終わりの始まりと始まりと


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今回は、ごくごく個人的かつ抽象度の高いブログになることを、あらかじめお詫びしたい。

 

ごめんちゃい。

 

終わりの始まり

すべての物事は、始まった時点から終わりに向かって一直線に進んでいく。

 

たとえ、それが永遠に続くように感じたとしても、いつか来る終わりに向かって進む。

 

そしてそれは、決して悲しいことではなく、自然なことなんだと、まずは書く。

 

別れを伴わない出会いはないし、壊れないものはない。生まれ変わりを信じたとしても、死なない生物はこの世にはない。

 

良いも悪いもなく、そういうもんだとぼくは思っている。

 

ぼくはこの数日間で、その終わりを改めて感じることができた。

 

そのことを、ぼくは祝福する。

 

そしてそれは、言い換えると「終わり」が始まった、とも言える。

 

そして始まり

ぼくは長いこと、何か自分が手に入れたいもの、得たいものが得られなかったとき、意固地になってきたのだなとわかった。

 

そこから極端に離れてみたり、そこにこだわってみたり、そのことを意図的に見ないようにしてみたりしてきた。

 

それによって、得られたもの、こともたくさんある。そうでなければ今のぼくはないわけで、そのことに関しては本当に感謝している。

 

エス。それは、今までのぼくには必要なことだったのだ。

 

でも、それが終わりを迎え始めている。完全に終わった、とは、まだ言えない。ただ、終わりが始まったことだけは間違いない。

 

次へ

ぼくが意固地になってきたものは、すべからく、ぼくにとって大切なものだったし、大切にしたいものだった。

 

でももう、意固地になるのは笑顔で手放そう。ぼくはぼくの新しい役割、新しい生き方のために、始まりをこそ始める。

 

今はまだ、ぎこちない笑顔かもしれない。作り笑いかもしれない。

 

でも、笑う。

 

それでこそ、ぼくはぼくの新しい始まりを始めることができるはずだから、だ。

 

本当は、すでに、もうとっくの昔に終わっていたことを、改めて終わらせる。そして、次へ進む。

 

ぼくのもとに届いているメッセージは、「次へ」だ。

 

次のステップへ。次のフェーズへ。敢えて言うなら、次の次元へ。次の自分へ。

 

さよなら、君の声を抱いて歩いていく

 

スピッツの「楓」のワンフレーズだ。

 

ここで言う「君」とは、ぼくの場合、恐らくは過去の自分自身なんだろう。

 

さよならが言えることを、今日は祝福しよう。

 

きっと、もう二度と会うことのない君へ。

 

ありがとうね。

 

さよなら。

 

こんな訳のわからんブログでも、どこかの誰かのお役に立てたら、と思ってます。

 

意固地になってもいい。

 

握りしめてもいい。

 

今は、それでいい。

 

いつかは笑顔でありがとう、さよならと言える日が必ず来るからね。

 

怒ってもいい。むしろ怒れ

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なんかこう、ちょっと前から「むー」と思っていたことが、何となくクリアになったので書く。

 

「むー」と言っても、オカルト系雑誌のアレではないことは特記しておく。

 

〇怒ってもいいんだよ

「怒ってはいけない」、「明るくなくてはいけない」みたいな、ネガティブ排除みたいな考え方に時折出会う。ぼくはこれに超絶違和感を覚える。

 

怒りや悲しみなど、一般的にネガティブと言われている思考は、「出さない方が良い」とされる。

 

でも、ほんとは感情に「ポジティブ」も「ネガティブ」も、良いも悪いもない。ただ、そういう感情があるだけ、なはずだ。

 

腹立つときは腹立つし、悲しいときは悲しい。それにフタをするのは、(あくまで個人的な意見だが)違うんじゃないか?と思う。

 

例えば、おならが出そうなとき。我慢して、良い感じでおなら意(「尿意」的な感じで読んでほしい)がなくなったとしても、お腹の中のガスはたぶん解決していない。それはいつか、別の形で放出されるだけだ。

 

同じことが、怒りにも言える。その場はグッとこらえたとしても、たぶん別のどこかでどかーんと暴発する。

 

悪いことは言わない。怒りが湧いたときは、しっかり怒った方が良いし、悲しいときは思い切り悲しがった方が良い。

 

そうでないと、その感情が腐る。その感情がどこかで歪んで、おかしなことになる。隠しても仕方がないから言うが、ぼくがそうだったからだ。

 

ぼくの場合、怒りや悲しみを押し殺した結果、自分の中で解消しきれない感情として残ってしまった。

 

これを解決するのは、けっこう大変である(いや、実際大変だったのである)。

 

であるならば、怒りも悲しみも、湧いた瞬間に出し尽くした方が良い。ぼくは、今はそう思っている。

 

〇感情が出てきたら、自分に問う

では、怒りや悲しみが出てきたら、どうするか。

 

「この感情を持ち続けたいか?」と、自分に問うとよい。

 

これは楽読の創業者、ナナちゃんこと平井ナナエさんから教えてもらった方法である。

 

「持ち続けたいか?」という問うと、自分の本当の希望が見えてくる。

 

「怒り続けたくはない」のなら、怒りを手放せばいいし、「怒り続けたい」というケースだってあるはずだ。「今はまだ、悲しんでいたい」ということも。

 

それはそれで、悪いことじゃない。

 

自分の感情にフタをして、社会や外の世界に過度に適合するよりも、自分の感情をきちんと味わい尽くす。

 

その方が、今世を生きる僕たちにとっては大切なことなのだ。

 

さらに「このエネルギーをどう使いたい?」と問う。すると、例えば、怒りを覚えた相手にぶつけるのではなく、違った何かにぶつけたいと思うこともあるのだ。

 

怒りはモノすごいエネルギーを発する。誰かに怒りを覚えたとき、それを怒りを覚えた
相手にぶつけるのではなく、その状況を打破したり、問題を解決するためにぶつけるという使い方もある。

 

Aさんと、仕事の進め方で言い合いになる。

Aさん、がっぺムカつく

が、こういう仕事の進め方になってることを解消すべく、怒りをぶつける

 

みたいな流れである。

 

怒りにフタをしてしまうと、エネルギーすらも押し殺してしまうことになる。それはそれで、もったいない。

 

怒りのエネルギーを爆発させて、それを原動力に仕事を前に進める、なーんてこともできるのに。

 

怒りや悲しみが全部悪いわけじゃない。むしろ、感情は必要だからこそ、ぼくらの胸に届いてくる。

 

怒ってもいい。いやむしろ怒れ。

 

怒って怒って怒りまくって、自分の人生で成し遂げたいことにぶつけ続ける。

 

変に悟ったような顔をして「ぼくは怒りません」てな顔をして自分の感情を抑えるよりも、怒って怒って、怒りまくってでも、人生を前進させていく。

 

そんな生き方をしたいなとぼくは思う。

 

あ、別に怒ってるわけではないです、今は。

 


獣神サンダー・ライガー テーマ曲 − 怒りの獣神

 

意味なく、ぼくが大好きな獣神サンダー・ライガーのテーマ曲貼っときますね。

 

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自分が忘れていた「自分」と再会する


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そういえば、ぼくは目立ちたがり屋だったんである。

 

忘れかけていたし、ずいぶん長いこと、目立たないようにしてきたのだけれど。本質は目立ちたい人だったのである。それを思い出した。

 

それを思い出したのは、友だちの大ちゃん(磯部大輔氏)のカウンセリングを受けてきたのがきっかけである。

 

〇心屋カウンセリング×固める反射統合ワークとは

大ちゃんがやってる「心屋カウンセリング×固める反射統合ワーク」を受けてきた感想を書く。

 

「心屋」というのは、心屋仁之助さんのこと。心屋さんが提供?開発?したカウンセリングメソッドを使って、大ちゃんがカウンセリングをしてくれるわけだ。

 

なんだけど、その全容をうまく説明はできないから、詳しくはここ↓↓を読んでくれ。

ameblo.jp

 

話はセッションの中身に入っていく。

 

カウンセリング(セッション)は、とても落ち着いた雰囲気で進む。

 

ぼくらが心理カウンセリング、と聞いてイメージするような、白衣を着たおっさんが糸のついた五円玉を目の前でブラブラさせて「あなたは眠くなる」的なことをするわけではない(これは催眠術か)。

 

または、何か幼少期にあった怖いこと、子どもの頃のトラウマを引っ張り出してきて「これがあなたの不安の原因です(ばばーん)みたいなこともしない。

 

話したければ、話せばいいし、話したくなければ、大丈夫。そういうスタンスで進めてくれる。だから、安心して自分の目の前の課題やテーマを直視できると思う。しかも、決して重たくなく。実にフラットに。

 

ぼく自身のセッション内容はあまり大っぴらにしないけれど、ぼくはどうやら「自分で何でもやらなければならない」と思っていたらしい、ということにまず氣が付いた。ほほう。そんなつもりはなかったのだけれど。

 

あれも、これも、それも、自分がやらなければならない。自分でやるべきものだと思っていたフシがある。これは、今回のセッションで改めて思ったけれど、確かにある。

 

全て自分で「出来てたか」といえば、そうではない。ただ、そうあるべきだと思い込んでいたのは事実。そこに氣付いただけでも、儲けものである。

 

〇目の前の問題はダミー

このセッションでは、目の前で起きている問題は、実は真の問題ではなくダミーだという考え方をするらしい。確かに、出来事は全て〇でも✖でもなく、ぼくらのものの見方によって変わる。そう思えば、目の前の問題が「問題」ではなく、自分のさらに深いところにある何かを投影しているだけ、とも考えられる。

 

ぼくの場合、「あ、それは今要らないヤツだったのね」と、改めて感じさせてもらった。

 

詳細は省くけれど、「A かBか」あるいは「Aもだけど、Bも」と思っていたことが「今はAは必要ない。Bに突き進め」ということが明確になった。自分でも薄々氣付いていたけれど、Bをフル回転でやらないための言い訳・ブレーキとしてAを使っていた、みたいだ。もちろん、無意識的に。

 

さらに、ぼくは「面白くない文章を書くヤツだと思われたくない」と思っているらしい。ま、確かにそれはある。そして、オリジナリティを何よりも重要視している、というフシもあるらしい。思い当たらないわけではない。

 

でも、このセッションでは「面白くないと思われてもいい」、「人の褌で相撲を取ってもいい」と自分に許可を下ろしていった(あくまで私の場合は、だ)。

 

そうすると、今まで以上に自分が書くブログや文章に対するハードルは(良いか悪いかはわからんが)下がった感覚もある。

 

ネタがないから書けない、ではなくて、ちょっとした小ネタで書いてみようか、という気持ちになれそうな感覚がある。

 

(今までも、大したネタではないものもあったではないか、とかは言わない約束)

 

〇そして、目立ってもいい

セッション中に出てきて、何より「おや」と思ったのは「目立っても良い」というキーワードだった。

 

ぼくは長いこと、「目立ちたくない」ポジションを取ってきたし、目立ちたくない人だと自分を認定してきたのだけれど、そうではなかった。

 

しかし、だ。小学生の頃には、学芸会で舞台の主役を(しかも割と率先して)やった記憶がある。合唱会では指揮者を買って出たこともある。うむ。目立ちたがり屋ではないか。

それがいつの間にか、「目立つのは良くない」、「目立つのは損である」という思い込み(学習?)が働いて、ぼくはなるべく目立たないことを選択するようになっていった。

 

そのことはそのことで、まあ悪い選択ではなかったのだけれど、それが今まで残っていた、らしい。目立っても良い。特に、文章を書くことで目立つことは悪くない。悪くないどころか、どうやら潜在的にはそれをしたかったらしい、のである。うーむ。

 

目立っても良い。これをぼくが自分自身で認めたとき、何が起こるのかはさっぱりわからない。ただ、「あ、そういえばそうだった」と思い出させてくれるきっかけにはなった。

 

まとめると、知らない自分に会う、というよりは、自分でも忘れていたり、なかったことにしていた自分に氣付くセッション、という感じだった(ぼくの場合は)。

 

氣付くと、統合できる。なかったことにしていても、絶対に「ない」ことにはならない。であるならば、それを認めて今の自分と合わせていった方がいい。ぼくはそう思った。

 

というわけで、大ちゃんの「心屋カウンセリング×固める反射統合ワーク。」おススメです。

 

ameblo.jp

  

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手塚治虫の『ブッダ』を読んだ方が良いよと言いたいだけのブログ


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結論。

 

手塚治虫が描いた『ブッダ』を、みんな読むと良いよ。

 

 

今日のブログで言いたいことは、以上である。

 

そのくらい削ぎ落としても良いんだけれども、まあ、そこはそれ。

もうちょっとだけダラダラ書かせてほしい。

 

絶対的な悪役がいないストーリー

ブッダ』は、その名の通り、仏陀ガウタマ・シッダールタ)生涯を描いた物語である。もちろん、手塚治虫流の脚色や、架空のキャラクターが登場したりはする。

 

(ま、仏陀の生涯そのものがノンフィクションかフィクションか・・・みたいな話はとりあえず置いておいて、だ)

 

ブッダ』には、色々なキャラクターが登場する。弟子になる人もいれば、ブッダ(あるいはシッダールタ)への愛情故に、その修行を邪魔しようとする人たちも出てくる。

 

が。そのキャラクターたちの全てが、根っから悪い人間ではない描かれ方をしている。

 

何の因果か、そういう人生や役割を果たさざるを得なかった、という描かれ方をしているのだ。

 

例えば、ある国の王が、他国の王族を妃に迎えた。ところが、その他国はその国に反感を持っており、奴隷身分である侍女を王族と偽って妃に送り込んだ。

 

その王族と妃の間に生まれた子は、自分が奴隷の血を引いていることを引け目に感じて・・・とか。

 

そんなん、別に侍女の子だろうが何だろうが、関係ないやないか・・・と現代を生きるぼくらは思う。

 

でも、当時の彼にとっては、アイデンティティの崩壊に至る一大事なわけだ。だから、彼は母親に対して極めて残酷な態度をとる。

 

でもそれは、決して自分の本心ではなかったり・・・とか。

 

そういう心の内を見て、読者であるぼくらはいたたまれない気持ちになる。人間に生まれながらにして尊卑なんて存在するはずがない、と強く想う。

 

他にも、卑劣・下劣な行動をとる人間が何人か登場するのだけれど、その背景には、そうせざるを得なかった事情や心情が丁寧に描かれている。そんなところに、ぼくらは涙するわけである。

 

ぼくらの周りにも、どうしても好かない人間や、卑怯・卑劣なことをする人間がいるかもしれない。でもその裏側には、何か事情や秘めたる何かがあるのかもしれない・・・。そんな風に思わせられるストーリーなのである。

 

死を想え

ブッダ』の中で、強烈なインパクトを残すキャラクターはたくさんいる。ぼくの印象に残っているのは、アッサジである。

 

このアッサジ、ブッダが修行の道中で泊まった一家から、口減らしのために押し付けられた少年である。

 

彼は旅の途中で一度死にかけたところを、ブッダに救われる。それ以来、未来が見えるという不思議な能力を身に付けてしまう。

 

つまりそれは、どういうことか。

 

人の死、あるいは自分の死の時期がわかってしまうということである。

 

アッサジは自分の死期、そして死に方を悟り、その上でそれまでの日々を丁寧に生きようとする。そして、死ぬべき時が来た時、逃げも隠れもせず、堂々と死んでいく。

 

この死に方がまた壮絶かつ悲しく、かつ美しくさえあるので、これは本編でぜひ読んでいただきたい。

 

さて。ぼくらは幸いにしろ不幸にしろ、自分がいつ死ぬのかを知らない。明日死ぬかもしれないし、100年後も変わらずピンピンしているかもしれない。

 

だからこそ、日々をどう生きるか、がおろそかになってしまうのかもしれない。明日も生きるつもりでいるから、今日、この瞬間を生きるという意識があいまいになる。もし、明日とは言わないまでも、一週間後に死ぬとしたら?

 

今やっていることを本当にやり続けるだろうか?

 

伝えたい言葉や想いを、伝えないで済ませることができるだろうか?

 

自分が今為すべきことをしないという選択ができるだろうか?

 

そして、死の瞬間が訪れた時。「そうだよね」と落ち着いて、自らの死に向き合えるだろうか。生に固執して、ジタバタと死なないための方策を探したりはしないだろうか。

 

アッサジは、そんなことをぼくに問いかけてくる。

 

死ぬ準備はできているか?

 

そして、生きる準備と覚悟はあるのか?

 

死ぬことは、決して悪いこと、悲しいことじゃない。

 

しかし、この世で為すべきことをしないまま、この世を去るのはあまりに辛い。

 

自分の志を果たそう。

 

大切なひとに、大切な想いを伝えよう。

 

そして、死ぬ瞬間。安らかに、その事実に身を委ねる準備をしておこう。

 

そのために、今この瞬間を生きる。

 

そんなことを考えている。

 

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あなたのアタマの中のうどんを語れ


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ここ数日、うどんばっかり食べていた。

 

たまたま、と言えばたまたまだし、意図的に、と言えば意図的になのだけれど、ともかく、9回の食事のうち、5回くらいはうどんだったのではないか(記憶は曖昧)。

 

でも、不思議なことに飽きない。どれを食べてもうどんはうどんで、全てうどんなのだけれど(当たり前だ)、食べるシチュエーションも違えば、味も違う。

 

ざるうどんなのか、カマタマなのか、きつねか、肉うどんか。温かいか冷たいかだけでも二択。そこから、料理方法(と、言うべきか否か)によって、うどんは様々な様相を呈していく。実に面白い。

 

いや、なぜこんなことを書いているかというと・・・。

 

一口に(いや、うどんだけに、じゃないのよ)「うどん」と言っても、きっと皆さんが頭に思い浮かべる「うどん」像は千差万別なんだろうな、と思ったのだ。

 

○亀製麺や花○うどんが思い浮かぶ人もいれば、香川県で食べた、ねぎを自分で刻むような店のうどんが思い浮かぶ人もいるだろう。

 

あるいは、大阪のきつねうどんがパッと思い出される人もいるだろうし、「赤いきつね」的なものを想起する人もいるかもしれない。

 

秋田の人は稲庭うどんを思い浮かべるかもしれないし、伊勢うどんのような変化球だってある。名古屋名物。ありゃきしめんだけれど、人によっては「うどんみたいなもんだろ」というかもしれない。

 

この間、あるところで友だちに連れて行ってもらったうどん屋さんのざるうどんは、麺がもう「美しい」と言いたくなるほどのゆで上がり&盛り付けられ方であった。こういううどんもあるよね、と。

 

つまり。「うどん」ですら、ぼくらはこれだけ多種多様なものを思い浮かべる可能性がある。いわんや、形のないもの、定義のはっきりしないものをや、ということが言いたいのである。

 

「勇気」とは。
「愛」とは。
「孤独」とは。
「夫婦」とは。
「責任」とは。
「仲間」とは。
「信頼」とは。

 

こういう言葉たちを、ぼくらは使っている。はてさて。どれくらい、その中身を相手と共有出来ているのだろう?と、急に考えた。

 

それぞれに想起するものが違うこと、それ自体は悪いことじゃない。ただ、「伊勢うどん」と「讃岐うどん」を、あるいは「○亀製麺」と「つる○んたん」、「どん兵衛」と「赤いきつね」を頭に浮かべた者同士が「うどん」について語り合うとき、悲喜劇は起こりやすい。

 

いや、最後のはそんなに差がないんじゃないか。

 

それはさておき。

 

ぼくらは、相手のアタマの中にある「うどん」の姿について、寄り添ったり、想いを巡らせることも必要なのかもしれない。

 

そして、自分のアタマの中の「うどん」について、相手に伝える機会があっても良いのかもしれない。そんなことを考えた。

 

あなたの中のうどんを語れ。そうして意識や感覚を共有することが、相互理解につながるはずだ。

 

案外そんなところから、世界平和は始まるのかもしれない。

 

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削ぎ落とすこと

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「削ぎ落とす」というのが、2019年下半期のぼくのテーマになるんじゃないか。

 

というか、それをテーマにする。

 

これまで生きてきた年月で、ぼくは色々なものを身に着けてきたし、学んでもきたと思う。ただ、良いとか悪いとかではなく、一旦それを削ぎ落とす時期に来ているんだろう、という感じを受けている。

 

「削ぎ落とす」というのは、ぼくのイメージでは「シンプルにする」、あるいは「自分の得意なこと、強いところを伸ばす」という感じ。そのために、要らないものを捨てていく感じ。

 

人によっては「手放す」なんて表現になるのかもしれない。

 

ともかく、荷物を減らしていくようなイメージだ。

 

ぼくが師事しているひとが良く出す例えを引き合いに出す。

 

「蕎麦もうどんもラーメンもウナギも寿司も出す店の天ぷら」と、「天ぷらしかない店の天ぷら」のどちらがウマいか。

 

もちろん、天ぷらしか出さない店の大将の腕がとんでもなくポンコツである可能性は否定できないにしろ、普通に考えると、天ぷら専門店の方が天ぷらはウマかろう。

 

あるいは、ボクシングで言うならば。

 

右ストレートもフックもアッパーもまあ、そこそこの選手と、右ストレートは威力抜群で世界級だが、他がイマイチな選手。これ、どっちが伸びると思うか。

 

実は、右ストレートが抜群な選手の方が、強くなる可能性が高い。というのも、「武器」がハッキリしているからだ。ここで勝負すれば勝てる、というポイントがあると、強い。何でもできるけれど、一発で仕留められる力が無いと、勝負の世界では勝ち残るのは難しい。

 

むしろ、圧倒的に強い「何か」があった方が良い。

 

そして、まずはそれを磨きに磨き上げた方が良い。

 

ぼくはどちらかというと、ストレートもフックもアッパーも、それなりに出来ないこたあないんだけど、いまいちパンチ力がないんだよねえ・・・というボクサーみたいなもんだと自分では思う。

 

アレコレできることはあるんだけど、「コレ」っていう武器がねぇ・・・という感じ。

 

だから、削ぎ落とす。いまのぼくには必要のないもの、いまはまだ要らないものを、削ぎ落としていく。そして、シンプルに「何か」を磨き上げていく。

 

そういう時期なんだろうと思っている。

 

さて。あなたはどうだろう?

 

自分の「武器」について、考えたことはあるだろうか。

 

削ぎ落としていって、自分の武器を磨いていった結果、どういう経緯でそうなるかは未知数だけれども、ひょっとしたらモテ始めるんじゃないかとこっそり期待しているのは内緒の話である。

 

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【読んだ本】『99.996%はスルー』~お前もスルーしてやろうか(閣下風に)~

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『99.996%はスルー~進化と脳の情報学~』という本を読んだので、感想を書きたい。

 

↑クリックすると、詳しい情報が見られます。 

 

爆発し続ける「情報」

この本を読んで、何しろぼくがびっくりしたのは「ぼくらを取り巻く情報量は、加速度的に増え続けている」ということ。

 

増えているのは、なんとなくは気付いている。問題は、増え方のスピードである。

 

この本によると、有史~1999年までに世界中でストックされた情報を全てデジタル化したとすると、その総量は約2~3エクサバイト(エクサは10の18乗)になる、らしい。その情報とは、例えば本や雑誌、そういった諸々の蓄積されたものを指しているとのことだ。

 

ところが、1999年~2000年の1年間で、有史~1999年までと同等の2~3エクサバイトのデータが流通したというのである。

 

そんなバナナ、である。有史以来何百年もかけて積み重なってきた情報と同じだけの情報が、たった一年で流通するなんてことがあるものか。

 

と思うものの、確かに現代は昔に比べれば、情報量が増えていることは確実である。しかも、恐ろしいほどのスピードで。

 

江戸時代を想像すれば、当時は電話もFAXもテレビもラジオも何もかもないわけだし、何しろインターネットだって当然ない。

 

言われてみれば、思い当たる節はある。

 

ぼくは最近『古畑任三郎』を好んでYoutubeで見ているのだけれど、1stシーズンの放映が1994年。当時は携帯電話はおろか、インターネットもまだない。FAXで誘拐犯が身代金を要求することすら珍しいという状況だった。

 

一方で、1999年に放映された3rdシーズンでは当たり前のように携帯電話が登場している。

 

この間、たったの5年でしかない。ちなみに、iPhone 3Gが日本で発売されたのが2008年。つまりそこから10年くらいで、携帯電話や個人のモバイル、インターネット環境は激変した。

 

いま、我々は情報の洪水の中で生きている。

 

日々大量のメールやメッセージが飛び交い、ネットからは様々な役に立つか立たないかわからない情報が発信され、企業は企業でCMや広告をやっきになって見てもらう努力をし、ぼくらの身の回りとはおよそ関係なさそうな、芸能界や海外のニュースまでリアルタイムで報じられる。

 

そう。ぼくらはそういう情報の荒波の中をくぐり抜けながら生きているわけだ。そりゃ、意識的にスルーしていかなくては、全ての情報にまっすぐに向き合っていては、身体がいくつあっても足りゃしない。

 

「意識」と「無意識」のあいだ

一方で、ぼくらは情報に無意識的に反応してしまうこともある。

 

例えば。温かい飲み物を持って話すとき、人は優しい気持ちになりやすい。フカフカのソファに座って話すと、柔軟な対応になりやすい、という話がこの本でも紹介されている。

 

ぼくらの脳に1秒で入力される感覚の情報量は、毎秒千数百万ビット。一方、意識が処理している情報量は毎秒数十ビットに過ぎない、らしい。

 

つまり、意識は入力される感覚のほとんどを「スルー」していることになる。恐るべしスルー力

 

つまり、残りの入力情報を処理しているのが、「無意識」ということになるのだそうである。

 

ちなみに、将棋やチェスで「定跡」(いわゆるお決まりのパターンみたいやつ)があると、他に最善の手があっても見逃してしまうケースがけっこうあるらしい。無意識に、「定跡=正しい」と思える打ち手に、脳の回路をつないでしまうのかもしれない。

 

考えを変えれば、たった数十ビットしかない意識をどこに向けるか?が、ぼくらが生きていく上では大切、と言えるかもしれない。

 

何に意識を向け、何を見て、どんな話を聞くのか。意識は選べる。

 

限りある処理能力を、自分の望む方向に向けるのか。

 

はたまた、嫌だ・つまらないと思う方向に向けるのか。

 

なかなか示唆に富む話だと思いませんか。

 

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