部下の指導と「自責」で捉えること

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さて、今回は宣言通り、マサルさんにお誘いいただいたイベント「YeLL Dialogue Night」について書こうと思う。

 

よし!宣言通り!!エライ!エライぞオレ!!←ハードル低すぎ

 

オトナなマサルさんと、大人向けなイベント

マサルさんと僕は、共通の知人を通じて知り合った。初対面の時は正直「年上?」と思ったんだけど、それはどうやら彼が落ち着いていてオトナなだけだったみたい。うん。その印象は今もあんまり変わらない。

 

で、マサルさんが関わってるYeLL(エール)株式会社が主催するイベントが「YeLL Dialogue Night」。そもそも組織コンサルとかそういう感じの業容(で、正しい?)の会社なので、イベントの内容も組織内の人間関係等に関するものになる。

 

今回のテーマは「最新の組織論と事例をヒントに、部下の主体性の引き出し方を磨こう」。ふむ。僕には部下なんていないし、部下の主体性の引き出し方なんて磨いたところで、使い道はない(笑)。

 

でも、マサルさんのブログが面白くてコメントしているうち、「このブログに興味あるなら、たぶん面白いと思うんで、ぜひ来てください!」とお誘いを受けたので、行ってきました。

 

結果、めちゃんこ面白かった(笑)。

 

部下のマネジメントを取り巻く環境は、変化している

まず、共通見解として持っておく必要があるのは、時代は変わっていて、旧態依然とした部下マネジメントの手法は、既に通用しないってこと。第一、昔はスマホSNSもなかったわけで、大学を出た同級生が今、どんな仕事をしているかなんて、たまに集まった飲み会で知るくらいしかない。なのに今は、それを知ってるのがフツーになりつつある。

 

また、入社する側としても、ベンチャーに入社する、起業するなんてのも、一昔前は珍しい選択肢だった。でも、今やベンチャーで若くして取締役になってみたり、起業して社長になって、悠々自適な生活なんてことが普通にある。んで、大学時代の同級生がそんな状態になってるのをSNSで目の当たりにしちゃったりして「オレの人生、これで良いのかな」なんて思ったりすることもある。まー、今の時代のあるあるだよねと。

 

しかも、大企業だと上が詰まってる。20代のすぐ上の上司が40代なんてザラで、40半ばになってもヒラ、なんてこともある。オイ、誰が万年ヒラ社員じゃ!(被害妄想)。

 

てなわけで、部下を持つ上司としては、非常に部下のマネジメントが難しい時代に入りつつあるよー、という大前提の共有からスタート。うむ。わかる。わかりやすい。

 

人間は感情で動きやすい動物である、ということ

その上で、部下にどう動いてもらうのがベストか。そこで出てくるのが「人間は情動・感情から意思決定して行動することが多い」というお話。決して損得や理論・理屈(だけ)で動くもんじゃない、と。

 

しかも、最初に与える印象が「恐怖」か「安心」かで、相手の動きが変わる、という。お察しの通り、最初に「恐怖」を与えてしまうと、自主性もへったくれもない。その先には、何もない。だから、「若手にナメられないように、最初にビビらせておくんだよ」的、野球部的マネジメントからは何にもプラスのものは生まれないということだ。へーへー。

 

この辺の話はちょいと端折るけど、「予測と刺激のギャップ」があればあるほど、わかりやすく言うと「驚き」があると、人は行動に移りやすいらしい。だから、定例会議が眠たくなるのは当たり前。だって、同じような報告を毎回同じ人が、同じトーンで話すんだもの。そりゃ予測通り過ぎてつまらんし、行動にも反映されない。そこに「驚き」が加わると、人は動く。マーケティングにも通じるものがあるかもねー。

 

感情・認識・仕事の意欲はつながっている

んで、面白かったのは「Innner Work Life」という考え方。要は「感情」・「認識」・「仕事の意欲」はつながってるよ、という考え方。しかも、同じ刺激が加わっても、人によってその作用は大きく異なる。

 

例えば、上司から仕事の指示として「何してもいいよ」と言われたとき。

 

Aさんは「マジすか!何しても良いんだ!」と、ワクワクして仕事に臨む。「何をしてもOK!」という認識をして、「楽しい!自由!」という感情を味わって、仕事の意欲がアップする。

 

一方、Bさんは「マジすか!何したらいいんだろう?」と、困ってしまう。「明確な指示がない」という認識をして、「うわー困ったな・・・」という感情を味わい、仕事の意欲が減退する。

 

同じ働きかけ、刺激を受けても、受け手によってその作用が異なるんである。

 

そして、全てつながっている

「部下が自主性を発揮してくれない」と上司が嘆くとき、それはたいてい上司が(意識的にしろ、無意識的にしろ)部下の自主性を摘んでしまっていることが多い、という。

 

例えば、「Aはあれだけ頑張ってるんだから、お前も頑張れよ」という上司からの一言を、Bさんが「激励」と取るか「Dis」と取るかは、Bさんの性格や過去からの蓄積データによる、らしい。

 

となると、部下が自主性を発揮してくれないのは、他ならない自分の責任かもしれない、と上司が受け止める必要が出てくる。「自分だったら、激励だと思うんだけど」ってのは、極めてキケンだ。上司が「激励!」と思って発している言葉が、部下には「叱責」、「嫌味」に聞こえている可能性だってあるわけだ。

 

これはもう、ある意味「自責」の世界だ。部下が自主性を発揮しないのは、自分がそういう部下を作り出している、と真剣に思えるか。そして、どういうアプローチを採れば、部下が自主性を発揮して動いてくれるのかを考える。

 

同じようなことは、仕事の進め方を説明する時にも出てくる。「A→B→C」という仕事のプロセスは、その仕事に熟練した人なら当たり前すぎて説明する必要すらないかもしれない。あるいは、営業活動をする中で「この客はもう暖まってる」とか「この客はもう少し寝かした方が良い」みたいな頃合いを計るのは、実は経験則だったりすることもある。

 

それを「そんなの当たり前でしょ」、「見ればわかるでしょ」で済ませてしまうのは、あまりに厳し過ぎる。「部下が仕事をできないのは、自分の指導がわかりにくいせいかもしれない」と思えば、「何がわからないのか」、「どこでつまづいているのか」という現在地を把握することから始める必要が出てくる。

 

と考えると、今僕がやっている楽読のメソッドというかプロセスと極めて似たものが出てきてしまう。現在地を確認して、どうすればゴールに到達できるかを考えて、共に進む。

 

「いいからやれよ」、「やってるうちにわかってくる」、「仕事は盗んで覚えろ」的なマネジメントからは、そろそろ脱却する時期なのかもしれないなあ、と思った今日この頃。いやー、面白かったし参考になった。マサルさん、ありがとう!!!

『字源の世界』を知る

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最近、インプットの機会が多い。意識的に増やしているのもあるけれど、人からお誘いを受けることも多いし、「これは何か面白げ」と、自分のアンテナが反応することも増えた氣がする。

 

なので、色々インプットしたことのアウトプットもしたいのだけれど、追いついてない(笑)。しかも、途中で竹原ピストル愛を語り始めちゃったりするもんだから、余計追いつかない。

 

とりあえず、今回は直近で参加してきた「字源の世界」について書きたい。今後の予定としては、友人であり、とても素晴らしいブログを書いてくれているマサルさんにお誘いいただいたイベント「YeLL Dialogue Night」についてと、僕が敬愛する惣士郎さんのセミナーに参加してきた話を書きたいなと思っている。

 

宣言すりゃ書くだろ、的な感じで自分にプレッシャーをかける(笑)

 

書道家・遠藤夕幻という男

僕の友人に遠藤夕幻という書道家がいる。知り合って1年くらいなのだけれど、人との境界線を割とはっきり引きがちな僕にしては珍しく、初対面からあまり他人という感じがしない存在である。

 

ついでに言うと、お互いがお互いの家に行ったことがあるという点でも、割と珍しい存在ではある(笑)。

 

さて。その彼が登壇(というのかな)するイベントが、今回のテーマである「字源の世界」だ。読んで字のごとく、文字の根源を探って、その意味を改めて知ろうじゃないか、という目的のイベントである。

 

生粋の漢字マニア、夕幻

このイベントに参加して思ったのは、夕幻という男が漢字愛にあふれた男であるということだった。白川静さんという研究家がまとめ上げた「字統」という辞書を使って、甲骨文字から篆書などを経て現在の漢字に至るまでの変遷を見ていく。

 

そもそも、その情熱がスゴイ。僕ならここまで追っかけるだけでヘロヘロになる、というかイヤになる(笑)。

 

それを夕幻くんは硬軟織り交ぜつつ、マンガ(大のマンガ好きでもある)ネタなども織り交ぜつつ、実にわかりやすく説明をしてくれる。

 

例えば「雷」。なぜ「雨+田」で稲妻になるのか、確かにずっとピンと来ていなかったのだけれど、どうやらここでの「田」は田んぼではなくて、象形文字的に「太鼓」を指しているらしい。

 

つまり、太古の昔、人々は雷は雷神さんが太鼓を鳴らしているイメージをしていた、というわけ。そう聞くと、ははあなるほど、となる。

 

甲骨文字は象形文字の一種だから、形で意味をあらわす。そんなわけで、「雨」から「巫」という文字が派生したりする。雨乞いを行うのは、巫女や巫覡(ふげき)と呼ばれる呪術者の役割だったからだ。それだけ、昔の人にとって「雨」というのは恵みであり、大切なものだった。

 

そう教えてもらえると、なるほどねー、にもなるし、とても納得がいく。

 

■てな具合に、昔の人々に思いを馳せる

そして、甲骨文字を使っていた人たちの時代背景を見てみると、その漢字がどういう意味を持っているのかが、より理解できるようになる。さらに、漢字(というか甲骨文字)に込められた意味が分かるようになってくる。

 

例えば、「祭」と「祀」の違いについて。確かに、両方「まつり」と読む。でも、この講座に来るまで考えたこともなかった。

 

夕幻くんの解説によれば、(端折るけど)「祭」は神様にお供え物を捧げているところを表現している。そして、ここで指す神様というのは主に「祖」、自分たちの祖先だったり、先達のことを指しているんじゃないかという。

 

一方、「祀」の方はしめすへんに「巳」と書く。巳は龍の化身であり、自然神、自然崇拝を表している。つまり、土地の神様に対する「まつり」を言い表しているのだと言う。なーる。

 

つまり、我々の祖先はもともと、「祖」(自分たちの祖先や先達)を神様として崇めると同時に、自然そのものにも神が宿っている、あるいは、自然そのものが神様として考えていたらしい。だからこそ、自然に対する畏怖の念があったし、自然の中で、自然と共生するという意識があったんじゃなかろうか、と思う。

 

単に漢字のお勉強というわけではなく、昔の人がどういう自然観・世界観を持ち、どんな社会で生きていたのかを、漢字の成り立ちを通じて学ぶ。そういう意味で、ホントに興味深いイベントでした。

必要なのは「走り始め続けること」だ


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勇者ヨシヒコで言えば、仏でも出てきそうな空。

 

ここ数日、ブームが来ている。

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「何のために」を考える

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こんなテーマのブログを以前にも書いたことがあるような氣がするけれど、構わず書く。なぜならば。改めてまた、このことが僕のテーマになりつつあると実感しているから。

 

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イベントと「無財の七施」について

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 Photo by Chisako

 

どうも。7月ですね。ここ最近も、皆さんとシェアしたい話題や氣付いたことなど、多々あるのですが、今日はどうしても、この話をしないと氣が済まない、と内なる自分が申しておりますので、それを書きたいと思います。

 

その前に言い訳を一つ

でもね、今から書こうとしている話は、書いたところで僕にとっては何の得もないんです。僕にとっては。むしろ、損することはあるかもしれない。「アイツ、何か感じ悪くね?」みたいに受け取られる可能性も多々あるので、本人的にはあまり書きたくはない。

 

でも、どうしても自分の内側から「モヤっとしたんだったら、今のうちに書いておいた方が良い」というキモチが湧き上がるので、書きます。

 

だから、こんなことを書いた僕を嫌いになっても、「そのたもろもろ」は嫌いにならないでください!と、平成の名言風な何かを盛大にパクりつつ、書きますね。

 

イベントには、大きく分けて3種類の人が集まる

イベントを主催すると、その場にいる人を大きく3種類くらいに分類できるなあと感じます。

 

まず、「お客さん」フツーにお金を払うなり、何なりして来てくれた人。これはホントにありがたい。時間を使って、お金も使ってイベントに参加しに来てくれるわけで、こんなにありがたい存在はありません。

 

次に、スタッフ。これは、大きなイベントであればお給料を払って仕事としてスタッフをしてくれるケースもあるでしょうし、自分たちが主催してやるようなイベントの場合、友だちに無償で頼むこともあるでしょう。いずれにしても、これも本当にありがたい。だって、本来ならばお客さんとしてのほほんと楽しんでも良いか、あるいは興味がなければ来なくても良いところに、わざわざ手伝いをしに来てくれるわけです。これも本当にありがたい存在。

 

でも、この2種類の人と同じくらい、場合によってはそれ以上にありがたい存在が、「スタッフみたいなお客さん」なんです。何それ?と思うかもしれませんが、いるんです、たまに。スタッフをお願いしているわけではないのに、パパパッと色々氣付いて、ちょこっと手伝ってくれたりする人。例えば、イスをしまったり、会場の設営を手伝ってくれたり、何か取りに行くとき、率先して行ってくれたり、イベント中に、小さい子どもの相手をしてくれたり。

 

ちょっとしたことでも、スタッフの手が回らないところを手伝ってくれるんだけど、実はお客さん。これは本当に助かるし、ありがたいのです。僕は、イベントに参加する際には、積極的にお手伝いをするようにしています。

 

なぜか。単純に楽しいし、それが喜びだからです。

 

無財の七施」って、知ってる?

「どうして、自分がお金を払って参加したイベントで、手伝いまでしなくてはいけないのか?」と思う方もいるかもしれません。そう思う方は、別にお手伝いなんかしなくて良いと思います。なので、ここから先は僕の勝手な思いを書かせていただきます。

 

仏教の世界には「無財の七施」という考え方があります。これは、「財力や智慧が無くてもできる七つの施し」のことです。

 

参照ウェブサイト

『無財の七施』~誰でも出来る仏道修行 七つの施し | 法華宗真門流

 

例えば、いつも優しい、慈しみの眼でいる「眼施」、いつも和やかに、穏やかな表情でいる「和顔施」。いつもそういう表情や意識でいることで、お金も何も使わずに、周りの人にお布施ができる、と釈尊は説くわけです。

 

その中に「身施(捨身施)」というのがあります。前述の参照サイトに依れば、こうあります。

 

自分の体で奉仕すること。模範的な行動を、身をもって実践することである。
人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよく実行することである。

 

別に僕は、イベントに行って手伝いをすることが「模範的な行動」とは言いません。でも、誰かがやらなくてはいけなくて、別に誰もがやりたがることでないのなら、まあ、(もちろん、主催者やスタッフに確認して)僕がやりましょう、という気持ちでやらせていただいています。

 

こう書くと、まるで僕がエライのを言いふらしたいがために書いてるように見えるかもしれません。

 

その通りです(キッパリ)。

 

こうして、スタッフでもないのに手伝いをしていると、主催者の方から「ありがとうございます」とか「助かります」と言ってもらえることもあります。それは、本当に嬉しい。言ってもらえない、氣付いてもらえないとしても、誰かが実はちゃんと見てる。少なくとも、僕は僕の行動を見てますから、「今日もいい仕事したなあ」と思うわけです。

 

あなたはそのイベントに、どういう意識で参加してます?ということ

つまり、単なる「お客さん」として参加しているのならば、それはそれで良いでしょう。何か、イベントから学べるものや、楽しみが得られれば良いですね、と思います。

 

あるいは、「何か自分ができることを提供する準備がある人」として参加している場合。それは、やっぱりただの「お客さん」とは違ってくる。行動も違えば、意識も違ってくる。自分がその場で何をできるのか、何を提供できるのかと考え、行動する。そうすると、イベントに参加したり、登壇者の話を聞く意識が変わってくる、と僕は思います。

 

 

僕は(もともと裏方とか、サポート役が好きだから、というのは大いにあるとして)、いつも「自分ができることなら、何でも提供する」というつもりで、イベントに参加しています。でも、何もしないこともある。でも、それはそれでオッケー。

 

大したことではないですけども、自分が何かの役に立つ、ってのは喜びですよ。それを味わう機会があるんですから、それに乗らない手はないよね、というお話です。

 

ただ、これを書いてしまうと、僕が身施をするという喜びを得る機会が減ってしまうかもしれないので、書きたくなかったのです。でもまあ、良いです(笑)。

流れよう、流されよう(あるいは、夏至の真夜中に)


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Photo by Chisako
 

 

「占い」ってものを元々はあまり「信じない方」だったのだけれど、最近はどちらかというと「信じる方」になっている。

 

とは言え、別にテレビの星占いを見て「えー!今日のラッキーパーソン、マサ斉藤だってー」とか、「今日のラッキーカラーは緑だから、三沢のコスチュームで出掛けようかなー」とかはしない。そもそも、三沢のコスチューム持ってない。

 

僕がなんとなくウオッチしている占いに「しいたけ」(名前です)さんの占いがある。僕はこの人の2017年上半期の占いを見て、その圧倒的ボリュームと的確さのあまり、一時期「しいたけ、私を監視している説」を唱えていたくらいだ。

 

voguegirl.jp

 

そのしいたけ先生、ついに先日下半期の占いを発表した。それによると、僕はどうやら上半期に引き続き「大きな運命の荒波に飲み込まれろ」ということらしい。

 

この上半期だけでも、僕個人にはずいぶんと大きな変化があったし、転換点もあった。しかも、そのいくつかは僕が選んだものだけれど、いくつかは、明らかに「渡された」ものだった(しかも、こっちの方が数は多い氣がする)。

 

要は、どうやら僕は(齢40にして)大きな運命の変化点に立っているようなのだ。

 

人生をコントロールするということ

良くも悪くも、今までの僕は真面目人間ギャートルズであり(笑うところですよ!!)、とても安定した生活を送ってきた。例えば、2度ほど転職はしたけれど、無職だった期間は極めて短く、後はサラリーマンとして手堅く勤めてきた。25歳の時に結婚をして、子どもはいなかったけれど、夫婦円満な家庭を築いてきた。

 

もちろん、本人なりにはいろいろあったけれど、振り返って見ればさほどの大波もなく、順風満帆に人生を送ってきた。そして、とても幸せであった。

 

と書くと、まるで今、不幸になったように読めるが、そんなことはない。また、サラリーマンを辞めて独立でもするようにも読めるけれど、そんなこともない。

 

ただ、今までの人生は、ある程度自分でコントロールしてきたなあ、という印象はある。さながら、往年の北別府(学)もしくは西本(聖)がごとく、針の穴を通すかのようなコントロールをしてきたわけだ。

 

社会人として、企業人として、または家庭人、よき夫として、バランスを取ったり、自分で自分の枠をある程度決めて生きていたかもしれないなぁ、と思う。

 

そして今、「流されてみよう」

そのことは、けっして悪いことだとは思っていないし、必要な経験だったなと思う。ただ、今からの僕が感じているのは「流されてみよう」ということだったりする。

 

僕は基本的に「流される」のが嫌いである。それは「ホントは流されやすい」から。

 

例えば、呑んだ流れでカラオケ~なんてことになった時。ほんとは「あああオレはカラオケなんて行きたくないのにな歌なんて歌いたくないし家に帰ってAVでも見てとっとと寝たいよ明日も早いんだし」と思っても、氣付けばB'zの『zero』なんか熱唱してる自分がいたりする。明日早いんじゃないのか。

 

だから、大きな選択に関しては割と慎重に判断してきた。というか、正確に言えば大切な判断はたいてい、パートナーに任せきりにしていた。だから、誰かから何か大きな提案を受けたときは「いーよー!」と即決することは殆どなかった。大体パートナーに相談して決めてきた。それはそれでよかった、と思う。

 

時には、「流れ」のようなものを思考や過去データから「無いね」と判断してきたかもしれない。正直な話、そのことに自分でも氣が付かないくらい、僕は「流れ」や「思い付き」、「直感」よりも「過去の実績」や「社会通念」みたいなものを優先してきたように思う。

 

ただ、そろそろその時期も終わりを迎え始めているっぽい。

 

直感や自分が信じた道を進んでみる。ある意味、自分でコントロールするのではなく、流れに身を任せてみる。もちろん「全て上手くいく」というゴールだけは設定して、その上で、プロセスは手放す。

 

自分がこうなりたい、こうしたい、こうしよう!みたいなものは、極力外す。もちろん、それが「成長したい」というモチベーションになることもあるけれど、実はもう、身に着けている技術や能力だけではなく、何か流れの中から渡されるもの、発見するものを得ていこう、と思う。

 

それは、ひょっとしたら僕を想像だにしなかった世界に連れていくかもしれない。それはそれで、良いんじゃないの?と僕は思っている。

 

自分がどこへ行くのか。どんな可能性を発揮するのか。流れよう、流されよう。そして、新しい自分を見つけよう。

 

BGMは、こんな曲。

 


B'z ZERO LIVE-GYM Pleasure2013 ENDLESS SUMMER

 

流れよう、流されよう この波に揺らされ

ゼロがいい、ゼロになろう もう一回

 

 

 

世界はそれを執着と呼ぶんだぜ

 
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photo by chisako

 

 

どうも。毎度毎度、自分が思ったことを好き勝手に書いているブログですが、今回は特にエモい(使い方、合ってるだろうか)内容になりそうです。なんともはや。でも書く。

 

基本的に、いつ死んでもいいと思っているし、いつ死んでも良いように生きていようとも思っています。

 

例えば、このままだと地球に隕石が衝突して、地球が消滅してしまう!それを防ぐためには、隕石が大気圏の突入する前に破壊するか、コースを変えるしかないんだけども、そのためには誰かが隕石に穴をあけて、その中心でダイナマイトかなんかを爆発させないと・・・なんていう状況があった場合、僕はぜひ、そのクルーに加わりたいなあと思っている。

 

www.youtube.com

 

ええまあ、ハリウッドバカですよ(笑)。でもまあ、実際そう思っている。ただ、本当にその時が来た時に、元気よく「ハイっ!」と手を挙げられるかどうかまではわからない。

 

♪ピッチャービビってる~ヘイヘイヘイ

この、有事の際に「ハイっ!」と元気良く、何のためらいも躊躇もなくクルー募集に手を挙げて、エアロスミスの「ミス・ア・シング(I Don't Want to Miss a Thing)」のメロディが流れる中、意気揚々と宇宙船に乗り込めるか?というと「正直わからない」あたりに、今回のテーマがある。

 

そう。僕は未だに「恐れ」を感じている、と思う。そういうことを直視せざるを得ない状況が、最近ちょくちょく起こっている。何かを失敗したり、手放したり、人から嫌われたりするのをとても恐れている自分がいる。

 

要するに、「ビビってる」自分がいる。

 

まさにピッチャービビってる~ヘイヘイヘイ状態なわけだ(野球部経験者にしか伝わらんネタ)。

 

www.youtube.com

↑つうか、なんすかコレwww

 

「僕は人見知り」キャンペーン((C)ひすいこたろうさん)

以前の僕は、色々なことから体よく「逃げてきた」ことに氣がついた。

 

例えば。昔の僕は自分のことを話すのが嫌いだったし、なるべく自分の話をしないようにしていた。それは、「こんなことを言ったら嫌われるんじゃないか」、「こんなことを言うとオカシイと思われるだろう」と、ブレーキを踏みまくっていたから。

 

こと、異性に対してはそれが顕著で。こちらが相手に好意を持っていても、それをストレートに出すことが大変ニガテだった。だから、当然うまく行かない。

 

なのに、時々「あーもー、らちが明かない!」と思って、ヘンな形で自分の好意を相手に渡してしまって、その後の関係がおかしなことになってしまった経験も(山ほど)あり、いよいよ自分の気持ちや感情をオープンにすることに恐怖を覚えるようになった。

 

おかげで、同性・異性問わず、人間関係において、そういう「おっかなびっくり感」を持ち続けてきた。だから長いこと「僕は人見知り」というキャンペーンを長く行ってきたのである。

 

人見知りキャンペーンについては、天才コピーライター・ひすいこたろうさんが、とても分かりやすく書いてくれてる、というか、これを読んで「そうなんだ!」と思ったので、ぜひ。

 

ameblo.jp

 

その「執着」を手放そう

で。最近、そういう自分を多少なりとも変えていこうとは思っている。

 

今年の4月に15年連れ添ってきた(という言い方は、あまり好きではないんだけど)パートナーの籍を抜いたこともあって、より強く、そう思っている。でもやはり、まだその恐れはあるようで。

 

僕はその「失敗する」とか「拒絶される」ことが、たまらなく恐ろしいんだね、ということに氣が付いた。

 

で、これって「執着」だなと思ったのだ。上手くやりたい、スマートに物事を進めたい。あるいは、目の前にいる女の子と付き合ったり、良い関係を続けたいと願う。それはまさに「執着」だろう。

 

執着(しゅうじゃく、abhiniveza अभिनिवेश (sanskrit))とは、仏教において、事物に固執し、とらわれること。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きとする。

(引用:wikipedia「執着」)

 

冒頭書いたとおり、本当に「いつ死んでもいい」と思っているならば、ちょっとした恥ずかしさや失敗や、拒絶されることなんて、大したことじゃないだろう?と、自分でも思う。ちょっとでも「拒否されたら、イヤだな、恥ずかしいな、この人との関係が終わっちゃうな、周りにどう思われるかな」と思っているから、動けないわけだ。

 

でも、もし、明日死ぬとしたら、そんなことを考えている場合だろうか。明日の朝には「ミス・ア・シング」のメロディが流れる中、ケネディ宇宙センターから隕石をぶっ壊すために宇宙へ飛び出していくんだとしたら。

 

それは、恋愛に限った話ではない。仕事面でも似たようなことは起こるし、友人関係でだって起こり得る。

 

失敗したくない、手放したくない、失いたくない。でも、このままの状況にも満足はしていない、みたいな。

 

ひょっとすると、だからこそ一度、手放してみることが必要なのかもしれない。自分の意思や思惑で相手や状況をどうこうしよう、という意識を一度捨てる。んで、委ねる。自分はこう思ってるんだけど、どう?みたいな。

 

相手が僕の好意をどのように受け取るかは、相手に委ねられるべきテーマであって、こちらがどうもこうもできる種類のものではない。

 

だから、とりあえず自分の率直な感情を出してみて、相手や状況に判断を委ねる。その結果、それまで築いてきた関係性が壊れてしまうのも、まあ仕方がないよね、と。

 

 

こんなブログを書いたところで、何の解決にもならないことは百も承知である。でもこれは、僕自身の修行、あるいは納得のために書いている。でも、どこかで誰かの心に響いて、役に立ったらいいなとも思っている。

 

少なくとも、僕の役には立っている。「誰かに読まれる!」と思って書くことで、自分のココロの在り様が、よりわかる氣がする。ありがとう、読んでくれた皆さま。そして、ありがとう、はてなブログ