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自分の判断基準で生きる修行


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(ほおずき市。「ほおずり市」だったら嫌だなあと、いつも思う)
 

誰が何と言おうと私の人生は私が生きていて、「自分がどうしたいか」以外の判断基準は有り得ないということが、最近ようやく実感を伴って理解できてきました。

 
普通に考えると、当たり前です。でも、意外とそうでもないんです。特に私にとっては。以前の私は、今以上に「世間的にどうか」、「人としてどうか」みたいなことを気にしていたし、しかもそれを人に要求していました。
 
ライトなところで例を出せば、「電車の中で電話をすべきではない」、「人との約束は守るべきだ」、 「食事中にケータイをいじるべきではない」とかとか。
 
でも、最近は「自分がどうしたいか」、「自分が(相手に)どうしてほしいか」の両面から考えるようになりました。例えば、電車の中で電話をしてる人がいる。自分がその人に「電話を止めてほしい」か、そして「自分が相手に要求しないと我慢ならないレベルか」と。
 
人は、たいてい怒りたいから怒っている。と、ある本で読みました。「あなたの為を思って怒る」とか言うけど、ほとんどは自分が怒りたい。確かにそうかもしれない。でも、そのことに本人が気付いていない。そう。それが以前の僕です(笑)。
 
これは、いろんなことに広がります。僕も昔は愚痴っぽい人でした。世の中を斜めに見て、あれが悪い、これが悪いとグチグチ言っていました。これだって、実は愚痴りたいから愚痴ってるだけ。「自分はどうしたいか?」に立ち戻ると、「自分ができること、やりたいことをやる」という発想になって、愚痴る意味もヒマもなくなる。
 
「あの人のココが気にくわない」みたいなことも、昔は良く言ってました。今もゼロではないですが、減ったと思います。人に対して「腹立つ」と思ったら、「じゃあ、その人にどうなってほしい?」、「その人に対して、自分はどうしたい?」と、自分に問うてみる。すると、答えは色々返ってくるわけです。
 
その人に直接自分が思ったことを伝える、その人に影響力がある人に話す、それとなくほのめかす。逆に距離を置く、あるいは表面的に合わせる。とりあえず静観する、というのもあります。要は「自分がどうしたいか」だけ。
 
会社の愚痴を言うのも一緒で。極論、その会社で働き続けたいか、続けたくないか、だけ。「経済的な理由で」あるいは「責任があるから」辞められない、というのは、厳しい表現をすれば、自分がそうしたいと選んでるのに人のせい(あるいは会社のせい、社会のせい)にしてるだけだと思ったのです。
 
例えば、仕事が面白くない時。「それでも、給料がもらえるから続ける」なのか、「面白くないから辞める」のか、「面白くなるように自分が動く」のか。要は全て、自分がどうしたいかに跳ね返ってくる。
 
私は今まさに修行中で、ついつい人のせい、仕組みのせい、世の中のせいにして生きてきました。だから、最近は「自分がどうしたいか?」を考えて行動するように心掛けています。自分の人生を自分の判断基準で生きようとしている。
 
むろん、人に合わせることもあります。常識人ですから(笑)。でも「こうするのが決まりだから」とか「こう言われてるから」は卒業します。判断基準を人に委ねていると、何かあった時に「やっぱり。ああすれば良かった」という後悔が残るし、「アイツの言うことを聞いたから、こうなった」とまた愚痴が出る。「自分の信条や要求とは違うけれど、今はコレを選択する」と考えれば、失敗しても納得できる。「ま、自分で決めたことだから」と思える。
 
関連して言うと「普通」も止めようと。「○○するのが普通でしょ?」とか、以前は良く言ってました。でも、普通って何だよと。自分はどこにいるんだよと。今は思います。つい最近まで、気付かなかったけど。
 
これがなかなか、難しい(笑)。今まで他人や社会常識に判断を委ねてきたから、いざ「どうしたい?自分?」となった時、戸惑う。
 
「ホントはこうしたいけど、こうした方がイイよね?場の空気的に(世の中的に/僕のキャラ的に)」みたいなシーンにちょくちょく出くわすのです。でも、それもまた新鮮で楽しい。
 
なので、もし、昔とくらべて僕が変わったとするならば、そんなところに原因があるのかもしれません。
 
今日も読んで下さってありがとうございます。皆さんの反応が素直に嬉しいです。これも、僕が皆さんに本当にお礼が言いたいから、ここに書いてるわけです。ありがとう。これからもよろしくちゃん。