その先の大海原に、きっと素晴らしい何かがあると信じて。
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「できない自分を許容する」(ぼくの出会った名言集)
「『できない自分』を許容する」(N氏)
ぼくの師匠筋の一人で、何度か当ブログにも登場したことがあるN氏は、非常につかみどころの難しい人である。
一見、ものすごく怖いようにも見えるし、単なる氣の良いあんちゃんにも見える。純国産の日本人にも見える反面、外国人と言われても信じそうになる雰囲気もある。
ものすごく思慮深く、何か深ーいことを考えているように見えて、実は何も考えてなかったりする。そうかと思えば、油断しているととんでもなく的確かつ切れ味の鋭い一言を放り投げてくることもある。
彼の放つ言葉もまた、つかみどころが大変難しい。なるほどねと納得したつもりでいたら、後から振り返ってみると実に浅いところでしか自分が理解できていなかった、ということも多々起こる。
そして、彼の放つ言葉は一見優しいんだけれども実は厳しかったり、逆にものすごくキツイように見えるけれど、実はものすごく優しかったりする。
実につかみどころがない。
○誰もみな「理想ではない」状態からのスタート
そんな彼が放った言葉が、冒頭の言葉だ。
皆さん、何か目標や理想を実現しようと取り組むことがあるはずだ。例えば、5キロ痩せるとか、大学や試験に合格するとか、仕事でノルマを達成するとか、憧れの異性とお付き合いするだとか、IWGPヘビー級のタイトルに挑戦するだとか、歌手としてデビューするだとか、まあ、色々ある。
その目標や実現したいことが叶えられた状態を、ひとまず「理想」と呼ぼう。ぼくらが「理想」を描くとき、当然ながらぼくらは「そうではない」状態からのスタートになる。
現時点で理想体重である人は、さらに5キロ痩せようとはしないだろうし、ノルマが達成できている人は、少なくとも「ノルマを達成したい」とは思わない。現チャンピオンは、チャンピオンベルトをほしいと言うわけがない。
だからこそ、ぼくらは理想を描いて、その状態に向かっていく。
すぐに叶えられる理想は置いといて、ぼくらが描く理想が実現するまでには大抵タイムラグがある。
新日本プロレスに入団したての若手が、いきなりチャンピオンになることはない。5キロ痩せたい!と思っただけで次の日に5キロ痩せられるなら、この世の中にこれだけダイエット本が出回りはしない。
ぼくらは理想を描いた時点では、まだ「理想ではない」自分でいる。
○「理想ではない自分」を直視できるか
理想ではない自分は、多くの人にとって快適ではない。だって、「できない自分」を直視するから。
描いた理想に対して、今の自分がなんと情けなく、カッコ悪いことか。「こうありたい」という理想が高ければ高いほど、ぼくらの挫折や絶望感、今の自分に対する無力感は大きくなる。
そんなとき、ぼくらがすべきことは「できない自分を許容すること」だ。今の自分はここまでしかできない、こういう状態にある。理想に対してこれだけ差がある。そういう諸々を直視すること。
体重65キロが理想で、今が72キロなら、どうやって7キロ減らすかを考えればいい。「なんで72キロなんだ!」と嘆く必要はないし、もっと言えばそんなヒマはない。売上目標が1000万円なのに、実績が5万円ならば、残りの995万をどう売り上げるかを必死に考えればいい。
でも。ぼくら(いや、ぼくだけの話かもしれない)は往々にして、理想と現在地が離れているとわかった瞬間、理想をずらしたり、現在地をわざと見ないことがある。なぜかって?「できない自分」を認めたくないし、直視したくないからだと思う。
「いや、別にチャンピオンとか興味ないし」とか「別に彼女とかいらないし」とか「ぼくは72キロくらいがちょうどいい」なんてなことを言い、理想から目を背ける。そうすれば、理想と違う、できない自分と対面しなくて済む。
逆に「思えばかなう」とか「夢は必ず実現する」みたいなことを(おかしな形で)信じ切ってしまうと、「思うだけで理想は実現するんだよ!」とか「夢見ていれば、いつか絶対叶うよ!」とか「ぼくの想いは、きっといつかあの子に届くはず!」などと、理想だけが先行してしまうこともある。
うん。これもまた、理想の状態にない自分を直視しているとは言えないよね。
○理想を現実化する、と決める
「できない自分を許容する」のは、簡単で優しいようでいて、実は苦行だ。だって「できない」自分をしっかり見る必要があるから。プライドが高い人は、この「できない」という現実を受け入れるのに苦労するだろう。
なぜなら、ぼくがそうだから。
理想の実現に取り組んでいる間、ぼくらは常に「できていない」自分でいる。
それをどれだけ直視して、なおかつ許容できるか。「できない自分はダメだ」ではなく「できないけど取り組んでる自分、イケとる」と、どれだけ思えるか。「できていない今の自分」を認めて、できるまでやり続けられるか。
できない自分を許容するステップの前には、「理想を現実化すると決める」ステップがある。
「思えば叶う」も、「夢は必ず実現する」も、間違いではない。理想を実現すると決め、その思いが強ければ強いほど、「どうしたらその夢に近づくか」、「できない自分ができるようになるか」を真剣にサーチする。
で、理想を実現したいという強い思いがあればあるだけ、自分が見つけてきたことを真摯に、肚をくくって取り組むはずだ。それが、どれだけ過去の自分のプライドを傷つけるものでも。
そして、できない自分を許容しつつ「できるまで挑み続ける」という、実にシンプルかつ泥臭い展開が待っている。
多くの人(過去の僕も含めて)は、ここで挫折する。出来ていない自分を直視できず、あるいは許容しきれず、あるいは理想を実現すると決め続けられず、途中で諦める。
○プロセス無視。理想だけを見る
絶対に雨を降らせる祈祷師は、雨が降るまで雨乞いの儀式を辞めないし、諦めない。
山を眺めているだけでは、頂点に立つことはない。どんな登山口を通り、どんなルートで上るかはわからないとしても、一歩を踏み出さない限りは、頂上に近付くことはない。
ぼくらが理想を実現するのも同じこと。理想を実現すると決めて、それに向かって何かに取り組むしかない。プロセスは神のみぞ知る、だ。
ぼくらが新日本プロレスの新弟子だとすれば、チャンピオンになるという理想を決めて、ランニングや縄跳び、ウェイトトレーニングをして体を鍛え、リングの設営を手伝ったり兄弟子の練習につき合わされたりしつつ、理想を見続けるしかない。そうこうしているうちに、チャンピオンへの挑戦権が得られるだろう。
「AがBだからC」とか、「これをやる意味は何か」を考えても仕方がない。ぼくらに見えている理想へのプロセスなんて、高が知れている。
実際には、ぼくらの想像がつかないとんでもないところから理想を実現する道が開けたり、理想が渡されたりする。
でもそれは、ぼくらが毎日コツコツバーベルを上げ、腕立てを欠かさず、兄弟子の関節技から何とか脱出しようとする日々を、肚をくくって送ってきたからに他ならない。
それはでも、「ここでこう筋力が付いたから」とか「この技をこう返せるようになったから」とか、だけではない。
ぼくらが理想を実現すると決め続けたからだ。
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「とにかく笑えれば」(ぼくの出会った名言集)
「とにかく笑えれば 最後に笑えれば 情けない帰り道 ハハハと笑えれば」(ウルフルズ『笑えれば』)
僕が敬愛する(敬愛する人がたくさんいるのだ)シンガーソングライターの佐野元春は「ポップソングの歌詞は現代におけるポエトリー(詩)である」てなことを言っていた。言い回しは違うかもしれないけど、こんなニュアンスのことをだ。
ぼく自身はさほど詩集をよく読むわけではない。でも、言葉が持つ力を発揮する表現方法として「詩」というスタイルが効果的なんだろうとは感じる。
昔の日本の人たちは和歌を詠んで自分の氣持ちを表現していたし、西洋でも詩を諳んじることが教養の一つだったことからも、それはうかがえる。
言葉の力を発揮する一つのスタイルとして、ポップソングもその一つに挙げられるだろう。ぼくらは、ポップソングの歌詞に勇気付けられたり、励まされたり、ときに泣かされたりする。
「歌詞なんて興味ない、聞いてない」という人もいるし、それはそれで音楽の楽しみ方としてあると思う。歌詞(というか歌)がないジャンルの音楽を好む人が多いのもわかる。
ぼくは、自分が言葉の力を信じているせいか、歌詞がとても氣になる。良い曲なんだけど、歌詞に違和感がある、となると、あまりのめりこめないタイプだ。
そんなぼくが、最近よく口ずさんでいるワンフレーズが、冒頭の一文だ。ウルフルズの『笑えれば』のサビであり、歌い出しの歌詞である。
■辛い、苦しい、情けない。そりゃあるよ、人間だもの
人間やってると(当ブログの読者は、ほぼ人間だと仮定している。たまに、ネコや地球外生命体が交じってる可能性はあるけれど)、そりゃまあ、色々ある。
自分の思った通りに、何事も完璧にうまくいくこともあれば、自分が思う通りにいかなかったり、失敗することもある。情けなくなったり、自分はダメだなあと思うことだってある。
そんなときに、ハハハと笑えたらどうだろう。
起きたこと、やってしまったこと、過去の出来事は何一つ変わらない。アツアツのラーメンを部長の頭にぶっかけてしまったことも、好きな子に告白して、びっくりするくらいあっさり振られてしまったことも、やらなきゃいけない仕事を忘れていて、各方面に大迷惑をかけてしまったことも、状況は何一つ変わらない。
だとしても。どんなに辛くて、苦しくて、情けない状況にいても、ハハハと笑えるだけで、少し氣持ちが軽くなるとぼくは思う。少なくとも、明日は頑張ろうという氣が湧く。
そして何より、笑っているときは落ち込めない。人は、笑いながら怒ったり、悲しんだりできない。竹中直人のネタに「笑いながら怒る人」ってのがあったけど(関係ない)。
■心技体、みたいな話
体と心は密接に関係している。「病は氣から」と言うけれど、心が病んでいるときは体調も崩しやすい。うつ状態の人は、景色がモノクロに見えたり、ご飯を食べても味がしなくなることもあるらしい。
もちろん、氣がふさいでいてもご飯3杯食べられる、というぼくみたいな人もいるけれど。
一方、体の状態が心に大きく影響することも、確実にある。だから、辛かったり、苦しかったり、情けなかったり、悲しかったり、寂しかったりするときに、アハハと笑える。そんな人でありたいなあと思う。
感情が追いついてこなくても、口角を上げてあげるだけでいい。心の中はボロボロで、ひょっとしたら涙も流しているかもしれないけれど、それでも笑顔でいると決める。そうすると、感情がそれに追いついてくる。つまり、体から心にアプローチしていく。
■新しい一歩を踏み出し続ける
なぜ怒りや悲しみが続いてしまうのか。
それは、ぼくらが脳内でその感情を反芻しているから、らしい。
あのとき、とても腹が立った。悲しかった。情けなかった。うん。その瞬間はそうだったんだろう。んじゃ、その感情を見続けて、その感情を育て続けたいか。それとも、その瞬間にその感情を味わい尽くしたら、ハハハと笑い飛ばして次に進みたいか。
辛い、苦しい、情けない、悲しい、寂しい。そう。そんな感情だってある。人間だからね。だからこそ、その感情を味わいつくしたら、ハハハと笑って次の一歩を踏み出す。ぼくはそんな軽やかさを身に着けたい。
アツアツのラーメンをぶっかけてしまった部長には、次の日にもう一度謝ればいい。「今度は冷麺を」と冗談の一つも飛ばせばいい。自分がどこかに飛ばされるかもしれないけれど。
振られた相手には、ぼくより素敵なパートナーを見つけるんだよと言えばいい。そして、次に自分が好きになれる誰かを探せばいい。
やらなきゃいけない仕事を忘れて人に迷惑をかけたなら、次の仕事でお役にたてばいい。
Life goes on
人生は続く。でも永遠じゃない。
だからこそ、新しい一歩を踏み出し続ける自分でいたいわけですよ。
「カッコ良く生きてえんだよ!」(僕の出会った名言集)
「カッコ良く生きてえんだよ!」(W氏)
ぼくには師匠筋がたくさんいる話は前回書いたと思う。今回の名言も、そんな師匠筋の一人からもらったものだ。
これに関してはぼくに向けて言ったわけではないけれど、妙に感銘を受けたのでブログに書いておく。
■「どう生きたいか?」の問いに、どう答えるか。
この発言が出た背景として、ぼくが「どう生きたいか、今世のミッションは何かは何となくわかる。でも、それを切れ味よく答えられないのがモヤモヤする」と言ったことから始まる。
うん。急に「どう生きるか」とか「今世のミッション」とか言われて、困惑する方もいるかもしれない。ぼく、あるいは最近のぼくの周りでは「どう生きるか」あるいは「何のためにこの命を使うか」が大きなテーマにある。
でもこれは、結構世の中的なトレンドかもしれない。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』がリバイバルヒットする時代だ。ひょっとすると「自分は何のために生きているのか?」を探している人も多いのかもしれない。
ここで、妙な例え話を出す。
家でくつろいでいたら、急に神さま(仏さまでも、鬼でも何でも良いけれど)がドヤドヤと入ってきて、「お前は何のために生きているんだ!?」と問うてきたとする。そりゃもう、ものすごい迫力で。ハイ、こんなとき、どう答えますか。
神さま(仏さま、鬼)の様子を見た限りでは、できるだけ一言でスパッと、シャープに答えたい。ごちゃごちゃ言ってると、何をされるかわかったもんじゃない場の雰囲気だとする。そんな切羽詰まった状況で、自分の生きている意味やミッションを「これ!」と表現するとすれば。
とまあ、こんなシチュエーションを思い浮かべた時に(思い浮かべてみて~)、ぼくの師匠筋の一人である彼が放ったのが冒頭の言葉「カッコ良く生きてえんだよ!」だったのだ。
■カッコ良いって、なんだ?
この言葉になぜ、ぼくが感銘を受けたのか、自分なりに分析してみた。すると、どうやらぼくは「何のために生きるのか」は大層なこと、立派なことでなければいけない、と思っていた節があることに氣が付いた。
でも、自分がなぜ生きるのか、どう生きたいのかは、もっとシンプルな方が(ぼくにとっては)わかりやすい。その意味で「カッコ良く生きる」というのは、ものすごくシンプルだけれど深い言葉だなと思ったのだ。
「カッコ良い」というのは、極めて抽象的な言葉だ。「あの人、カッコ良いよね」というとき、発言者の主観が大いに混じる。簡単に言えば、羽生結弦を「カッコ良い」というか、羽生善治を「カッコ良い」というか、みたいなもんだ。
・・・わかりにくい。
あるいは武藤敬司を「カッコ良い」というか、橋本真也を「カッコ良い」というかみたいなもんだ。
・・・余計わかりにくいな。
あ、ちなみに僕は蝶野派です(関係ない)。
何が言いたいかというと、「カッコ良さ」には絶対的な基準がないということ。100人いれば100通りに近い「カッコ良さ」があるはずだ。
それは、実は当ブログで最近頻出人物になりつつあるバリ島の大富豪、丸尾隆俊氏(丸さん)が良く使う「さわやか」にも通じる。
自分の言動が「カッコ良い」か、あるいは「さわやか」か。それはその人自身の美学による。そうは言いつつも、万人に共通する「カッコ良さ」、「さわやかさ」はある。
だから、カッコ良く生きようとすると、自ずと世のため人のためになってしまう。でもそれは、最初から視線が外に向いているわけではなくて、自分がどうカッコ良く生きるかを考えた結果、そうした方がカッコ良いということにつながる。さわやかに生きるのも、一緒だ。
■カッコ良く、さわやかに生きるために
と、ここまで書いておいて、ぼくは「カッコ良く生きる」ことにはあまり興味がない(笑)。カッコ悪くてもまあいいか、と思っている。でも「さわやか」には生きたいと思っている。
明るく元気な人と、陰気な人のどちらが「さわやか」か。いつも楽しそうな人と、いつもつまらなそうにしている人のどちらが「さわやか」か。物事を前向きに捉えている人と、いつもネガティブな人のどちらが「さわやか」か。
例えば、そんなこと。さわやかに生きようと決めると、実は色々ある。でも、そのゾーンで生き続けようと思えば、きっと自然とそうなっていくはずだ。そして、さわやかじゃないなと氣付けば、よりさわやかな方に自分を変えていける。
もちろん、意識的にしろ無意識的にしろ「さわやかじゃない」ことをすることもあるだろう。そんなときはアハハと笑って「こりゃ、さわやかじゃないね」と言える人でありたいとも思う。
それこそが、さわやかな在り方だなあと、ぼくは思っている。
「『決断』とは『決めて』、『断つ』んです」(ぼくの出会った名言集)
(ラーメンは断ちません)
「『決断』とは『決めて』、『断つ』んです」(N氏)
ありがたいことに、ぼくには師匠と呼べる人がたくさんいる。もちろん、それぞれの人に弟子入りすると宣言しているわけではないから、彼らはぼくを弟子だと思ってはいないかもしれない。でも、ぼくはこの師匠筋たちからたくさんのことを得ている。
冒頭の言葉は、そんな師匠筋の一人であるN氏からいただいたものだ。
ぼくのこのところのテーマは「決める」とか「決めきる」ことに由来するものがたくさんあった。自分では決めたつもりでいても、周りからは「決めてる感じしないよね」と言われることもあった。
このあたり、ひょっとすると「は?自分が決めてるんだから、決めてるっしょ」と思う方もいるかもしれないけれど、実は自分が「こうすることに決めた!」と思っていても、心のどこかで保留ボタンを押していることはある。うん、正確に言うとぼくにはあった。
最近「人は自分の鏡だな」と切に感じている。人から見て、自分の言動が一致していなければ、それは「違和感」という形で相手に伝わる。
「ぼく、自然環境を守りたいたいんすよ!」と熱弁している人が、その辺にごみをポイ捨てしていたら、当然違和感がある。これほどわかりやすくないとしても、人々(まあ、少なくともぼくは)は時に言行が不一致になることがある。しかも無意識に。
さて、このへんを書き出すと長くなるので、本題の方に移る。
■決めること≒断つこと
「決断」という言葉は「決」と「断」で出来ている。見ればわかる。そりゃそうだ。
つまり、「決める」ことは「何か一つの選択肢を選ぶ」ことで、それは「ほかの選択肢を断つ」ことでもある。
ぼくらの人生は、小さな選択の積み重ねで出来ている。全て自分で決めて、自分で選んでその道を歩んでいる。大きな人生の岐路や選択肢はもちろん、どんなに小さな選択でも、ぼくらは二度と、その選択自体をやり直すことはできない。
例えば、僕らは今日の昼にカレーを食べた選択をひっくり返すことはできない。将来的にタイムマシンが出来たらどうなるかはわからないけれど、少なくとも今のところは。いくら悔やんでも、いくら泣き叫んでも、いくら大金を積んでも、だ。どんなに後から「やっぱラーメンにしておけばよかった」と思っても、もう既にカレーを選択してしまった人生を生きるしかない。
もし、ぼくが昼にカレーではなくラーメンを食べていたとしたら、ぼくの人生は変わっていたかもしれない。
とてもおいしそうにラーメンを食べるぼくの姿を敏腕CMプランナーが見初めて「彼をどうしてもCMで起用したい」と言い出し、あれよあれよという間にテレビCM出演が決まり、そのCMを見たマーティン・スコセッシ監督が「彼をどうしても次の作品で起用したい」と言い出し、なんだかんだという間にハリウッドデビューが決まっていたかもしれないからだ。
でも、ぼくはラーメンではなくカレーを食べた。そして、敏腕CMプランナーもマーティン・スコセッシもぼくの前には現れなかった。
■決めるのが苦手
ぼくは今まで、決断することが苦手だった。簡単に言えば「優柔不断」だ。これは、別の師匠筋から見事に指摘された。
例えば、飲食店でメニューを決めるのに時間がかかる(ファミレスなんて地獄だ)。結婚していた頃は、「何食べたい?」と聞かれ「何でもいい」と答えておきながら、夕食にうどんが出ると「うどん気分じゃないなー」とか言って、ちょくちょく元奥さんをキレさせていた(今となっては、ほんとに申し訳ないと思うけれど)。
要は、決めることで他のあり得たかもしれない選択肢を「断つ」ことへの恐れが大きいのかもしれない。
ぼくらの人生は、選択の連続だ。Aを選べば、Bは選べない。カレーを食べれば、ラーメンは食べられない。カレーもラーメンも食べればいい、と思うかもしれないが、それは「カレーを食べずにラーメンを食べた」のではなく「カレーもラーメンも食べた」という第3の選択をしただけのこと。そう、カレーラーメンを食べるのも同じことだ。
つまりぼくらは、ある意味では無数にある可能性を断ち続けて生きている。良い悪いではなくて、そういうもん。無数にある可能性の中から、1つを選んで生きていく。だからこそ、楽しい。だからこそ、選択に集中できる。
だからこそ、ぼくはこの選択のスピードを上げたいと思っている。どうせどれかを選ぶなら、決めない時間を長く過ごすより、決めた後の時間を過ごす方が、何となく有意義じゃないか、とぼくは考えたわけだ。
もちろん、悩んだり、迷ったりする時間が尊く、愛おしいということもあるし、そういう人もいるだろう。それは、それで全く問題ない。決めないこと、迷うこともある種の決断だ。決めないを決めているわけだ。
「ぼくはこの瞬間、何を決める?」
これを常に、自分に問う。
■トレーニングの一環として
「即断即決ゲーム」を、勝手に自分に課している。飲食店に入ってメニューを見て10秒以内に何を食べるかを決めるとか、コンビニでどのパンを買うかを2秒で決めるとか。とにかく決断のスピードを上げていく。迷えば迷うほど、断つものへの執着が増える、氣がする。だからこそ、スピード勝負で決める。
剣豪や武士は迷う余裕などなかっただろう。真剣を携えて相手と向き合った時、どう動くか、どう切り込むか、あるいはどう守るか。一瞬の迷いも許されない。それこそ、コンマ1秒で生と死が隣り合わせの世界で生きていたはずだ。
それに比べれば、ぼくの決断なんてなんてことないもんだ。直観的に「ハンバーグ!和風ソース!」と答えた後に、「あああ、しかしデミグラスも捨てがたい」と思ったところで、死ぬわけじゃない。
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