大切な人が大切にしていることを大切にする


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大切な人が大切にしていることを大切にする。

 

また聞きで知った言葉なんだけれども、とても素敵な考え方だなあと思って、当ブログでも紹介しようと思った。

 

「大切な人が大切にしていること」を、自分も大切にしようと考えると、相手のことをより良く見て、知ろうとする。だって、相手が何を大切にしているかがわからないと、それを大切にできないからだ。

 

もちろん、相手に聞くこともあるだろう。つまり、そういう相手を尊重するコミュニケーションが自然と生まれる。だから、大切な人が大切にしているものを大切にするというのは、なかなかに深いなとぼくは思った。

 

例えば、あなたがパートナーを大切に想っているのなら、パートナーが何を大切だと考えているのか、何に力点を置いているのかを把握してみるといい。それはきっと、相手の価値観を知ることにつながるはずだ。

 

そうすると(ここからはぼくの予測でしかないけれど)、相手に対する理解がさらに深まる。身近な人のことはよく理解していると思いがちだけれど、身近な人であればあるほど、意外に知らなかったり、勘違いしているケースがある。

 

話は少しずれるけれど、ぼくが結婚していた頃、義理のお母さん(とても優しい人だ)が「これ、好きでしょう」と、色々な食べ物を持ってきてくれることが多かった。

 

面白いことに、彼女が持ってきてくれるものは確かにぼくの好物も多かったけれど、一定数「嫌いではないけれど、そこまで好物でもない」というものが混じっていた。

 

これは悪口や批判ではない。そういうもんなんだ、ということが言いたいんである。ぼくらは、相手の大切なものを知っているようで、実はよくわかっていなかったりする。それは良いとか悪いとかではなくて、「そういうもん」なんだよ。

 

だから、知ってる、わかってると思わずに、さらに理解する努力をする。少なくとも、ぼくはそうしたい。

 

自分から開示していくのも素敵かもしれない。

自分が大切だと思う人に、自分が大切にしている想いや考え方、理想や価値観をオープンにする、というのもいいかもしれない。ただ、その場合のポイントはお互いのことを大切だと思っている共通認識があること、そしてあなたの想いをちゃんと尊重して、受け止めてくれる人を選ぶことだ。

 

ぼくの場合、大切な人を大切に想うあまり、相手に対して色々と口出ししてしまうことが多い。もちろん、そのことは悪いことじゃないのだけれど、場合によっては「大切な人が大切にしていること」を見失ってしまう恐れがある。

 

ぼくが見えている大切な人の理想と、相手が大切にしている理想とが、イコールではない可能性もある。あるいは、理想は一緒でもアプローチするルートが違うこともある。

 

ぼくは「こっちの方が早く理想に近付けるのに!」と言うけれど、相手は「ゆっくり、着実に行くためにはこっちの方がいい」と思っているかもしれない。そりゃ、かみ合わない。

 

このあたりは、ぼくの磨きどころだ。だから、大切なものを開示するときは、お互いに「それを尊重する」という共通認識を最初に確かめた方が良いだろう。

 

ものすごく簡単な例で言えば、男の子にとってガンダムのプラモデルは大切なものかもしれないが、女性にとっては屁のツッパリにもならないプラスチックの塊にしか見えないかもしれない。

 

それを「何の役にも立たないもの」と一刀両断にしてしまうと(いや、それもある意味正しいんだ。ガンダムのプラモデルなんて、おそらく人生において何の役にも立たない)、摩擦を生むだけになってしまう。だから、相手が大切にしているものを、まず認めるところから始めてあげてほしい(割と真剣に)。

 

これは、大いに自戒の念を込めて書いている。ついつい、相手に自分の想いを押し付けてしまうことが多いぼくとしては、「大切な人が大切にしていること」をまずは把握すること。そして(何なら、相手以上に)大切にすること。そこから始めたいなと思っている。

 

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「~じゃない」は、「理想」ではない


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ぼくがいま活動している「楽読」(楽しく早く楽に読める速読術)のレッスンでは、受講生の皆さんに質問をする時間がある。

 

このときに、ぼくはよく「理想」について聞くことがある。例えば、「理想の一日」だったり、「2年後の理想(どうなっていたいか)」だったり、「理想のパートナー」だったり。

 

これは、聞いてみると本当に人それぞれ、バラバラで面白い。

 

理想の一日を聞くと、ホントに一日何もしないで過ごしたいっ、という人もいれば、どこかに出掛けまくりたいという人もいる。人に会わずにのんびりしたいという人もいれば、24時間人と交流しまくりたいという人もいる。

 

こんな感じで、楽読のレッスンでは、自分が思っていること、感じていることをそのまま表現できる。そこがまた、魅力の一つだったりする。とても面白いので、ぜひ未体験の方は一度体験に来てほしいなと思う。

 

○「~じゃない」は「理想」じゃない

話がそれた。

 

で。この「理想」を聞いているとき、案外多いのが「こうじゃない」状態を述べる人。

 

・ストレスがなくて

・嫌な人に会わなくて

・お金に困ってなくて

・時間に縛られてなくて

 

エトセトラ、エトセトラ。

 

うん。わかる。そういう発想になるのもわかる。んだけど、このときにぼくは「聞きたいのは、あなたの『理想』ですよ」と伝える。

 

「Aじゃない」というのは、決して理想の状態とイコールではない。必要条件かもしれないけれど、理想とは違う。「Aじゃない」のと「Bである」ことは、イコールではない。極論を言えば「嫌われてない」のは「好かれている」のとは違うし、さらに言えば「愛されてる」とも違う。

 

「あの人から嫌われたくない」と思っている以上、好かれることはないし、ましてや愛されることもない。

 

また話がそれた。違う例を出す。

 

「お金に困ってない」状態と、「お金が十分ある」状態のどちらが理想ですか?と聞いたら、たいていの人は後者が理想だと思う。

 

「お金に困ってない」とは「お金に困る」という状態を避けたいという希望だ。もちろん、それはそれでいいけれど、ぼくが言いたいのは、わざわざ「お金に困る」を最初に置く必要ありますか?ということなのだ。あくまで理想を聞いているのだから、「お金が十分ある」、「使いたいだけ入ってくる」、「10億円稼いでる」とか、そんなんでも良いわけだ。

 

別に否定語を使うと現実化しない、とかそういうことを言いたいわけではない(もちろん、それもそうなんだけど)。

 

○「問題解決思考」の弊害のようなもの

ぼくらは無意識、「課題」や「問題」を解決しにかかるクセがある。それは悪いことじゃない。ト○タの「カイゼン」活動じゃないけれど、課題や問題をクリアすれば、そりゃ物事がいい方向に進んでいくことは間違いない。

 

ただ、課題や問題は、ぼくらが生きていく上では(おそらく)死ぬまでついて回る。なぜならば、探せばいくらでも出てくるものだからだ。

 

でも、最初に理想の状態を描いて、そこから現在地を見る。その上で、現在地が理想と違うから変えていく、というやり方だってある。最初にゴールイメージを設定するわけだ。

 

この理想、ゴールイメージを描くには、確かに訓練というか、練習が必要かもしれないな、と最近は思っている。この理想を描く力は、ホントに個々人で大きく異なる。

 

理想を聞いたら、まあいくらでも出せまっせという人もいれば、さっき書いたように、「~じゃない」を連発する人もいる。「いまが理想だから、何もない」という人もまれにいる。それはそれで良いんだけれど、よく聞いていくと、実は自分の本当の理想にフタをしている、ということもある。

 

基本、何が出てきてもいい。別にぼくは理想を描いて、それに近づくことだけが正義!というつもりは毛頭ない。「~じゃない」生き方を選び続けるのも良いし、自分の本当の理想に氣付くことなく、社会的、一般的に「幸せ」、「理想」と言われているものを握り続けるのだって、確かに素晴らしい人生かもしれない。

 

ただ、あなたがもし、現状なんかモヤモヤするとか、これで良いのかなと感じているとするならば、あなたの魂は、あなた自身の理想を実現したいと求めているのかもしれない。だとすれば、自分の本当の理想を見て、描いてあげることをおススメする。

 

ポイントは、アウトプットすること。自分の中だけで温めるのももちろん良いけれど、人に話せば話すだけ、あなたの理想は実現に近付くとぼくは思っている。

 

あなたの理想を誰も知らない状態と、周りのみんなが知っていて、応援している状態のどちらが現実化に近いか。ちょっと想像しただけでも、お分かりいただけると思う。

 

特に大切なのは、あなたの理想を笑わない、バカにしない、けなさない人と話すこと。あなたの理想がいくら突拍子もなくても、現実味が薄くても、壮大過ぎても、逆に小さすぎても、決して笑ったり、バカにせず、応援してくれる人と話すのが良い。そうして、理想にエネルギーを注ぎ続ける。

 

そうしたら、あなたの理想は現実に近付きつつある、とぼくは思うけど、どうだろう?

 

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小さな「善きこと」

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最近、こんなことがあった。


公園のベンチに座って、音楽か何かを聴いていた。終わったし、さて帰るかと思って、何となくイヤホンを耳から外したら、一個隣のベンチに座ってるおっちゃんが「それ、携帯で聴いてんの?」と聞いてきた。


多少びっくりしつつ、そうですよと答えると、おっちゃんは「そうか。おっちゃん、そういう機械弱いからわからんわ」と言った。


それからおっちゃんは、今日は浅草に行ってきたこと、久しぶりに会った友人と昼から4軒はしごして飲んだこと、巨人は勝ったかどうか、おっちゃんは広島出身で、広島出身の人間はみんな応援していること、西城秀樹が亡くなったこと、彼もまた広島の出身で、山陽高校卒であることなどをぽつぽつと話した。


ぼくは聞くでもなく、聞かぬでもなく、何とも中途半端な状態で、おっちゃんの話に耳を傾けていた。


おっちゃんは、親も先立ち、兄も亡くなり、もうこの世に未練はないと言いつつも「でもまあ、まだ生きていたいけどな」と、少しだけ広島弁の名残がある発音で話した。


そしておっちゃんは去り際に「まあ、頑張ってな。わしゃもう寝る」と言い残して帰っていった。

 

○また別のおっちゃんとのこと

遡ると、こんなこともあった。


家に帰ろうと電車に乗っていたら、細見だが、がっちりした、色黒のおっちゃんが乗り込んできた。おっちゃんはぼくの隣の空いていた席に座り、ごく自然に「これは新宿行く?」と聞いてきた。


行きますよ、と答えるとおっちゃんは感謝を述べると同時に、宮崎からさっき飛行機でこちらに来たこと、息子が入院したので飛んできたこと、宮崎はもう温かいのにこちらは寒い(確か春先のことだった)と思ったこと、実は息子は性同一性障害で、男の人が好きだということ、それに対して自分は理解したいけれどできないこと、などなどを話した。


新宿に宿(ややこしい)を取っているというので、ぼくは遠回りして新宿で降り、おっちゃんをホテルまで送り届け、自宅に帰った。

 

おっちゃんは大変感謝してくれ、ぼくはぼくで、また会いましょうと言って別れた。連絡先の交換もしていないけれど。


○「かみさま」との遭遇

だから何だ、と思う方が多いだろう。ぼくだって、急にこんな文章を読まされたら、たぶんそう思う。


ぼくはこの2つの出来事を「かみさまとの遭遇」と呼んでいる。というか、今回二度目にして、そう呼ぶことにした。


小説『アルケミスト』には、思いがけない出会いから、主人公が進むべき道が見えてくる、というエピソードがある。

 

別にぼくは、彼らから進むべき道を授かったわけではないけれど、彼らはたぶん、かみさまだったんだろうと思っている。


ぼくは、このかみさまとの遭遇を通じて、人間というのは潜在的に「人の役に立ちたい」生命体なんじゃないかと思った。

 

どんなに一人で生きていきたい、一人きりでいたいと思う人でも、何か人の役に立つことができる自分を発見したとき、嬉しい氣持ちになるんじゃないかなと。


ぼくは(おっちゃんに姿を宿した)かみさまたちに、何かをしてあげられたとは思っていない。ただ、彼らはぼくに話をしただけで、何か少し嬉しいような、満足したような顔で去って行った(氣がする)。

 

○人という字は、ではないけれど

人は、人の間で生きるから「人間」である。人間の心は、不思議だなあといつも思う。


ぼくで言えば、ああ楽しかったと家に帰る道すがら、何か、もう少し話足りないと感じることがある。あるいは、不安や心配、さみしさや孤独で押しつぶされそうなとき、誰かと話したいと思うことがある。


ぼくが出会ったかみさまたちが、そうだったとは言えないし、それはわからない。ただ、もしそうだったとするならば。

 

ぼくがかみさまの立場なら、たまたま隣に座った兄ちゃん(ぼくのことだ)が、自分の話を聞いてくれ、ふんふんと頷いてくれるだけでも、とても嬉しいし、ホッとするんじゃないかなとも思う。


別におっちゃんじゃなくても、きれいなおねーさんでも、若くてかわいいお嬢さんでも良いのだけれど、目の前の人に、小さなことで良いから、何か「善きこと」を提供できる人でありたいなあ、と思った。

 

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人の夢を笑うな(ぼくが出会った名言集)


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「人の夢を笑うな」(僕の師匠筋、M氏)

 

中島みゆきの『ファイト』という曲がある。全編割とダークな歌詞ではあるんだけれど、サビはなにか、吹っ切れたような明るさというか、力強さがある。

 

「ファイト 闘う君の歌を 闘わない奴等が笑うだろう 
ファイト 冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ」

 

大きな夢や目標、志に挑戦する、挑む。もしかしたら、うまくいかないかもしれない。失敗するかもしれない。それでも、挑む。

 

その姿は、もうその時点で尊い。うまくいくもいかないも、実は関係ない。いまの自分を超えようとする。そのこと自体を、ぼくは尊敬する。

 

もちろん、それを見て笑う人もいるだろう。ぼくとしては、そういう人を否定するつもりもないし、ましてや責めるつもりもない。

 

笑うのではなく、諭したり、諦めるように言う人もいるだろう。もちろん、それもまた愛なんだろう。その人が傷つかず、無難な道を進んだ方が幸せだろうと思う氣持ちもまた、尊いとは思う。

 

それでも、ぼくはたとえ、その人が失敗しても、傷ついたとしても、その人の夢を応援し、挑む氣持ちをこそ尊重したいし、応援したいと思う。というか、その時点で失敗なんてもんは存在しないとすら思う。挑んだ時点で、もうその人は成功している。あとは、どういう結果が出るか、だけだ。

 

〇挑み続けた男が、この世を去った。

ぼくは、彼のことを実はほとんど知らない。会ったこともないし、話を聞いたこともない。本を少し読んだことがある程度で、ああ、いつか話を聞いてみたいなと思っていたままになってしまった。 

 

挑み続けた彼は、人々の心に火を灯し続けた。それこそ、自らの命を削って、挑む姿を見せ続けた。さあ、残されたぼくらはどうする?

 

「やっぱり、無謀な夢なんか持たない方がいいんだ」と思うのも構わない。「結局、何もできなかったじゃないか」というのも自由だ。

 

ただぼくは、挑み続けることを応援し続けたい。そして、ぼく自身も挑み続けて、人々の心に小さな火であっても、灯すことができたら嬉しいなと思う。

 

〇夢を応援し合える世界に

逆もまた真なりだ。どんなに小さな夢でも、その人にとって大切な夢ならば、ぼくはそれを大切にしたいし、全力で応援したい。

 

誰もが誰も、世界平和やラブ&ピースを叫ぶ必要はないし、世界最高峰を目指す必要はない。ただ、その人の人生をかけて、実現したい夢があるならば、それを全力で追いかけてほしい。

 

「そんなもん、夢とは言わないよ」とは、ぼくは言いたくない。好きな女の子と結ばれることが夢だって良いし、課長に昇進するのが夢だっていい。それが、あなたにとって本当に心から叶えたいことならば。

 

そして、ぼくはその夢を応援したいと思うし、良ければ、ぼくの夢も応援してほしい。お互いに応援し合える世界を、ぼくは見ている。

 

あなたの心の平和が、世の中をきっとよりステキな方向へ変えていく。ちょっとした一人ひとりの変化の積み重ねこそが、世界を変える。ぼくは真剣にそう思っている。

 

挑み続けよう。良ければ、あなたも。

あなたなりの歩幅で。あなたなりの夢に。

そして、いつか世界が愛と平和で包まれますように。

 

 

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敢えて「いい」と言わないワークショップ

自戒を(大いに)込めてだけれども、安易に「いい」という表現をできるだけしないように心掛けてみようと思っている。もちろん、反射的に「いいね!」と出るのはアリとして、だし、いいものはいいわけで、物事のポジティブな面、プラスな面を探しに行こうという基本スタンスは変わらない。

 

なんでこんなことを考えたかというと、一つ目には(あくまでもぼくの場合は)「いい」を発するとき、その裏側に「悪い」がくっついている感覚があったからだ。

 

一般的には「いい天気」とは「晴れている」状態を指す。もしくは、ちょうどよく日が翳って、さわやかな陽気のことを「いい天気」ということが多い。では、雨の日や曇りの日に「いい天気」とは言わないが、そういう天候が「悪い」かというと、そういうわけではない。

 

それならば、「氣持ちの良い陽気ですね」とか「日差しが温かいですね」、もしくはもっと端的に「晴れましたね」と言ったら間違いはない。天候に、いいも悪いもない。そこに何かの評価をくっつけているのは、どこまで行ってもぼくたちである。

 

〇「いい」は器がでかすぎる

もう一つには、「いい」で、何もかも包含出来てしまうと感じたからだ。

 

ミスチル、いいよね」

「いいよねー」

「やー。いいよね」

 

・・・これでは、会話になってるようでなってないし、深まることもない。いや、別に無理にいつも会話を深める必要もないし、ときに、この会話そのものが完璧であることもあるけれど。

 

何かを「いい」と思ったとき、その背景に自分のどんな感情や氣持ちの動きがあるのかを見に行こう、と思ったのだ。

 

ぼくが「ミスチル、いいよね」と言ったとき、ミスチルの何を「いい」と思い、どのように感じたのかを(言語として出すかどうかは別として)明確にする練習をしようと思ったのだ。

 

例えば・・・

・メロディが美しい

・桜井さんの歌がカッコイイ

・桜井さんがカッコイイ

・歌詞に思わず親近感を覚えてしまう

・というか、あなたはオレか!と思うことがある

 

ぼくがミスチルを「いい」と言うときは、たぶんこんなことが含まれている。

 

似たようなマジックワードとして「面白い」、「楽しい」あたりもある。

 

何か会合やイベントに参加して、感想として「楽しかったです」というのは簡単だ。でも、何がどう楽しかったのかを自分の中で(はっきり言語化できないまでも)分析しておいたら、自分は何が好きで、どういうときに楽しめる人なのかがより明確になる。そうしておくと、自分で自分の機嫌を取りやすくなるなと感じる。

 

これを突き詰めていくと、自分がどんなとき、どんなことをしているときにわくわくするのか、血沸き肉躍る(大げさ)のかが把握できてくる。そうすると、自分をそちらの方に動かしていくことができる。

 

「あの人がいいと言ってたから」とか「一般的に面白いとされているから」というのは、実は自分自身のグッとくるポイント、オモシロポイントとはズレている可能性がある。

 

大まかに「なんかいいね」と思ったとき、その真っ芯に何があるのかを探りに行く。そうすると、よりピンポイントで自分が「いい」、「面白い」と感じる要因や要素が見えてくるんじゃないか。

 

ひょっとしたら、自分が思いもよらなかったところ、意外なところに自分のオモシロポイントがあるかもしれない。それこそが、自分の氣持ちに正直になったり、自分を100%喜ばせるために必要なことかもしれないと思っている。

 

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手放すことについてパート2


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さて。昨日は「手放すこと」について、ぼくなりの解釈を書いた。

 

abenob2010.hatenablog.com

 

とは言え、大切にしている想いや、自分がどうしても手放せない(握りしめてしまう)もの・こともあると思う。人間だもの(リスペクト)。

 

そんなとき、ぼくが最近編み出した(というか、降ってきた)手放す方法をシェアしたい。別にこれが絶対無二、唯一の方法だとは言わないし、色んなやり方があると思う。でも、何かのヒントになれば良いなと思うので、書く。

 

○執着や想いを手放すための方法

実はぼくにも最近まで(つい一昨日、昨日くらいまで)、どうしても手放せない、握りしめていた想いがあった。もちろん、それはそれで大切だし、尊いといまも思っているけれど、一旦手放すことにした。

 

それは、そのことに関わる人々のためでもあるし、何より自分のためでもある。

 

でも、手放すことができない、したくないとも思う自分がいた。一時期は、むしろ握りしめきって、執着しきってやろうとすら思っていたくらいである。

 

そのときに、この方法が降ってきた。それでぼくは、だいぶその想いを手放せた(と思う)し、何より氣が楽になった。その方法を書く。

 

まず、目をつむる。そして、ゆっくりと呼吸をする。できるなら、静かな場所で、ひとりでゆっくり呼吸する。日常的に瞑想をする人なら、瞑想する感覚で良いと思う。そうして、心穏やかな状態をキープする。

 

心が落ち着いてきたら、あなたの中にある、握りしめている想いを取り出す。そして、その想いを小さな箱に入れる。

 

あ、別に実際に箱を用意する必要はない。心の中で思い浮かべてもらえればいい。

 

箱のサイズや形はまあ、どんなんでも良いけれど、ぼくは小さめの箱にした。ぼくの場合は、何か彫刻が施してある、ちょっと良さげな箱に入れた。

 

大切な想いを入れる箱だ。ちょっと贅沢しても良いだろう。というか、ただの妄想だしね(笑)。

 

次にその箱を粘土でくるむ。コンクリートでも構わないし、土でも構わない。ともかく、箱をくるむ。その上で、ジップロック的な袋に入れる。

 

このあたりは、お好みでいい。ぼくは少していねいにやりたいなと感じたからそうしたまでのことで、ともかく自分が手放したい想いを箱に詰めてもられば良い。

 

○その想いを、どうするか

はい。アタマの中に、手放したい想いを詰めた箱ができた。次にそれを、あなたの中のマリアナ海溝のように深いところへ持って行く。

 

で、想いの詰まったその箱を、あなたの中にある海溝に沈めていく。

 

そして、その箱が、深い深い海の底へ沈んでいくのを、眺める。少しずつ、深いところへ箱が沈んでいくのを、見届ける。そのときに、どんな感情が湧いてくるのかは、人それぞれだろうと思う。その感情にふたをする必要はない。ただ、ああ、そう感じてるんだねと認めてあげればいい。

 

ぼくの場合、何やら寂しいのと、感謝と、切ないのとが湧いてきた。ああそうか、僕はこの想いを手放すことが寂しいし、切ないけれど、この想いを持てた、感じられたことをありがたいとも思っているんだねと実感した。その感情を抱えたまま、箱がどんどん、深い海の底へ沈んでいくのを、ただ見届ける。

 

少しずつ、箱が小さくなっていくのが見える。肉眼ではだんだん見えなくなっていく。海の底の底の底へ、どんどん沈んでいく。そのイメージを続ける。

 

はい。あなたが手放したい想いは、もうあなたの中の深い深い海の底へ沈んでいった。

 

あなたの中に、今まで握りしめていた想いはもう、存在しない。

 

氣が済むまで見届けたら、徐々にあなたはこの世界に帰ってくる。

 

こうすると、あくまでもぼくの場合だけれど、とてもすっきりしたし、握りしめていた想いを手放すことが出来た。

 

もちろん、想いが再び湧いてくることもある。そういうときは、再び小箱が海の底へ静かに沈んでいくイメージを思い浮かべる。そうすると、自分が握っている想い(執着と呼んでも良いだろう)に氣付いて、また改めて手放すことが出来る(と、ぼくは感じている)。

 

これは、一種の自己暗示みたいなもんだとも思う。これで確実にあなたの執着や握っている想いがきれいさっぱり消えてなくなるかどうかはわからない。というか、ぼくは「消してしまえ」とも思っていない。いまは海の底に沈めておこう、という感じ。もし、再び浮かび上がってくるのならば、それはそれ。

 

もし、あなたが何かを手放したいと思っていて、でもなかなか手放せなくて、という状況にいるのだとしたら、この方法も試してみてほしい。お役に立てるかどうかはわからないけれど、少しは楽になるかもしれない。

 

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「手放すこと」について考えた


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ごくごく最近、ふわっと思いついたことで、自分で考えてみたり、アウトプットしてみたりして、改めてしっくりきたので、整理のためにブログにしてみる。


皆さんが読んでみてどう思うか、どう感じるかの感想などいただけると、ぼくとしてはとても参考になるし、ありがたい。


ひょっとすると、「それ、前にぼくが(私が)言ったやつ」と思うこともあるだろうけれど、そのあたりは大目に見るのが大人というもんである(開き直り)。


○目の前のことに集中して、結果を手放す

「目の前のことに集中して、結果を手放す」ことを意識している。


例えば、ぼくの友人・Aくんが、ぼくから見ると好ましくない言動を採っている。そっちの方に行くと、(ここも実はポイントだったりするのだけれど)ぼくとしては、あまり好ましい感じじゃないな・・・という方に進んでいるとする。


そのとき、ぼくが採れる策はいくつかある。


・何も口出しせず、Aくんの好きなようにさせる。

・Aくんに、軌道修正するように説得をする。

・Aくんに、感じていることを伝えるだけ伝える。


で。ぼくが思う「結果を手放す」とは、ぼくがAくんに今自分が感じていることを伝えた結果、彼の行動が変わっても、変わらなくても構わないと認めること。


ぼくとしては、ひょっとするとモヤモヤが残るかも知れないけれど、彼は彼にとって最善の選択をしたんだなと納得する。


つまり、結果がどうなったとしてもオッケー。それがぼくの思う「手放す」だ。


営業やセールスで例えると、もう少しわかりやすいかもしれない。


目の前の人に、自分が売っている商品やサービスの説明をする。そのとき、相手が買おうと買うまいと、実はぼくは「どちらでもいい」。それを決めるのは相手であって、ぼくではない。ただ、相手が最善の判断をするための情報提供だけはする。


ポイントは「目の前のことに集中する」、言い換えると「目の前の人の幸せを100%信じる」ということだ。


○目の前のことを疎かにしない

一例目で言えば、Aくんがぼくの意見を受け入れて、軌道修正してくれる方が嬉しい。でも、彼にとってぼくの意見を受け入れることが幸せでないのならば、それを選ばないことが完璧である。


二例目で言うと、ぼくは相手が商品を買ってくれれば嬉しい。でも、相手が「要らない」という判断をしても別にかまわない。それが相手にとって最善の選択なのだから。


たぶん(あるいはぼくの場合)、短期的な結果を握り過ぎると目の前のことが疎かになる傾向にある。


Aくんの考えを変えねば!と思うと、目の前のAくんをありのまま受け止めることが出来なくなる。いまのAくんはダメだ!と考えてしまう。


二例目もそうで、「この人に買ってもらおう」が強くなると、相手が本当に何を求めているのかがわからなくなる。


いずれのケースも、あるいはどんな場合でも、目の前の相手を疎かにした時点で、本来ならうまく行くことすらうまく行かなくなる。だから、結果を一旦手放す。


そうすると、結果はどっちに転んでも構わないわけで、目の前の相手の幸せを一緒に見に行ける。その人が望むこと、その人の理想に近付くためのお手伝いを100%考えられる。


じゃあ、Aくんがぼくの好ましくない道に進んで仲違いすることになっても、あるいは商品が売れなくて売上が上がらなくても良いのか?と思う人もいるだろう。それは全く違う。


ぼくは究極「全てうまく行く」ことを決めている。だから、うまく行く。途中、Aくんがロクでもない道へ進んだとしても、結果的に彼は幸せになるし、ぼくとの絆も途切れることはない。いま、プレゼンをした人が商品を買わないとしても、売上は必ず上がる。


そう決めているから、必ずそうなる。どうやって?そんなことは知らん。プロセス無視である。こうしていると、ぼくとしてはとても氣分がいい。ここ、とても重要である。


ガリガリ頑張って結果・成果を出すのも良いし、そういうステップを踏むことも大切かもしれない。でも、そうじゃないルートもあるんちゃうか?という、まさに人体実験の一環である。


もちろん、手放すのがしんどかったり、辛かったりする結果もある。その結果がどーしてもほしい、どうしても出したいってことだってある。人間だもの(リスペクト)。

 

でも、特に人間関係の場合、それが本当に目の前の人の幸せにつながっているかどうか。という視点に立って考えたいとぼくは思っている。


ただ、それが最終的には理想通り、あるいは思い描いていた理想をはるかに超える結果につながったりする。


目の前の小さな結果は手放しつつ、大きな結果は決め続ける。と考えると、『すずめのお宿』というのは、そんな寓意が含まれてるのかもねと感じたりもする(違うか)。

 

 

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