何者でもない自分を生きる
「ありのままで生きる覚悟」なーんて記事を書いておきながら、ここ最近のぼくは「何者かにならなくてはいけない」という、自分で作ったルールの中で苦しんでいたことに氣付いた。
ぼくらは多かれ少なかれ、幼少期から「何者か」であることを要求される。子どもの頃は、いい子であること。あるいは、お兄ちゃん、お姉ちゃん。学校に入っても、やはりそこにはある程度「何者か」であることを求められるプレッシャーがある。
高校生になり、人によっては大学生になり、「そういう立ち位置」みたいなものを要求される。もちろん、それに応えるも応えないも自由だけれど、人はその社会の中で、役割や何やらを当然のように要求される。
物わかりの良い先輩、あるいは従順な後輩。会社に入れば、やる氣に満ちた新入社員や、仕事のできる若手社員、優秀な中間管理職、課長、部長、取締役。それぞれのステージに合わせて、それぞれに役割を果たすことを求められる。
そして、人々の多くはその役割になることを自ら志願する。
これは、人間関係においてもそうだ。
彼氏・彼女という関係性、結婚すれば夫であり妻であり、父、母としてのある一定の役割みたいなものを(多くは周りから)渡される。
でも、敢えて言おう。そんなもんは幻想である。
あなたはあなたであって、「〇〇株式会社の係長」でもなければ、「〇〇くんのお父さん」でもないし、「〇〇さんの旦那さん」でもない。いや、もちろんそうなのだけれど、それはあなたが果たすべき絶対的な役割ではない。
もう少し簡単に言えば、「良き会社人」、「良き父」、「良き夫」である必要など、これっぽっちもない。もちろん、女性にも同じことが言える。
ぼくはついつい、「社会的に(あるいは世間的に)正しい〇〇像」に自分を当てはめようとしていた。あるいはその役職になったら、そういう役割を果たすものだと思い込んでいる。あるいは、そうでなければ、その役割を果たしてはいけないと思っていた節がある。
例えば、課長でもないのに部下の相談には乗ってはいけないし、会議でしゃしゃり出て自分の意見など言うべきではない。彼氏でもないのに、女性に優しい言葉などかけてはいけない。その子の父親でもないのに、その子を叱ってはいけない、エトセトラエトセトラ。
でもね、ぼくはもうそれを全て捨てることにした。
ぼくはぼくのままで生きる。
〇自分の良い状態をキープし続ける
結婚生活をしている間(ぼくは14年ほど結婚生活をしていて、去年の4月に離婚した。ハイホー)、ぼくは無意識「いい夫」であろうとしていたと思う。元・奥さん(現・親友)がどう思っていたかは知らないが、それを勝手に演じていたようにも思う。
離婚してからこっちは、「良い彼氏」になろうと必死のパッチで努力していたと思う。物わかりが良くて、優しくて、彼女の言うことは何でも聞いて、配慮が出来て、経済力があって。
まあ、言ってみれば他人の顔色を伺って生きていたのかもしれない。
でも、いまは「違うな」と思っている。ぼくがぼくであり続けること以外、ぼくに求められていることなどないと、いまは思っている。
ぼくは物忘れがひどくて、気配りや配慮が欠けることがあって。その割には大切な人に対してあーだこーだと口うるさく意見したりして、時にそれで自己嫌悪に陥ったりして。その割に人から何か言われるのは嫌いで。
だけど、人に対して愛情があったり、周りの人や仲間を大切に想っていたり、自然が好きだったり、人に喜んでもらうのが好きだったりすることに、偽りはない。
だから、そのぼくがぼくであり続ける、自分の氣分が良い状態をキープし続けることこそが、ぼくに課せられたテーマなんだろうと思っている。
〇自分を生きることに全力投球
このことは、皆さんにも言えることだと思う。あなたは社会的に言われる「仕事ができる課長(部長)」でなくて良いし、「良き父(母)」でなくていい。「物わかりのいい先輩」でなくても良いし、「優しい彼氏(彼女)」でなくてもいい。
もういい加減、誰かのために自分を犠牲にする(あるいは、そういうふりをする)のはやめにしませんか、という提案である。
たとえ、仕事ばっかりで家庭を顧みることがなくても、自分の好き勝手に生きていたとしても、彼女のご機嫌を取らなくても、仕事が出来なくても、あなたはあなたの「ありのまま」を生きるのが、みんなにとってベストなのである。
よく「子どものために・・・」とか言っちゃうけれど、ぼくはそれも疑っている。あなたがあなたを120%全力で生き切る以上に、子どもたちにいい影響を与えることなんてないと思う。「子どもとは一緒にいないと」とか「ごはんは作って食べさせないと」とか、ホントかね?とぼくは思う。
もちろん、そうしたければ、そうすりゃいい。反論もあっていいし、ぼくの意見が絶対だとは思わない。ただ、それを「あなたがしたいからしている」という自覚だけは忘れないでほしい。「子どものために、ぼく(私)が犠牲になって」みたいなことは、子どもに迷惑だ。
ぼくが子どもなら、親が自分の好きなこと、やりたいことに全力投球している姿を見ている方が、よほど氣分がいい。たとえ、自分と一緒にいる時間が短かったとしても、そこには凝縮された時間が残るはずだ。
一番わかりやすいから「子ども」を挙げたけれど、ここには「妻(夫)」でも「部下(上司・会社)」でも、何でも当てはまる。あなたが、誰かのために犠牲になる必要なんてこれっぽっちもない。厳しい言い方をすれば、それはあなたが選んでいることだ。
もう一度言う。「誰かのために」、「何かのために」なんて幻想だ。
ぼくらはぼくらを120%全力で生きる。それだけが、ぼくらに渡された命の使い方だ。それこそが、周りのみんなを幸せにする。ぼくはそう感じている。
とはいえ、社会の声や、周りの声を聞くと、そう思いきれないこともあるだろう。そんなときは、同じように考える仲間を探すといい。「それでいいんだよ」と完全に許容してくれる人を見つけるといい。
周りに誰もいなければ、ぼくが言おう。大丈夫。あなたはあなたを生きてください。それこそが、みんなにとって完全に良いこと。応援しています。
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