20170110_街全体が「僕んち」という考え方
Photo by Chisako Abe
■大掃除をしている(季節外れ)
うちの奥さんが、部屋の大掃除をしている。数日前から片付けを始めている。大変結構なことだと思いつつ、片が付くまで、要するに終わるまでは、まあ、部屋の中がカオスな状態になる。これはもう、ある程度は仕方がないことだ、とあきらめている。
それにしても、どうしてこんなに「コレ、何だっけ?」と思うものが、家の中から出てくるのか、不思議で仕方がない。自分で買った、あるいはもらってきた記憶があるものならまだしも「これはいつ、どこで、どのように入手したものだろうか?」というモノすらある。しかも、家の中に。
あと、「どうしてコレを保管していたのか?」と思うものもある。どこでもらってきたのか、あるいは、どういう経緯で入手したのかも分かることは分かるけれど、「どうして今日の今日まで保管し続けてきたのか?」が全くわからないものも、結構ある。
例えば、映画のチラシなんかがそうだ。パンフレットですらなく、ただのチラシ。見に行こう、と思ったのか、あるいは興味本位で取っておいただけなのかが良くわからないのだが、そういう紙ごみが結構出る。まあ、僕も奥さんも「モノを捨てるのが苦手なタイプ」なので、溜め込み癖があることは間違いないのだけれど。それにしても。
■手放す勇気
どうしてこんなことを(しかも年末ではなくて、年明けの今頃)やっているのかというと、まあ、簡単に言えば部屋が手狭になってきたから、だ。
今までは、そういう「何年か使わなかったもの」を溜め込んでいても、まだまあ何とか居住空間がキープできていたのだけれど、諸事情で、そう悠長なことが言っていられなくなってきた。スペースを圧迫するものは、できる限り処分しよう。そういう話し合いの結果、大掃除というか、大片付けというか、そんなことをおっぱじめたのである。
この大片付けの一環として、僕はそこそこの量の本を手放すことにした。一度読んだ本をもう一度手に取る機会は、ここのところ激減していたから、別に構わないのだけれど、これは、誰が何と言おうと、僕にとっては大きな心境の変化である。
■何もかも自分で持たなくてよい生活
以前の僕ならば、再度手に取るかどうかも分からない本でも、手放すのには抵抗があった。というか、「手放していい本」と「手放さない本」を仕分けしたら、2:8くらいの割合にしかならなかったと思う。今回は、かなりの量の本を手放すことにした。
これは、自分が「何もかも、自分で持っていなくても良いんじゃないか」という心境になったことが大きい。実際、僕が持っていた本の多くは文庫がほとんどで、しかも別に入手困難というわけでもないものばかりだった。図書館で借りることもできるだろうし、その氣になれば本屋で再び入手できるものばかりだった。
この「また読みたくなったら、図書館で借りれば良いや」と思えるようになったのは、とても大きな心境の変化だと言える。
要するに、自分ですべて持っている必要がない、という境地に至ったのである。必要があれば、どこかから調達してくればいい。僕は車も持っておらず、カーシェアリングのサービスを利用しているけれど、その感覚に近い、かもしれない。
自分が使いたいものは、何でもかんでも自分で持っていなくてはいけない、という時代は、もう終わったと思う。少なくとも、僕の中では。
■ミニマル・ライフ、というよりも。
「これがミニマル・ライフや!」と、ドヤ顔するつもりは毛頭ない。そもそも、僕はまだまだ荷物を持ち過ぎている。それに、自分で持たない生活というのは、裏を返せばミニマルではなくて、広がっているんだという考え方だってできる。
僕の中では、図書館は僕の書斎だし、書庫でもある。読みたい本をオーダーしておけば、区内の図書館にある蔵書をピックアップして、取り置きしておいてくれる。品揃えは悪いけれど、CDだって借りられる。
コーヒーが飲みたければ、近所のカフェに行けば良い。さすがに、コーヒーメーカーを捨ててしまう勇気はまだないけれども。歩くか、自転車に乗って行ける映画館だって、たくさんある。
このように、僕の中では街全体が「僕の家」なわけだ。ミニマルと言えばミニマルかもしれないけれど、とても贅沢、という考え方だってできる。