ありのままで生きる「覚悟」

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「ありのーままのーすがたみせーるのよー」


ANAJALの全面抗争・・・もとい、『アナと雪の女王』の主題歌『Let it go』の和訳歌詞である。実は、ぼくはこの『アナと雪の女王』を観たことがないし、いまのところ観る予定もない(別に避けているわけではないんだけれど)。


なのに、(ブームから遠く離れた今のタイミングで)急になぜこのフレーズを引っ張り出してきたかというと、これってすごいことだよねと最近氣付いたからである。


ま、英語の歌詞だと「ありのままの姿を見せる」というよりは「もう手放したら」(Let it go)といったニュアンスみたいなんだけど(解説してくれてる人がいる。感謝)。それはともかく。


Let it goは「ありのまま」じゃない?/「日刊英語ライフ」

https://kiwi-english.net/1408


「ありのままの姿を見せる」。うん。簡単じゃないか。テレビを見ながらポテチをつまみ、ケツをポリポリかいている姿を見せれば良いんだろう?と思うかもしれないけれど、そういうことじゃない(たぶん)。


実はぼくらにとって、「ありのままの姿を見せる」というのは、非常に怖いことなんじゃないか、と思っている。特に、ぼく自身に限って言えば、このことをとても怖がっていたことに氣付かされた。


○「ありのまま」はこわい

「なんや、ありのままがこわいんやったら、キリギリスのパパはどないなんねん。ガハハ」というバリの兄貴(丸尾隆俊さん)の ダミ声が聞えてきそうだけれども、それはともかく。


ある友人とお話しているとき、「自分の魅力そのままで生きなさい」というメッセージをいただいた。言葉尻やニュアンスは少し違ってるかもしれないけれど、ぼくはそのように受け取った。


同時に「自分の魅力全開で生きる、その覚悟を決めなさい」という趣旨のメッセージも。現状は「ナスなのに、『自分、キュウリとして全然ダメなんす』と言ってるようなもん」だと(笑)


これを聞いて、ぼくはそもそも、ぼく自身そのままの魅力に氣付いていない可能性があるなと思った。

 

そもそも、自分がナスなのか、キュウリなのか、ズッキーニなのか、はたまたかりんとうなのかがわかっていないと、自分の魅力全開で生きることなどおぼつかない。


で、その裏側には「ありのままを出すのは怖い」という氣持ちがあった(らしい)ことがわかった。


ぼくらは、多かれ少なかれ、長所を伸ばすと同時に短所を埋める努力をしてきたし、している。ぼくは比較的短所を捨ててきた人間なのだけれど(例えば、数学や理科、計算や数字やスケジュール管理は大の苦手である)、それでも。


意識的にか無意識でかはわからないのだけれど、ぼくは「こういう人にならないといけない」あるいは「こういう人になるべきである」という、理想像みたいなものを自分の中で勝手に持っていた氣がする。

 

裏を返すと「こういう人は好かれる」、もう一歩踏み込めば「こういう人でないと好かれない」という意識があったのかもしれない。


もちろん、自分が理想とする姿、自分がありたい姿を描いてそこに向かうのは素晴らしいことだし、別に止める必要もないと思うけれど、ただ、ナスはキュウリにはなれない、というか、ナスはナスとしての魅力を輝かせた方が良い。


実は、そのあたりも指摘してもらった点ではある。自分自身は既に良いもの、良いところがたくさんあって、それを認めればいい。そんなメッセージをもらった。


いや、そりゃそうなんだけど、というブレーキを踏んでしまっていたのは「それが受け入れられなかったら、ありのままを出したとき、嫌われたらどうしよう」という強迫観念だったらしい。


○特徴を出して生きる覚悟

だからこそ、「覚悟」が必要になる。自分が自分を認めて、そのままの魅力で生きたとき、受け入れられることも、受け入れられないこともある。たぶん、両方ある。その両方を受け止める覚悟を決める。それが必要だろうと、いま思っている。


ぼくらはついつい八方美人というか、全方位的に80点くらいを目指す傾向にある。少なくともぼくはそうだ。

 

ただ、それは「ありのままの魅力全開で生きている」のとは違う。「ありのまま生きたら、全方位的にそこそこ好かれる人だった」なら良いけれど、ぼくの場合はそうではないと思う。


これは、あくまでもぼくの実感でしかないけれど、ぼくに限った話ではないと感じている。


あなたがあなたのままで良い、的なメッセージは巷に溢れているけれど、そのことは決して易しいことでも、簡単なことでもない。あなたがありのままで生き始めた結果、あなたから離れていく人だっているかもしれない。それを認め、受け取った上で、選択することじゃないかとぼくは思っている。


特徴のはっきりしているものは、アンチがいても熱狂的なファンがそれ以上に多い。パクチーの香りがもっと控えめであったなら、これほどパクチーが好きという人がいただろうか。世界一クサいフルーツと言われるドリアンも、熱狂的に好きな人がいる。


特徴を出せば出すだけ、その特徴、魅力に惹かれる人が集まる。その方が、お互いに心地良いんじゃない?

 

 

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