謙遜という弾幕
今回の記事は(というか、どの記事もそうなのだけれども)僕個人の実感やら直感やら、そう感じたことを元にして書く。だから、「ホントにそうなの?」とか「そうは見えないけどなー」というご意見も、ありがたく頂戴するけれど、実際に僕はそう思ったのだからしょうがない、という前提で話を進めたい。
何たるめんどくさい前置きか。でも、これは置いておきたい。
■今日、というかもう昨日になるのだけれど
氣が付いたことがある。と書くと、まるで自分で氣が付いたように見えるけれど、そうではなく、正確に言えば「氣付かせていただいた」のだけれど。
何に氣付いたかというと、「僕はずっと言い訳をしながら生きてきたのだな」ということだった。
今日(というか昨日、えーいめんどくさい)、ある場で食事を作らせてもらうことになった。僕は食べることが好きだし、美味しいものが好きだ(あまりマズいものが好き、という人には出くわしたことがないけれど)。料理も好きだし、結構人からはホメていただける。のだけれど、自分的にはそれを受け入れられていない部分もあったりする。
んで。自分のホームグラウンドではない場所で、しかも自分が意とした食材ではなく、その場にあるもので、しかも、調味料やら何やらもその場にあるもので作るという、僕としては非常に何というか、ハードというかハードルの高い状況での調理だった。
作ったのは鍋だった。味付けまでして提供しようと思ったのだけれど、どーにも味が決まらない。うーむ、と思いつつ、とりあえず逃げ道として後から味をつけられるタレと一緒に出すことにした。
んで、僕は(正確に何と言ったかは忘れたけれど)「いまいちなんだけど」と言ってその鍋を場に出した。その時、その場にいる一人がこう言った。
「美味しくないんなら、出すなよ。失礼だよ」
■この一言にハッとさせられたのである。
いや、これは全く正論である(ちなみに彼は、そう言いつつも私が作った鍋を食べ、美味しいじゃないかとも言ってくれた)。
この時、僕は、ああ、今まで僕はこうして人生に逃げ道を作りながら生きてきたのだなと思った。これはもう、良い悪いの話ではない。
確かに。美味しくない、と自分が思うものを人に提供するなんてのは失礼な話だし、そういった彼も「謙遜する必要なんてないんだよ」と後から僕に伝えてくれた。その言葉は、本当にありがたかったし、嬉しかった。食材に対しても失礼な話ではある。
僕は多分、無意識の中で「美味しくない」という弾幕を張った上で、「なんだ、美味しいじゃないか」という反応を欲しがっているのだな、ということに氣付いたのだ。それは、人生のほかのシーンにおいても、僕が長年使ってきた(姑息といえば姑息な)処世術だったとも言えるかもしれない。
■過去の自分と決別する
今すぐ、40年近く使い続けてきたその処世術をきれいさっぱり捨てる、というのは難しいかもしれない。でも、もういい加減、そういう「事前にハードルを下げる、謙遜という弾幕を張っておく」のは止めようと思った。
ともかく、止めることを意識しようと思ったのだ。
それは「自分に自信を持つこと」、「自分の判断を信じること」、「自分の人生のハンドルを自分で握ること」をやり直すことにもつながるのではないか、と考えた。
僕は今まで、自分の人生のハンドルを人に任せすぎてきたのかもしれない。自分の判断を信じられず、人の判断に頼って生きてきたのかもしれない。そういう感覚は多少ある。
今までの人生にはまったく後悔していないし、むしろ色々なことに感謝しているけれど、色々なことを考え直し、捉え直す時期に来ているのだなとも思う。実際、そういう状況にもなっているわけだし。
だからこそ、今後は自分で自分の判断を信じ、自分で選択する必要があると思う。人に相談することもあるだろうけれど、少なくとも、人に合わせて(自分の選択をせずに)行動することは止めようと思う。そのことで、人と衝突を引き起こしそうな場合には、話し合えばよい。話し合ってもダメそうな時は、自分の決断を信じるしかない。
そんなことを考えた夜であったとさ。
見えないところを上手く使う
プロが家で打ってくれたうどん。うまし。
■見えないところをどう使うか。
舞台にしろ映画にしろ(特に舞台は、かなあ)、「見えてないところを上手く使うこと」というのがコツなんだな、と最近分かってきた。いや、カンの良い人や、勉強してる人なんかに言わせれば「何をいまさら」感満載なのかもしれないけど。
わかりやすいから、舞台を例に取る。舞台は(場面転換とかをしない限り)基本的には、観客は一つの場を見続ける。例えば、誰かの家の居間だったり、学校の教室だったり。
映画『笑の大学』(脚本:三谷幸喜)は、ほとんどのシーンが取調室になってる。これは、元々舞台を映画化したからだろうと思う。『12人の優しい日本人』もまあ、そうだよね。
我々(観客)は、そこで起きること、そこで交わされる会話しか(基本的には)情報が与えられない。この場以外で起きている出来事は、想像するしかない。逆に言うと、「想像の余地がある」。
■見せないで見せる
舞台上以外で起きていることを、観客は想像するしかない。つまり、想像に委ねることができる。
例えば、舞台を核シェルターの中に設定して、「外の世界は核戦争でエラいことになってる」とすると、観客はその世界を(それぞれに)想像する。これを実際の映像で見せようとすると、結構大変。CGとか駆使しないと。だけど、人々の想像に任せればタダだ(笑)。
また、舞台上を起点に、過去や未来を描くこともできる。ここに来るまでに、その人が何をしてきたのか。ここから、どこへ行くのか。会話の中でそれを表現できれば、ドラマは「舞台上で起きていること」の枠を越える。
さらに「そのことが信用できるかできないか」という技術も使える。舞台上の登場人物が必ず真実を語るとは限らない。
一人の女性を巡って男二人が争っている設定で、男Aが女に対して「男Bはこの間、ずいぶんきれいな女性を連れて歩いてましたよ」てなことを言ったとする。
男Aのこの発言は、信用に足るのか?女を疑心暗鬼にさせるための嘘じゃないか?みたいなこともできるわけだ。
てなことに最近氣がついた。でもまあコレって、日常生活も同じことなんだよね、とは思ったけれど。
珍しく、あり得たかもしれない可能性について
■long long time ago
そう言えば昔、パン屋になりたいなあと思っていたのを思い出した。昔も昔、遥か昔だ。簡単に言えば、子どもの頃。もう30年以上前のことだ。
よく、親に連れられてパン屋に買い物に行った。別に何てことはない、フツーのパン屋だ。有機栽培の小麦を使ってる訳でもないし、イースト菌を使ってないわけでもない、ホントにフツーの街のパン屋。
ドラえもんやアンパンマンの顔を模した「ドラえもんパン」とか「アンパンマンパン」とか売ってるような、オシャレでもなんでもない、よくあるパン屋。
しかし、今にして思えば「アンパンマンパン」てややこしいね。でも「アンパンマン」を作ってくれるわけではないし、ただの「アンパン」も違うしな。ひょっとすると、そのネーミングにはパン屋なりの葛藤があったのかもね。
「オレには、Jのオジキみたいに、アンパンに命を吹き込んでアンパンマンにしてやることはできねぇ・・・。でも、オレはオレなりにアンパンマンパンに命かけてるんだ・・・!」的な(妄想)。
話が盛大にそれた。というか、これが言いたかったという説もある。
■パン屋として働くこと
とにかく。パン屋に行くと、いつもとてもいい匂いがした。パンの焼ける匂い。
その匂いを嗅いでいると、あー、ここで仕事をするってのも悪くないなあ、と思ったのを覚えている。
小麦粉をこねて、伸ばして、寝かせて、ロールパンの形に丸めたり、フランスパンの形に成形したり、場合によってはパイのように折り畳んだり。そして、また寝かせて焼く。
パン屋の朝は早い。たぶん。朝早くからパンを仕込んで、焼けたパンを店先に並べる。んで、100円だの200円だのをもらってパンを渡す。
うん。悪くない、と思った。でも今、僕はパン屋はやってない。
■原田宗典の短編集に
『優しくって少しばか』という作品がある。この作品に、「優しくて少しばか」なパン屋が出てくる(正確に言うと、パン屋について言及される)。
この原稿を書いていて、急にこの作品と、このパン屋のことを思い出した。そして私自身が、優しくて少しばかなパン屋になる人生だって、あったかもしれないんだよなぁ、と改めて思った。
別に、今こうして優しくもなく、割とバカな会社員をやっていることに、何か不満があるわけではない。ただ、そういう可能性もあったよねぇ、と思っているだけだ。
もちろん、まだ「優しくてばかなパン屋」になる可能性が無くなった訳じゃないけれど。
人生、どこで何があってどうなるか、わからないよねってことだ。例えば3年後、僕がパン屋をやっていたとしても、さほど驚くべきことでもないのかもしれない。
とにかく。この短編集はとても良いので、みんな読むと良いと思う。作者の原田宗典は、作家の原田マハの実兄(豆知識)。
じゃまた。
日々どんな気持ちで生きていくか
■いつ死んでもいいなあと思いながら生きる
大げさでも何でもなく、いつ死んでも良いなあ、と思っております、また、そのような心持ちでいつも居たいなあと思っています。
ちょっと説明が足りないかもしれないのですが、別に「今すぐに死にたい」と思っているわけではありません。「いつ死んでも良いなあ」です。例えば、それが今であっても、全く構わない、ということでして。
例えて言うならば、アレです。「西の森の神様が大変お怒りで、生贄をよこせって言ってるんですけど、どうしましょ」的、RPGとか昔話とかに出てくる話って、あるじゃないですか。そんな時に「ハイっ!」と元気よく右手(利き手)を挙げられる人でありたいなあと思っているのです。
それだけ、今の瞬間を全力で生きましょうと。過去に執着することなく、未来に未練を残すことなく、今がエンディングでも、結構な人生でしたと言える人生を送りたいなと。
今のところ、良い感じです。例えば今、死神氏が「迎えにきたで」と言ったとしても、「さよか」とあっさり、納得してさようならできる氣がする。
とはいえ、例えば、仔犬が車に轢かれそうになっているときにパッと一歩が出るかどうか、というと、今のところ自信がない。それはもちろん、反射神経の問題もあるけれど(ほっとけ)、大事なところで「足がすくむ」ことはあると思う。
そういう時に、どれだけパッと足が出るか。仔犬を歩道に逃がして、自分が轢かれるとしても、そこの恐れを手放して車道に飛び込めるか。それができないと、ただの口だけの人になってしまうわけで、それはちょっとなあ、と思う。
何というか、こう、大切なもの、大切な人のために命を投げ出すことができる、というと、どーも戦時中の教育を思い起こさせるのですが、まあ、そういう意識も決して悪いばっかりじゃないよね、とは思うのです。
わし流映画鑑賞録『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』
アメリカ版のポスターだって。
■今回も元気にネタバレします。
見てない人も多いだろうから、まずはあらすじ。
簡単に言うと、奥さんの父親がやってる投資会社に勤めてるエリートのデイヴィスが、奥さんを交通事故で亡くす。
奥さんを亡くしても哀しくない。あれ、オレ、奥さん愛してなかったんだ、と思うデイヴィス。
そして(なんか知らんけど)色んなものをぶち壊したくなって(実際にぶち壊して)、ひょんなこと(ホントに「ひょんなこと」だ)から知り合った女(しかもシングルマザーの彼氏持ち)とデキて、自分の生活や義理の両親(義理の父は仕事上のボスなのに!)との関係もぶち壊しかける。
最終的に、デイヴィスは自分が住んでいた家、彼曰く「結婚生活」を破壊しにかかる。そこで、彼はショッキングな物をみつけるのだけれど、それは後で話す。
そうして、破壊し尽くそうとした先に、何があったのか・・・というお話。
■邦題が、なあ。良いんだけども
評価が難しい。原題は「Demolition」。「破壊」とか「打破」という意味らしい。その方が確かに、意味は合ってる。
でも、邦題が「破壊」なんて映画観る?観ないよね。「デモリション」だと、「デモリションマン」とワケわかんなくなりそうだし。
かと言って、邦題のちょっとロマンチックな感じで見始めると、途中まで「なんじゃこりゃ」感が強いワケ。だってホントのタイトルは「破壊」または「打破」なんだもの。
映画の中盤くらいまでは、とにかく物を壊しまくる。破壊衝動なんですかね。しかも、その理由は明らかにはされない。
■くそ映画認定寸前・・・
正直に白状すると、僕は途中まで「くそ映画」の認定をしかけていた。単に、僕の好みではない、ということだけれども。
このまんま、「ハイ、奥さんとの間には愛はなかったけど、色々ぶち壊した結果、真実の愛を見つけたよね~テッテレー」とかなったら、ホントにくそ映画認定しようと思ってた。
しかし。そこは「ダラス・バイヤーズ・クラブ」のジャン・マルク・ヴァレ。きっちりひっくり返してきた。
■この一言のための90分近い前振り
破壊しまくって、しまくって。そして「結婚生活」を破壊中、実は奥さんには愛人がいて、しかもソイツの子を妊娠(中絶)していたことも分かる。しかも義母からは「生めば良かったのに!」とまで言われるデイヴィス。やれやれ。
失意の中、デイヴィスはある人物と出会い、そしてある場所である物を見つける。そして、あることを悟る。
その後、デイヴィスは(しかも、義父に向けて)「愛はありました。おろそかにしていただけで」と話す。そして義父と共に、ある計画を実行する。
あのね。もう、このラストを見せられたら、くそ映画とは言えない。壮大な前振りからの、エンディングへなだれ込む感じ。うん。嫌いじゃない。というか、知らないうちに泣いてた。
色んなものをぶち壊し、ぶち壊して、やっとこさそこにあったものに気付く。そして、再生する。
その姿を描くために、この監督と脚本家は映画の大半を「前振り」である「破壊」に費やした。その割り切り、思い切りには感心する。
万人受けする映画かどうかはわからない。ただ、「自分がくそみたいな男だ」という自覚のある人は、観ると良い。たぶん、少し救われる。なぜなら、僕がそうだから。
自分のライフステージと微妙に重なるところがあって、思わず涙してしまった。決して分かりやすい映画ではないし、ホントに終盤までは「オイオイ」感がスゴイので(ただ、それだけに終盤の畳みかけがゴッツリ来る)、我慢強い人にはおススメ。あと、倦怠期のカップルで観ると良いかもしれない。
ちなみに、奥さんが亡くなったのに哀しくない男が再生する・・・と言えば『永い言い訳』という名作(オレ評)がある。その類似性や相違点についても話したいところなんだけども、それは今度会ったときに話す!
僕にとっての「働くこと」
最近、僕が敬愛している書き手の一人に田中泰延という人がいる。元関西電通のコピーライター(らしい)で、今は辞めてコラムニストというか文筆家というか、本人は「青年失業家」と名乗ってる。しかし、青年て何歳くらいまでかね。別に良いけど。
んで、この田中さん(ヒロノブさん)が、こんなコラムを書いていた。僕はこのコラムを読んで、激しく感動というか、心を動かされた。
■君のクライアントは誰か
このコラム、刺さりポイントがいくつかあってアレなんだけども、特に刺さったのがこの一言。ヒロノブさんが在りし日の父から掛けられた言葉だそうで。
君を働かせるのは、君自身であるべきだ。お前のクライアントは、お前だ
おおう。
会社のために働くことも大切だけれど、それ以上に大切なのは、自分のために、あるいは「自分が見たい世界のために」働くこと。そこまでは書いてないけれど、僕はそう読んだ。
僕の中では「働くこと」は「お金を稼ぐこと」よりも「自分の力を社会のために生かすこと」であり、「その結果、自分が見たい世界に近づくこと」だと考えている、というか、この文章を書いていて氣がついた(笑)。
「自分の力を社会のために生かすこと」ができれば、当然ながら何らかの報酬が得られる。だって、社会のためになってるんだから。まあ、ひょっとすると、直接そのことで収入が得られる訳ではないかもしれないけれど。
■ヒロノブ父は、こうも説く
「ひとりになれ。ひとりで考えよ。そのひとりの時間に、爪を研ぎ牙を磨きなさい。そうすれば必ず道は拓ける」
仲間が助けてくれる、コミュニティーがあるから生きていける。もちろん、そういう考え方もあるし、それは否定しない。というか、それとこの「ひとりになれ」というのは、両立するんだろう。
ひとりの時間を大切にして、充実させられなければ、みんなといる時間が有意義になることはない。僕はそう思う。
何度も言うが、ヒロノブさんもヒロノブ父も、こんなことは全く書いてない。僕が勝手に思ってるだけだ。
さて。僕なら、今の自分に何を発注するだろうか。どうやって、爪を研ぎ、牙を磨くだろうか。そんなことを考えている。
My life is my message
■何を言うかよりも誰が言うか
時に、「何を言うか」より「誰が言うか」が重要なことがある。「時に」と書いたけれど、ひょっとすると7~8割そうかもしれない。
例えば、孫正義が放ったとされる「(私の)髪の毛が後退しているのではない。私が前進しているのだ」という言葉。
これ、そのへんのただのハゲたおっさんが言っても、響かない(と思う)。実際に(良い悪い、好き嫌いは置いておいて)前進し続けている孫正義が言うから、すげーってなる。
ついでに言うと、そのことをその人が最初に言ったかどうかも、実はあんまり重要ではない感じもする。誰かが言った言葉を引用しても、その引用した人の方がインパクトが強いと、その人が言った言葉みたいになる、こともあるんじゃないか。例は出せないけど。
■その人にはその人なりの
と。ここまで読むと「すると何か?エライヒトやスゴイヒト以外は何か言っちゃダメなのか?」と思う人がいるかもしれない。ちょっと待ってくれ。そうは言ってない。むしろ逆だ。
そのへんのおっさん(という言い方がアレだけども)には、そのおっさんにしか言えないことがある。もっと言えば、そのおっさんは黙ってるだけで、何かを人に伝えているかもしれない。
大切なのは、何を言うかではない。どうあるか、なんじゃないかと思うわけだ。
とまあ、こんなことを書くと冒頭に書いたこと(誰が言うかが重要、というヤツ)がブーメランのように僕の後頭部に刺さるわけなんだけれども。ともかく。流血しながらも続ける。
■いかにあるかを追求したい
「いかにあるか」、つまり「どういう人生を生きるか」。コレに関しては、僕はまたまだ精進しなきゃなあ、と思う。人にとやかく、あれこれ言える立場にはない。
ただ、ともかく、自分が言いと思う、アリだと思う生き方をしていきたいなぁ、自分で見て恥ずかしくない、カッコいいと思える選択をしたいなと。
それが(言葉か、行動かはわからんけど)、どこかで誰かに何かを伝えられれば、それで十分じゃないの。僕はそう思っています。