才能について


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たまには、ぼくの過去の話を書いてみようと思う。もちろん、今ココ以外はすべて過去か未来でしかないわけで、そういう意味で過去の話は書いてきたんだけれど、そういう意味ではなく、子どもの頃の話。


ぼくの父親は本が好きで、週末に街(ぼくが生まれ育った札幌では、市街地のことを『街』と呼んでいた。うちだけかもしれないけれど)に行っては、地下街の紀伊国屋書店で本を買って帰るのが定番だった。だから、父と外出すると本屋で好きな本を買ってもらえた。そんなことから、ぼくは子どものころから本を読む人だった。


裏を返すと、当時のぼくは内氣で人見知りで引っ込み思案という三冠王だったから、どちらかと言うと、仲間とワーッと遊ぶよりも、本を読む方が好きだったのかもしれない(決して、仲間がほしくなかったわけではないのだけれど)。


その頃よく読んでいたのは小説の類だった。物語なら、ほぼ何でも読んだ。夏目漱石安部公房みたいな文豪系から、赤川次郎アガサ・クリスティとかの国内外のミステリー、一時期は三国志にハマったこともあるし、歴史小説も読んだ。ライトノベルのはしりみたいな、コバルト文庫を(当時ちょっと好きだった女の子に勧められて)読んでいた時期もある。氷室冴子とか好きだったな。っていうか、亡くなってたのか。合掌。


それはさておき。それだけ読むのが好きだったこともあって、自然と自分でも書いてみよう、という氣になった。というより、「自分は小説家になるもんだ」と勝手に思い込んでいた。


で、原稿用紙を買ってきて、書いてはみるものの、どーにもこーにも筆が進まない。途中までは書けるんだけれど、「あれ?これって面白い?」という疑問が頭をよぎり、そうなるともう、進まないこと山の如しになってしまい、飽きてかかなくなった。で、何かの拍子に思い出したように別の作品を書き始めるんだけれど、これも頓挫するということを繰り返してきた。


○文章を書くのと、小説を書くのは別

以来、小説を書くことにチャレンジしたり、同人誌を作って小説を掲載してみたり、色々とやってみたのだけれど、どうにもこうにも自分的に納得のいく作品はできなかった。


でも、書くのは好きだから、社内報(会社の中で読まれる、社員とかが登場する雑誌みたいなやつ)を作る会社に入社して、ライターの仕事をした。ライターの仕事は、楽しかった。相手がこういうことを言いたいんじゃないか、こんなことを想ってるだろうということを聞いて文章にするのは、何の苦にもならなかった。


ただ、ぼくはずっと小説を書きたいと思っていた。なのに、トライするけれど、どうしても自分で「面白い!」と思える作品が書けない自分に納得がいかなかった。


でも、最近氣付いたことは、ぼくの才能はそこではないらしい、ということだった。


小説を書く、というのは、「0→1」を生み出すということだ。自分の頭の中に虚構世界を作り出して、その中で読者を楽しませたり、考えさせたり、自分の言いたいことを伝えたりする。どうも、ぼくにはその才能はあまりないらしい。


でも、人から聞いた話を整理してわかりやすくしたり、(当ブログのように)学んだこと、感じたことをまとめたり、文章構造をシンプルにして伝わりやすくするのは好きだし、得意だ。


○あなたにも必ず才能は渡されている

人には必ず、才能が渡されている。その才能をパンパカパーンと生かして生きている人もいれば、全く別のところで生きている人もいる。その才能が探さなくても見つかってしまう人もいるし、若いうちに自然と発揮されてしまう人もいる。でも、多くの場合は探して、磨かなければ使い物にならない。


ぼくの場合、どうやら「文章を書く」とか「物事を分析・整理する」才能があるのだけれど、その「書く」才能を、子どものころから慣れ親しんでいた「小説」と組み合わせてしまったがために、小説を書いては挫折するということを繰り返したんだろうと思う(いや、ひょっとしたら死ぬ氣でやったら小説家デビューくらいはできたかもしれないけれど、それが幸せかどうかはわからない)。


何度でも言うけれど、自分のことは自分ではわからない。だから、自分の才能は何か、その才能をどこでどう生かせばよいかは、自分だけではわからない。わかるとすれば、自分が何をしているときに氣分が良くて、楽しいか。その方向に、才能はあるんだろうと思う。


自分がやりたくて、楽しければ、自然と続く。一時的にやりたいと思っても、一過性のものなら続かない。


ぼくは、文章を書くことは本当にいくらでもできる。でも、小説を書くとなると、途端に「これでいいのかな?」が出てくる。いずれ解消するかもしれないけれど、いまのところはね。


だから、好きで好きで仕方なくて、ずーっとこれをしていたい!と思うものを、飽きるまでやり続ければよろしい。飽きないってことは、その方向性に何らかの才能が眠っているはずだ。その才能を輝かせたら、必ず誰かが喜ぶ。誰かのお役に立つ。


ぼくは、そういう人々が自分が好きで、いくらやっても苦にならない得意なことを持ち寄って成立する社会が理想だ。もちろん、これはあくまでぼくの理想で、押し付けるつもりはない。ただ、ぼくはそっちに進もうと思う。苦手なことは誰かにお願いする。代わりに、ぼくが得意なことは引き受ける。


まさに、天才集団だ。そんな世界が、ぼくの目の前にはすでに広がっている。

 

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「はじまりはいつも小さい」(ぼくが出会った名言集)


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「はじまりはいつも小さい」(byキケロ&某会社の社長)

 

哲学者のキケロさんは「はじまりはいつも小さい」と言ったそうな。その話を、ある会社の社長が話していた。なるほど。

 

はじまりはいつも小さい。これ、実は金言かもしれないと思っている。

 

例えば。ビジネスで成功する!と思っても、最初はビジネスを始めるところから(たいていは)スタートする。オギャーと生まれて、いきなりスタスタ歩き出す赤ん坊はいないし、世界を愛で満たそうと思ったら、自分の周りから満たしていくしかない。もっと言うと、自分自身を愛で満たしていくしかない。

 

○理想と現実化のタイムラグは、宇宙さんの愛である

「コレができてない、アレが足りない」と思う氣持ちはわかるし、素晴らしい。それだけ成長しようという意欲があるからだ。でも、一足飛びに自分の理想に到達することは、どうやら宇宙の法則的に無理っぽい。

 

ぼくの師匠筋の一人が、「意識と現実化の間にタイムラグがあるのは、安全弁みたいなもんだ」という。

 

例えば、意識がすぐに現実化するとしたら、ついカッとして「アイツ死んでまえ」と思ったら、死んでしまう。「うわー。こんなことしちゃった。死にたいわー」と思ったら、これまた死んでしまう。危ない。

 

意識という現実化の間にタイムラグがあるのは、実は宇宙さんの愛なんである。

 

○だからこそ、小さいことから始めよう。

世界平和のために、目の前のゴミを拾う。大切な人の幸せのために、目の前の人を100%大切にする。誰かに貢献できる自分になるために、自分を磨く。

 

小さなことを軽く見るということは、ひょっとすると、スタートを軽く見ているということなのかもしれない。

 

自分の中にある小さな良いところを見続け、育て続けていくことで、より素晴らしい自分になっていく。

 

大きな理想を実現するために、小さな一歩から始める。わかっちゃいるけどさ、と、ぼくもいつも想う。でも、意識し続けることで、小さなことを大切にできる自分に変わっていくはずだ。

 

このところ、ブームが来ているKANさんの曲のフレーズから引用して終わる。

 

「良ければ一緒に その方が楽しい」(『良ければ一緒に』より)

 

そう。なんでか。その方が楽しいから。そんな小さな一歩が大切だな~と想ってる。

 

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知識や情報が不安を払拭することはない、ということについて

 

「たくさんのものを持っている」、特に「たくさんのことを知っている」ことが、必ずしも幸せだったり、成功だったりにつながるわけではないよねえ、と最近改めて思っている。

 

何か新しいことを始めるとき、多くの人は情報を集めるところからスタートする。

 

確かに、魚の知識が全くゼロの状態で寿司屋を始めてもうまく行かないだろう。最低限の知識は持っておいてくれよ、とは思う。

 

ただ、あまりにたくさんの「知っている」を持ちすぎていると、それがかえって邪魔になることもある。

 

昔、『冒冒グラフ』という番組(知らない人多いだろうな)で「知識は荷物になりません。あなたを守る懐刀」というキャッチフレーズがあったけれど、実は、知識も持ちすぎると「お荷物」になることがある。

 

○明日のことなど誰にもわからない

先のことは、今のところ誰にもわからない。ひょっとすると『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(何度見ても素晴らしいタイトルだ)のデロリアンだったり、『ドラえもん』のタイムマシンだったりが既にあるならば別だけど。

 

少なくともぼくには、未来がどうなるかは全く知らない。1時間後、1分後だって、何が起こるかわからない世界で生きている。

 

にもかかわらず、ぼくらは未来を見ては不安になる。仕方ないっちゃ仕方ないんだけど。で、不安を払拭するために情報を集めたりする。成功するためにはどうしたら良いか。幸せになるためには、どうすれば良いのか。

 

もちろん、世の中の道理がどうなっていて、こうすればこうなる、という最低限のルールや仕組みは知っておくに越したことはない。また、ビジネスで成功したいと思ったら、先人の考えややり方を学んでみるのも手だ。

 

では、知識や情報を知れば知るほど、不安は払拭されるのだろうか。答えはたぶん「NO」だ。むしろ、知れば知るほど不安は増し、一歩を踏み出す勇氣が失せていく。

 

「たくさんのことを知りたい」という欲求の根源は「欠乏」にある。「情報がないと失敗するかもしれない、だからたくさん知りたい」と、「失敗するかも」が前提にある。実はこれ、底なし沼のようなもので、いくら情報を集めても、完全に不安がなくなることはない。

 

例えば、初めてスキーをしようというとき、どれだけ情報を集めてみても、「コケるかもしれない」という不安を完全に払拭することはできないし、仕入れた知識だけではゲレンデをスイスイ滑れるようには、まずならない。むしろ、ある程度情報を仕入れたら、コケる覚悟を決めて始めるしかない。

 

○知識が行動の邪魔をする

知識や情報があると、シミュレーションができる。だから、多くの場合「失敗したときのシミュレーション」をしてしまう。そうすると、二の足を踏む。知識や情報がないと、良くも悪くもシミュレーションが成り立たない。だから「とりあえずやってみよう!」になる。

 

このとき、必ずうまく行く保証はない。ただ、「ま、うまく行くだろう」という根拠のない自信はあるかもしれない。何しろ、先のことは誰にもわからないのだ。

 

未知のことを既知の情報で分析・解析しようとしても、限界があるのは火を見るより明らか。それならば、実際にトライしてみて、生データを集めた方がよほど建設的だ。

 

もちろん、知っていれば回避できる課題や問題は、事前に情報を仕入れておいて、対応すればいい。ただ、世の中には「やってみないとわからないゾーン」というのが確実にあると感じる。これは、もはや飛び込んでみないとわからない。

 

何かあなたが新しいことにチャレンジしたいけれど、どうしても不安を感じるというときは、情報を集めるよりも、思い切って飛び込んでみた方が、何かを得られるタイミングなのかもしれない。

 

もちろん、どっちも選べる。「何とかなるでしょ」で飛び込んでみるもよし、「やっぱり不安だから嫌だ」でブレーキをかけるもよし。どっちだって良い。

 

ぼくの敬愛するKANさん(かつて『愛は勝つ』で大ブレイクしたKANさんだ)は、名曲『TOKYO MAN』でこんな歌詞を書いている。

 

「明日のことなど誰にもわからない/その日その日を生きていくしかない」

「明日のことなど誰にもわからない/信じていればできないことはない」

 

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平壌で国際マラソンに参加して感じたこと

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5日間ほど、海外に行ってきた。具体的に言うと、成田から中国の瀋陽に入って、そこから朝鮮民主主義人民共和国平壌に入って2泊。次に、ほぼ丸一日国際電車に乗って平壌から北京に移動して、空路で羽田に帰ってきた。

 

平壌に行ってきたって、お前はアントニオ猪木か」と思われるかもしれないけども、実際行ってきたんだからしょうがない。

 

※かの国の人たちは「北朝鮮」という呼称を使わず、自国のことを「朝鮮」か「共和国」と呼ぶ。ぼくもそれに従って「共和国」と表記する。本人たちが嫌がっている呼称をわざわざ使うこともあるまい、というぼくなりの配慮だ。

 

平壌で見聞きしたこと(国際マラソン大会に参加してきた)は、大変面白かった。ただ、どこまでブログに書いていいものやら悩むところもあるので、興味のある人は聞きに来てほしい。直近ではお話会を4月17日と18日の夜に予定しているので、ぜひ(宣伝)。

 

ここでは、行ってみて感じたことを少しだけ書いてみる。

 

この記事を読んで、読者の皆さんが何を感じるかはわからないけれど、誓って言えるのは、ここに書くのはぼくが感じた感想だけ。そこに政治的な意図やプロパガンダは一切ないことだけは、信じてもらいたい。

 

○一番の違和感は「違和感のなさ」

「『北朝鮮』って行って良いの?」という質問をされることがたまにある。よくよく考えると、これも不思議な質問で、日本政府は「渡航自粛」を促しているわけで、別に行っちゃいけないとは言ってない。これが例えば「渡航禁止」であったなら、ぼくも無理して行こうとは思わない。

 

事実、日本の旅行会社を通じてフツーに手配もできるし、ビザも用意してもらえる。むろん、そういうツアーを手掛けている旅行会社を探す必要はあるけれど(たぶん、いわゆる大手の旅行代理店はやってない)。

 

行ってみてぼくが一番感じたのは「違和感のなさ」だった。

 

なんかもっとこう、緊迫ムードだとか、外国人(特に日本人)は珍しい目で見られるとか、そういうことがあるんじゃないか、と思ってたのだ。で、実際に行ってみると、全く以てそんな印象はなかった。

 

実際、瀋陽から平壌に入る飛行機の機内は、実にいろいろな人種の人が乗り込んでいた。中国をはじめとするアジア系はもちろん、ヨーロッパなどから来たであろうアングロサクソン系の人もたくさんいた。

 

アメリカ人がいたかどうかは定かではないけれど(さすがにいないか)、そこには「外部との関係が断絶している」という印象は全くなかった。まあ、世界中を見回してみると、共和国と国交がない国の方が少ないわけで、当たり前っちゃあ当たり前かもしれないけれど。

 

入国審査はぼくが訪れた他の国に比べると厳しめ(本や携帯電話などもチェックされる)だけれど、ぼくが持って行った本はさらっとチェックした後、すぐに返してくれた。

 

○意外とカワイイ街並み、平壌

日本(特に東京かな)との違いを強いて挙げれば、まず空が広い。高い建物はあるのだけれど、東京ほど密集して立っていない。そして、車道がまっすぐ、かつ車線が多い。だから、マラソンで走っていると、真っすぐな道をどんどん先に先に進む感じになる(もちろん、途中カーブもあったけども)。

 

意外だったのは、建物が意外に色々な形だったこと。灰色っぽい建物がズラッと並んでいる印象を勝手に持っていたのだけれど、ポップでカワイイ(と、女子高生なら言いそうな)建物もたくさんあった。


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ただ、派手さはない。東京の街並みのように、そこここに大きな看板やポスターが張り巡らされたり、目立つ看板がでかでかと掲げられていることはない。まあ、共産主義国家だから広告という発想がないのかもしれない(じゃあ中国はどうなんだという問いについて、ぼくは答えを持ってない)。

 

○笑顔で手を振るから、笑顔で手を振りかえしてくれる

そして、ぼくが平壌に行ってみた限り、そしてぼくが会った人たちや接した人たちを見る限りでは、とてもじゃないけれど「悪の枢軸」という感じはしなかった。

 

ラソンで走っていると、沿道で走るぼくら(友人と二人で参加した)を眺めたり、どこかへ移動している人たちがたくさんいた。ぼくらが彼・彼女らに手を振ると、たいていの人は笑顔で手を振りかえしてくれた。中には、「急げ急げ、がんばれ」(意訳)とデカい声で励ましてくれるおじさんもいた。

 

子どもたちはぼくたちに「ハロー」と声をかけ、ぼくらは「カムサハムニダ」と返す。そんなやり取り。そこにあるのは、実は平和そのものだったのだ。驚くべきことに。

 

もちろん、過去にかの国の人たち(特に秘密工作部隊とか、たぶんそういう人たち)がしたこと、日本人の拉致や監禁などは許されるべきことではないと思う。秘密裏に核兵器やらミサイルやらを作るのだって、その射程圏内に入っている日本国民であるぼくとしては、当然許せない。

 

ただ、忘れないでいただきたいのは、その国に住んでる人が全員悪人で、憎むべき人たちではないということ。「話し合いで何でも解決できる!」と言うつもりはない。場合によっては、武力解決が必要な状況に陥ることもあるかもしれない。

 

ただ、話し合いの余地があるのなら、その方策を捨てる手はないんじゃないか?と思う。

 

ぼくらが笑顔で手を振るから、かの国の人たちも、笑顔で手を振りかえしてくれる。

 

ぼくには国際政治や外交の難しいことは良くわからない。ただ、物事の道理は、そんなシンプルなことなんじゃないのかな、と思ったりはする。少なくとも、ぼくはそう信じている。

 

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「人の想いは伝わらない。だからこそ、想いを言葉にするための、ある種切ない旅をしている」(ぼくが出会った名言集)

 

 

「人の想いは伝わらない。だからこそ、想いを言葉にするための、ある種切ない旅をしている」(鴨頭嘉人氏)

 

言葉を扱うプロの端くれとして、あるいは、言葉を紡ぐことに喜びを感じる人間の一人として、いつも思うのは、「言葉は不自由である」ということ。これは、冒頭の言葉と合わせて、講演家である鴨頭嘉人氏が話していたことだ。

 

鴨頭嘉人氏を知ってるだろうか。『人生で大切なことは、全てマクドナルドで教わった』という本の著者として認識している人もいるかもしれない。今は自ら講演をしたり、「話し方の学校」というスピーチスキルを教える学校も主催したりしている。いわば話し方、言葉のプロだ。

 

ぼくらは油断すると、「以心伝心」という言葉を信じてしまう。心を込めさえすれば、相手に自分の想いが届くんじゃないかと思ったりする。でも残念ながら、その想いは届かないことの方が多い。

 

じゃあ、言葉にすれば届くのか。これがまた難しいところで、伝わることもあれば、伝わらないこともある。

 

〇言葉は不自由で、万能ではない

言葉を扱うぼくたちが、常に心に留めておいた方が良いこと。それは「言葉は不自由」で「万能ではない」ということだと思う。

 

ぼくたちが言葉を使って伝えたいのは「情報」もあるけれど、実は「感情」であることが多い。情報伝達のための言葉は、比較的簡単だ。ルールに則って、相手が受け取りやすい形にしてあげれば、伝わることが多い。もちろん「簡単」とは言い切れないけれど。

 

ぼくが「言葉って面白いなあ」と思ったきっかけになった例題を、急に思い出した。本題とはあまり関係ないけれど、懐かしいので書く。子どもの頃、確か国語の本で、こんなの例文があった。

 

お風呂屋さんの入口に、こんな立札があったという。

 

「ここではきものをお脱ぎください」

 

さて。皆さんはどう読むだろう。

 

「履物」を脱ぐ人もいるだろうけれど、ひょっとしたら「着物」を脱ぐ人もいるかもしれない。

 

「ここで履物を脱いでください」、「ここでは着物を脱いでください」とあれば、より親切だ。あるいは「ここで、はきものを脱いでください」とすれば、句読点一発で解決したりする。

 

情報を伝える言葉ですら、これだけ混乱を招きかねないのだから、ぼくらが想いを伝えようと思ったら、言うに及ばずである。

 

○想いが誰かに伝わりますように

でも、ぼくらは誰かに(多くの場合は大切な人に)自分の想いを伝えたいと願う。離れて暮らす両親、あるいは子どもに。氣の置けない友人に。共に成長し合う仲間に。愛しく、大切に想う人に。それぞれの関係性において、それぞれに伝えたい想いがある。

 

ぼくの想いが、なんとか相手に伝わりますように、と言葉を紡ぐ。でも、残念ながらぼくらの想いを100%ぴったりと表現できる言葉は、この世にはたぶん存在しない。

 

両親に伝えたい「ありがとう」と、友人に伝えたい「ありがとう」、そして仲間に伝えたい「ありがとう」が、それぞれ全く同じであるはずがない。でも、ぼくらには「ありがとう」の5文字だけが渡されている。

 

だからこそ、ぼくらは自分の想いを託すにふさわしい言葉を探す。その想いが大切で、どうしても伝えたいものであればあるほど、ぼくらの旅は長く続く。

 

想いの総量が大きければ大きいほど、言葉選びは困難を極める。自分の想いを過不足なく、しかも相手が理解しやすく受け取りやすくお渡しするにはどうしたらいいかと、想いを込めて丹念に言葉を紡ぐ。

 

ここまでしても、ぼくらの想いが100%伝わるかどうかはわからない。むしろ、恐らく100%は伝わらない。それはもはや、空気抵抗なしに車が走れないようなものだ。どんな想いも、言葉にした瞬間、わずかにでもズレたり、別のものになったりする。そのズレや違いを可能な限り小さくしようと取り組む。

 

そう。これは本当に切ない。でも、ある意味では愛おしい行為でもある。

 

だからこそ、前よりも多く伝わったとすれば、ぼくにとっては大きな喜びがある。ぼくの想いを受け取ってくれる人が増えることも、ぼくが伝えたかった想いを誰かがよりたくさん受け取ってくれることも、そのどちらもぼくにとっては大きな喜びがある。

 

ぼくがブログを書くのは、ある意味では自分のためだ。

 

そして、このブログを読んで、何かを感じたり、勇気付けられたり、温かい気持ちになったり、楽しくなったりしてくれたら、ぼくにとってこれ以上の喜びはない。

 

そのために、ぼくは言葉を紡ぎ続ける。そして、読んでくれて、ありがとう。

 

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「形から入る」こと

 

 

何かを身に着けたり、何かを習得しようというとき、とりあえず型通りやってみるのは多分有効なんだと思う。武道やスポーツなどは、特にわかりやすい。

 

剣道なら(やったことないけど)竹刀を一日100回振る、野球ならバットの素振り100回とか、そういうことからたぶんスタートするんだろう。なぜなら、実はそれが習得に向けて一番手っ取り早いから。

 

長年、先人が取り組んできた中で、「こうすればこうなる」を凝縮したのが「型」だとぼくは思う。おそらく、本来的にはその一つひとつに意味があって、こう動く理由というか、背景があったはずだ。

 

もちろん、そういう型に込められた深い意味・意図を最初から知るのもよいと思う。そういう型に込められた意味、意義を伝えられる師匠に巡り合えることは、幸運だとも思う。でも、それを知らなくても、とりあえず型通りやることにも、大いに意義があると、最近感じている。

 

○「形から入る」ための型

例えば。型があると、やってる本人のエネルギーが低くても、それなりにはなる。面白くはないかもしれないけれど、それこそ「形」にはなるんだろうと思う。

 

これも想像だけれど、生け花(華道)にも型があって、それを知っていればオーソドックスに活けられたりする(んじゃないかな)。そこには、独自性や思考が入るスキマはない。

 

言い換えると、自動操縦、オートマチックで行ける。

 

要するに「形から入る」ということ。そうすると徐々に中身が伴ってきたりするのだ。面白いことに。

 

ベスト・キッド』という映画をご存じだろうか。ちょっと前、ジャッキー・チェンがリメイクしたらしいんだけど、ぼくは旧作しか知らない。

 

ごくごくざっくり説明すると、いじめられっ子が空手家に弟子入りする。でも、最初は窓ふきや車のワックスがけなどをやらされる。当のいじめられっ子は「空手、教えないんかい」と思いつつも、その雑用にいそしむ。すると、この窓ふきやワックスを塗り、拭く動作が、実は空手の基本になっていたのだ!という逸話が出てくる。

 

いや、ほんとかよ、と思うだろう。ぼくも子どもながらに「そんなアホな」と思って見てた(ただ、ワックスの塗り・拭きをやってみたことだけは否定しない)。でも、今思えば、案外真理かもと思う。

 

毎日、「型」を形通りにこなしているうちに、体が勝手にその基本を体得していく。体で覚えたものは、アタマで仕入れた知識よりも強い。とっさのときは、体が先に動く。でないと間に合わない。思考した分、行動が遅れるからだ。そのコンマ何秒が、格闘家にとっては勝敗を決めるし、剣豪にとっては命取りになる。

 

○外側から、内側へのアプローチ

ぼくがちょっと前から取り組んでいる「型」は、とにかく「口角を上げる」という型だ。面白くてもつまらなくても、何もなくても氣付いたら口角を上げ続ける。これ、意識していないと大抵口角は下がっている。故に、別に不機嫌ではないのに、何となくムスッとした顔つきになってしまう。

 

これも一種の「型」だ。氣付いたら、口角を上げる。楽しくなくても良い。愉快でなくても良い。多少嘘くさくても構わない。ただ、口角を上げ続ける。そうしていくうちに、だんだん口角が下がらなくなり、微笑んでいる状態をキープできるようになる。

 

そして、ここからは「ほんとかよ」の世界かもしれないが、心が優しく、落ち着いてくる。

 

心のうちが外に表れるという考え方もあるけれど、外側から心の中にアプローチする、というやり方も、ぼくはあると思っている。形から入って、それが結果として中身も伴う。

 

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自力と他力とエトセトラについて

 

 

昔から「まあ、そうなんだろうな」と思っていたんだけれども、最近になっていよいよ強く思い始めているのが「結局、みんな言ってることは同じ」ということだ。

 

例えば。「自分の好きなこと、楽しいこと、氣分が上がることだけしなさい。そうしたら、うまく行く」という話を聞いたことがあると思う。

 

ハードルとして、まず、これができない人もいる。「楽しいことだけやってたって、うまく行くわけないじゃん」という人。ま、こういう人はもう仕方がない。自分の好きじゃないこと、やりたくないことを一生懸命やって生きていくことを選んだわけで、それも良いよねと思う。

 

次に「好きなことをしてるのに、成功しない!」という人がいる。うん。そういうこともある。これはいくつかケースがあって、パッとぼくが出せるところで言うと、こんなところ。

 

1)ホントはそんなに好きじゃないけど、「うまく行きそうな中では一番好きそう」なものを選んでる

2)好きなんだけど、うまく行ってる人のやり方を参考に出来てない

3)そもそも成功しようと思ってない(成功しちゃうと困る何かが、無意識的にある)

 

むろん、これだけじゃない。ほかにもいろいろあると思うけど。

 

だから、「好きなことだけしてれば成功する!」というのは真理なんだけど、誤解を招く表現ではある。

 

○「幸せ」と「苦」の関係性について

こないだ、ビジネスプロデューサーの斎東亮完(さいとうりょうかん)さんのお話を聞いてきた。正確に言うと、ぼくの師匠筋が亮完さんとコラボトークライブをやったので、行ってきた。そこで亮完さんは、こんなことを言っていた。

 

「人間の幸せには、実はかなりの確率で『苦』が伴うんですよ」。

 

それを聞いて、ぼくはうーむと唸ってしまった。

 

例えば。学園祭の準備で毎日0時まで学校で作業をして、当日を迎えて大成功したとき、喜びもひとしおではなかったか。もし、これをチャラっとやって、チャラっと済ませたとしたら、それなりの喜びしか得られなかったんじゃないかな。

 

多くの人は苦しいこと、辛いことは避けるべきもの、なくしたいものと考える。でも、苦あれば楽ありじゃないけれど、実は苦しい、辛いも喜びの原動力だったりするんじゃないかと思う。

 

ぼくの敬愛するアースジプシー(←この人がどんな人たちかは、ググれ)師匠は、このことを『「好きなことをして生きなさい」は“おこた”で“みかん”ではない…?』と表現をしている。

 

ameblo.jp

 

○「好きなことだけする」は「嫌なことを絶対やらない」とは、ちょっと違う

実は、自分が本当に好きなもの・ことを選び、魂が震えるような喜びに生きようとすると、実は障害が登場する。これはもう、自然の摂理みたいなもんだ。仕方がない。むしろおめでとうと言いたいくらいである。

 

なのに、「あ、嫌なこと、やりたくないことが出てきたから、こっちじゃないんだプー」てな具合に、嫌なことや障害を乗り越えることを諦めてしまうと、その旅はだいたいの場合、そこで終わる。

 

一方で「頑張らない方が成功する、うまく行く」というフレーズもよく聞く。これもまた、受け取り方が難しい言葉である。

 

実は、成功している人は傍から見るとオニのように頑張っていたりする。ところが本人にはその認識がない。なぜか。答えはシンプル。「自分が好きでやっているから」だ。基本頑張りたくない人が、好きなことならば「マジで?」と周りが引くほどの頑張りを見せたりする。

 

この文脈で出てくる「好きなこと」とは、「EXILEが好きー」とか「AKBが好きー」とか、そういうレベルの「好き」ではない。これができるなら、ちょっとくらい嫌なことや大変なことも、必死のパッチでやれてしまう、そういうレベルの「好き」だ。

 

そんなもの、あるだろうか?と思うあなたにも、必ずそれはある。ただ、探しに行っていないか、氣付いているのに可能性にフタをしているだけだ。

 

そして、人が何かに打ち込んでいる。しかも楽しそうに、自分のありったけの力を込めて取り組んでいる。そんな姿を見たとき、周りはどう思うだろう。「コイツを何とか成功させたい」、「この人と一緒に仕事をしたい」と思うだろう。そういう有意識・無意識の集まりが「他力」となって、その人を次のステージに押し上げていく。

 

「頑張らなくてもうまく行くんでしょ」と、自分にできる努力もせず、寝転がって鼻をほじって他力が発動するのを待っている人に、他力が発動するか。いや、するまい(反語表現)。

 

○自力を動かすから、他力が働く

「好きなことをすれば成功する」、「他力が働けばうまく行く」という言葉の裏側には、実はこんな流れがあるんじゃないかと思っている。この背景がわからないまま文字面だけを捕まえると、おかしなことになる。

 

みんなこういう一連の流れを知ってか知らずか、それぞれの角度からそれぞれの表現でメッセージを発信するから、受け取る人が混乱したり、誤解したりするんじゃないか、とぼくは思っている。

 

もちろん、ぼくのこの解釈も間違っているかもしれない(そもそも、亮完さんの話だって、ぼくのフィルターを通っている以上100%亮完さんが言っているのと同じではない)。ぼくはそう思っている。

 

唐の高僧、暢珊(たいそう立派な福耳だったと言い伝えられている)は「逆境こそ、真の喜びに至る一里塚なり」と言い残したと言われている(嘘)。

 

もちろん、いきなり他力ゾーンに突入する人もいるらしいのだが、基本的にはまず自力で立てるところまで行って、そこから他力が働き出すというのが自然の摂理っぽい。

 

故に。逆境を恐れるな。オレよ(笑)。

 

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