答え

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結局、答えは自分の中にある。

 

自分の中、とは言ったものの、

それは例えば

守護霊さんが知っている、でも

宇宙から答えが降りてくる、でも

表現方法はなんだって構わない。

 

ただ、

この世のすべてはある意味

マボロシであり

自分の意識の現れであり

そこに答えはない。

 

ということが言いたいのです。

 

なにか、

歯車が噛み合ってないなとか

ズレてる氣がするなと思うときは

その答えは自分が既に知っている。

 

そう思った方が良いみたいだ。

 

なんか嫌だな、

なんとなく違和感があるな、

なにかがオカシイ。

 

物事を見て、あるいは

誰かの言動を見てそう感じたときは

自分の中に問いかけた方がいい。

 

なぜ、そう感じるのか?と。

 

もちろん、さっきも言った通り、

守護霊さんに聞いても良いし、

宇宙に問いかけてみても良い。

 

ともかく、

目に映る「現実」のようなものには

答えを求めても意味がない、っぽい。

 

そんなことを感じている。

 

ぼくもこのところ、

違和感のようなものを眺め続けている。

 

ぼくの何が反応しているのか。

ぼくはなぜ、そう感じているのか。

 

 はっきり言って、しんどい(笑)。

 

そんなことをするよりは、

誰かのせいにしたり、何かのせいにして、

「だから世の中良くならねーんだよ」とか

「これだから今どきの若いもんは」とか

「トシは取りたくないもんだねぇ」とか

なんつってる方がナンボか楽だと思う。

 

たぶん。

 

注)

別にぼくは若い人に対して

怒っているわけではなく、

世の中の不正を

憂いているわけでもありません。

あくまでもただの例です。

あしからず。

 

でも、まあ解決しないんだよね、

それでは。

 

なにかに違和感を

感じるということは

自分の中で

不調和をきたしているということ

みたいなんだよねえ、

と言いたいのです。

 

それが、どんな不調和なのかは、

悲しいかな、自分で探るしかない。

 

もちろん、

ひとの助けを借りるのも

いいでしょう。

 

ただ、そのひとが

答えを持っているわけではない。

 

ぼくも占いの類は

(最近認めたけど)好きだし、

結構見る。

 

しいたけ占い」なんか、

毎週チェックしている(真顔)。

 

でも、占い師が

物事のすべての

答えをつかんでいる、

わけではない。

 

当たり前なんだけど。

 

結局のところ

 

「自分で考えろ」

 

という、

面白くもない結論に

なってしまう。

 

やれやれ。

 

ただまあ、

最近、ぼくの中で出た

答えの一つは

「求められてないことはするな」

ということだった。

 

例えば。

 

ミッシェルガンエレファント

(またはバースデイ)のボーカル、

チバユウスケが、ライブで

さだまさしばりに

長々としゃべったら?

 

たぶん客は途中で飽きるだろう。

 

逆に、さだまさしがライブで

一言もしゃべらなかったとしたら?

 

これまた、客は不満だろう。

 

わかりにくい例えだけれども。

 

要するに、

そのひとにはそのひとに

求められてることがあって、

それを全うするのが

そのひとにとっても幸せだし、

一番世の中の

お役にも立つんだろうと思う。

 

ぼく?

 

そう。ぼくはぼくで

求められてもいないことを

たくさんやってきたのかもな、と

最近感じ始めている。

 

ま、これも学びだよね。

 

まとまらなくなってきた(笑)。

 

とにかく。

 

あなたがもし、

なにかモヤモヤを

抱えているなら、

ひとに聞く前に

自分に聞いてみよう、

ってこと。

 

答えは、自分が既に知っている。

 

知らないふりをしているか、

持ってる答えに氣付いていないだけ。

 

そこにタッチできれば、

物事は変わっていく。たぶん劇的に。

 

そのくらい、本来のあなたは

エネルギーに満ち溢れている。

 

らしいっすよ。

 

んじゃね。

  

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OVER


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終わりは始まり。

 

シェイクスピア、特に『マクベス

あたりに出てきそうなセリフですが、

残念。出てきません。

 

でもね。終わりは始まりなんだよね、と

改めて最近思っているのです。

 

ぼくが密かにミスチル

Mr.Children)の中でも

隠れた名曲だと思っている

『Over』という曲がありまして。

 

いや、隠れてないかもだけれど、

それはまあ、置いておくとして。

 

心変わりして別れた彼女に対する、

正直じめっとした男心を

歌う曲なのですが。

 

最後、このように〆るのです。

 

何も語らない 

君の瞳もいつか思い出となる

言葉にならない 

悲しみのトンネルを 

さあくぐり抜けよう

 

桜井和寿、天才か。

いや、ぼくが言うまでも

ないことなんですが。

 

そう。

 

終わらないと、

何も始まらないのです。

 

いや、ぼく自身のことで言えば、

何かがあったわけではないのです。

 

むしろ、何もないと言っても良い(笑)。

 

例えば、さ。

 

誰か大切なひとの葬儀に立ち会ったとか

彼女さんと別れたとか、

そういうことがあったかっちゅうと、

そういうわけではない。

 

でも、一度きちんと、

色々なことを終わらせないと、

次のステップにも進めない。

 

そんなことを感じる

今日この頃なのです。

 

何となく宙ぶらりんにしておけば、

その中でぬくぬくと

心地良くいられるかもしれない。

 

でも、そこに未来はたぶんない。

 

だから、

終わったことを嘆くより、

始まったことを祝おう。

 

そう思うのです。

 

終わりは、始まり。

 

そう。だからこそ。

 

終わらせよう。

 

そして、

新しく始めよう。

 

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氣付いて認める


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全ては、氣付いて、

認めることから始まるんだなあ、

ということがわかったのです。

 

最近氣がついたのですが、

ぼくは「距離感」みたいなものを

測るのがどうも苦手らしく。

 

物事との距離感、もそうだし、

人との距離感、もそう。

 

 

ぼくはつい、ひととの距離感を

(意識的にか無意識的にかはわからんけど)

近めに取ってしまう傾向にあるっぽい。

 

で、失敗する。

 

近付き過ぎて嫌な思いをしたり、

相手に嫌な思いをさせてしまったり。

 

特に、このひと好きだなあ、

と思ったひとに対して、

そういうことが起きやすい。

 

だから、なのかなんなのか、

近付き過ぎた!と思うと、

今度は大幅過ぎるくらい大幅に

距離を取ろうとする傾向にある。

 

何なら、こないだまで好きだったのに、

急に嫌いだと言い出すほどに。

 

そうすると、当然のことながら

関係性は徐々に薄れていく。

 

あるいは、何となく変な空気が

お互いの間に流れ始める。

 

そりゃそうだよね。

 

話は脱線するのですけれど。

 

宇宙ってすごくないですか。

 

惑星同士は適切な距離を保って、

干渉しあわず、衝突もせず、

運行し続けている。

 

ぼくには、あれが今のところ

上手にできないのです。

 

このひと好きだなあ、と思って

近付き過ぎた後、

振り子のように逆に振れて、

盛大に距離を取ろうとする。

 

このひと嫌い、とか

腹立つ、とか、

ココが氣に食わないとか

思ったりする。

 

そんなことを繰り返し続けている。

 

 

でも、氣が付いたのです。


嫌いだな、腹立つな、苦手だなと

思ってるのは、なんでか。

 

それは、実はすごくそのひとに対して

関心があったり、愛情があったり、

期待しているからなんだな、と。

 

そのことに氣付いて、認められたのです。

 

そしたら、少し楽になった氣がしたのです。

 

だから何だ、と思うかもしれないけれど。

 

もし、あなたが誰かを見て、

腹立つなとか、嫌だなとか、

ああいうのは好きじゃないと思うとき。

 

ただ単に「嫌い」なだけじゃなくて、

その裏側には、あなたが見たい相手の姿、

ってのがあるからかもよ、と

言いたいのです。

 

そして、それも良いじゃない。

 

認めましょうよ。

 

相手に「こうあってほしい」と思う

あなたの(あるいはぼくの)氣持ちは

決して悪いものではないし、

封じ込めなくてはいけないものではない

とぼくは思うのです。

 

ぼくはあなたにこういうひとであってほしい、

というのは、期待である。希望である。

 

ぼくの勝手な願望である。

 

それもまたよし。

 

それだけ相手に興味や関心や

愛情があるってことなんだから。

 

認めよう。

 

そこを認められたら、

相手と自分とのちょうどいい距離感を

見極められるかもしれないなあ、

なんてことを考えています。

 

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自分フィルター

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映画『イップマン 継承』を見ました。

 

通常、1、2があるものをすっ飛ばして

3を見ることをしない私なのですが

(『継承』は3作目)、

でも良かった。とても良かった。

 

本作品を見て、

言いたいことは色々あるのだけれど、

一つだけどうしても書きたいので書きます。

 

実はイップ・マン(葉問/人名です)、

ブルース・リーのお師匠さんに当たることでも

知られています。

 

本作『継承』には、

若かりし頃のブルース・リーとの

エピソードも出てきます。

 

あ、でも、史実と異なる部分も

あるようなので、

本当のことかどうかは知りません。

 

どんなシーンかというと。

 

イップ・マンの道場を訪れたブルース・リー

弟子入りを志願します。

 

それを聞いたイップ・マン、

ブルース・リーに対して

ちょっとしたテストを出します。

 

その最後に、イップ・マンは

ブルース・リーに対して水をかけ、

リーはその水を蹴ろうとします。

 

「水を蹴ることはできたかね?」

と尋ねるイップ・マン。

答えられないブルース・リー

 

イップ・マンは黙ってドアを開け、

ブルース・リーは出て行きます。

 

さて。物語が終盤に近付いた頃、

イップ・マンとブルース・リーが再会します。

 

そして、ブルース・リーは問いかけます。

「どうして、あの時、私の

弟子入りを拒んだのですか?」

 

イップ・マンは答えます。

「拒みなどしたかね?

私はドアを開けただけだ。

そして、そのドアから君が出て行っただけだ」

 

はい。このやり取り。

 

こういうことって、ぼくらの日常生活にも

起きてるよね、と思うのです。

 

相手の言動の意味や意図を、

こちらが勝手に推測して、

判断してしまうこと。

 

相手にはそんな意図はない

(かもしれない)のに、

勝手にそう思い込んでしまうこと。

 

ブルース・リーにとっては、

このシチュエーションで、

イップ・マンがドアを開けるという行為は

「弟子入りを拒まれた」ことと

イコールだったわけです。

 

イップ・マンは、ひょっとすると、

ブルース・リーが勘違いする可能性をも

見抜いていて、その上で

黙ってドアを開けたのかもしれません。

 

ぼくが見ているこの世界は、

ぼくが創り出しています。

 

同じように、

あなたが見ている世界は、

あなたが創り出している。

 

言い換えると、

ぼくらは、自分というフィルターを

通した世界を見ていることになります。

 

だからこそ、覚えておきたいのは、

自分のフィルターと他人のフィルターは

全くと言っていいほど違う、ということ。

 

なにか、他人の言動で

腹が立ったり、悲しくなったら、

これはホントにそういう意図だったのか?と

自分のフィルターを疑ってみることを

おススメします。

 

案外、こちらの勝手な

思い込みだった、

ということもあったりします。

 

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好きなもの

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おモチが好きなんです。

 

三度のメシよりモチが好き、

とまでは言いませんけども、

三度のメシがモチでも良いかなと

思うくらいには餅が好きです。

 

お雑煮も好きです。

なぜお雑煮は正月にしか食べないのか、

と常々思っています。

 

なので、お正月は

お雑煮ばっかり食べてます。

 

おせちも好きなのですが、

どっちかと言われると

お雑煮でしょうか、最近は。

 

この「好き」という感情。

 

「なんで?」と問われても、

答えに困ったりします。

 

おモチが好きな人は、あの食感だとか、

味だとかが好きなんだけれど、

あの粘る感じとか、

伸びる感じがどうにも許せない、

って人も世の中にはいるでしょう。

 

「好き」っていう感情には、

根拠がありそうで、

実はないんじゃないかと思っています。

 

もちろん、おモチに関しても

「これこれこうだから好き」と

説明することはできる。

 

でも、自分がなぜそれを

好意的に受け止めているのかは、

少なくともぼくは、

自分ではわかりません。

 

「だって好きなんだもん」

としか言いようがない。

 

お笑いを見ていて

「オレは和牛が好き」

「ぼくはジャルジャルがオモロイと思う」

「ぼくは霜降り明星だなあ」

「いや、相席スタートだろ」

と意見が分かれたとする。

 

それぞれのコンビの面白さについて

分析することはできる。

 

どこがどう面白いのか?を説明し、

解明することはできるだろう。

 

ただ、もう一度言う。

なぜそれを

「好ましい」「好きだ」

と思うかのメカニズムは、

こりゃもう謎でしかない、とぼくは思っている。

 

ぼくの場合、 

モチにしろ、お雑煮にしろ、

レキシ(ミュージシャンです)にしろ、

ラ・ラ・ランド』にしろ、

『LEON』にしろ(両方映画です)、

「理屈はどうあれ好き」なわけです。

 

恋愛なんかは、

より分かりやすいかもしれませんね。

 

もちろん、好きなタイプとか、

こういう性格が良いとか

いろいろあるとは思いますが、

「なぜその人が好きなのか?」

については、

理屈だけでは解明できない。

 

だって、自分がそれを

「良い」、「好き」だと感じてるから。

 

ぼくは「理想」とか「夢」とかも

同じじゃないかなあと思うのです。

 

もちろん、過去の経験や体験から

積み上げた理想や夢もあるけれども、

「自分がこんな世界を創りたい」とか

「こういう分野で活躍したい」と思うのは、

けっこう直感なんじゃないかな?

 

ピンとくる、というか、

パッと閃く、というか。

 

逆に言うと、あなたがいくら、

過去にこれをやってきたから!と考えて、

それを活かして何かしようとして。

 

そのことについてピンと来てなくて、

エキサイティングでなかったら、

たぶん上手く行かないんじゃないかな。

 

そんなことを考えたりします。

 

ぼくらは経験や、常識や、

過去データに囚われて

生きていることが多い。

 

こうだから、こうしなきゃいけない。

過去こうだったから、

きっと未来もこうだろう。

 

これはまさに、

固定観念でしかないわけで。

 

ひとが安心して生きていくためには、

前提条件として

固定観念」が必要なこともあるけれど、

多くの場合、自分で勝手に作り上げた

固定観念の中で

悩んでいることも多い。

 

それはそれで悪くはないけれど、

ときには、自分の直感や閃きに従って

行動してみる、生きてみるのも

良いんじゃないかなあと

ぼくは思っています。

 

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しがみつかない

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映画『ボヘミアン・ラプソディー』で。

 

しつこいようだけど、もう一つだけ言いたい。

 

・・・安心してほしい。ネタバレはしない。

 

Queenが『Killer Queen』でヒットを飛ばした後、

プロデューサーと話をするシーンがある。

 

「また『Killer Queen』みたいな曲を」

 

そう言われたQueenのメンバーが出してきたのが、

当時としてはあり得ない、6分超の長さである楽曲。

 

そう、『Bohemian Rhapsody』だったという。

 

こういうことって、いつの時代にもあるんだね、

と思ったのである。

 

パッとアタマに浮かんだのが、

ビリー・ジョエル

 

『Just the Way You Are(素顔のままで)』の

ヒットを受けて「またあんな曲を」と言われ続け、

作成したのが『Honesty』だ、ってな話を

小耳にはさんだことがある。

 

これは、別にミュージシャンに限った

話ではない。

 

ぼくらは(あるいは人間は)、ついつい

過去の成功を追体験したくなる。

 

もちろん、再現性のある成功は素晴らしいけれど、

「あの時のアレみたいの」を追い求めるのは、

既に後退が始まっている証拠なのかもしれない。

 

過去の成功、ヒットは置いといて、

次の成功、次のステップへ進む。

 

そうすることでしか、ぼくらは

進化していけないのかもしれない。

 

そんなことを考えていたら、

ぼくの友人が素晴らしいブログを書いていた。

 

ameblo.jp

 

そう。

 

過去の成功事例にしがみついても

今日、明日も成功できるとは限らない。

 

過去の自分を認めつつ、

いまの自分を生きる。

 

いかに、過去にしがみつかずに

いま、全力で生きられるか。

 

ふと思ったけれど。

 

傍から見ていると

すごい実績を残してきたひとほど、

過去に執着せずに

いまを駆け抜けている印象がある。

 

果たして、ぼくはどうだろう?

 

いまを全力で生きられているか?

 

しがみつくほどのこともない過去に

未だにしがみつこうとしてはいないか?

 

学びである(笑)。

 

いつもありがとうございます。

 

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『ボヘミアン・ラプソディー』

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ひょんなことから、

映画『ボヘミアン・ラプソディー』を見てきた。

 

ものすごくQueenファンというわけでもなく、

ものすごく詳しいわけじゃないけど。

 

ま、フレディ・マーキュリーだよねとか、

ブライアン・メイだよねとか、

バンドメンバーはわかるし、

有名な曲は知ってるよ、くらいの知識で。

 

行って、見て。

終盤はまあ、泣いてた。

 

実際には、事実と違う

部分があるって話も

あるらしいんだけど、それでも。

 

ここから先はネタバレ的になるので、

これから見て楽しみたい方は

読まない方が良いかもしれない。

 

ただ、映画とは関係あるけど、

関係ない話をするので

大丈夫かもしれない。

 

ま、どっちでもいい。

任せる(テキトー)。

 

ぼくがこの映画の

何に反応したかって、

それはもう

「家族」というフレーズである。

 

ファルーク・バルサラという青年が

フレディ・マーキュリーとなって。

 

Queenのフロントマンとして

様々なものを手にしてきた中で、

最も欲していたもの。

 

それが「家族」だった。

 

敬虔なゾロアスター教徒で、

厳格な父との確執。

 

バンドとして成功する中で生まれる

メンバーとのいざこざや仲違い。

 

愛する女性と結婚しながらも、

自らがゲイ(バイセクシャル?)

であるために、彼女と

離れなくてはならなくなったこと。

 

恐らく彼は

ずっと孤独だったし、

心のよりどころが

欲しかったんだろう。

 

ひとはいつまでも

生きられるわけではない。

 

ひとはいつか必ず死ぬ。

 

そのときに。

 

誰と一緒に居られるのか。

 

心が通じ合えた家族が

自分の周りにどれほどいるのか。

 

敢えて一緒にするけれど、

ぼくやフレディが求めているのは、

血がつながっているとか

どうとかではない。

 

「家族」とお互いに認めあって

心が通じ合えるひとたちがいること。

 

フレディにとって、それは

当然両親であり、妹であり、

恋人であり。

 

それと同時に、

ひょっとしたらそれ以上に、

別れた奥さんであり、

何よりもバンドメンバーだったんだろう。

 

ここはもう、想像の世界だけれど、

Queenは、音楽を通じて

お互いを理解し、尊重し合い、

認め合い、愛していたんだろうと思う。

 

少なくとも、映画を見た感想は

そういう感じ。

 

もちろん、実際にはそんな

きれいごとばっかりじゃない

んだろうけども。

 

クライマックスのライブシーン。

 

それがものすごく伝わってくる。

 

そして、フレディの心の声が

歌詞を通して聴こえてくる。

 

そこがまた、素晴らしくて。

 

ライムスターの宇多丸さんがラジオで

「自分の人生を肯定する映画」

ってなことを言ってたけど、

ほんとその通りだなと思って。

 

それが凝縮されてるのが

実は『We are the champions

の歌詞だったりするんだけども、

引用すると長くなるので、

サビの1フレーズだけ。

 

We are the champions, my friends,

And we'll keep on fighting 'til the end

 

我々こそが勝者なんだ、友よ。

そして、最後まで闘い続けるんだ。

 

そう。闘い続けよう。

きみの、あるいはぼくの

世界の勝者であり続けるために。

 

フレディ・マーキュリーは、

実に45歳の若さでこの世を去った。

 

でも、彼は世界の勝者になった。

 

それは富や名声を手に入れたから、

だけではなくて。

 

様々な出来事や

あるいは自分自身と

闘い抜いて、

素晴らしい家族との時間を

手にできたからだ、と

ぼくは思っている。