ものわかりのいいひと

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ものわかりのいいひと、である。

基本、ぼくは。たぶん。

 

ただ、それをやめることにした。

 

ぼくはものわかりの悪いひとになる。

言い換えると、アホになる。

 

理想の状態に至るまでには、

当然ながら、

理想ではない状態がある。

 

ぼくはそのときに、

理想ではない状態(=現実)に

やられちゃう傾向にある。

 

理想ではない状態に折り合いをつけて、

「まあ、そうだよね」と納得してしまう。

 

じゃ、それが理想かと言えば、

決してそうではない。

ものわかりのいいひと、になるわけだ。

 

ものわかりの悪いひと、

アホのひとは、そうはいかない。

 

「だって、理想とちゃうねんもん」と

関西人化しつつ、理想を見続ける。

 

あ、別に関西人化する必要は特にない。

 

理想ではない状態にエネルギーを注ぐと、

理想ではない状態が現実化する。

 

理想の状態にエネルギーを送れば、

理想が現実化する。

 

カンタンな話だ。

 

でも、ぼくはつい、

理想ではない現実に

折り合いをつけてしまっていた。

 

うん。それが現在地。それは過去。

理想を見る。ぼくの理想を。

 

 

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氣持ち

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ひとの氣持ちは

理屈では紐解けない部分が

たくさんある。

 

なぜお腹が空くのかは

たぶん理屈で説明ができるけど

おなかが空いて、

悲しくなったり、嬉しくなったり

そのメカニズムは、

説明ができない。

 

最近、ぼくはナスが好きなんだけど、

理由は「おいしいから」くらいしかない。

 

どういうところがおいしいと思うかは

一応言えるけれど、

それが「なぜおいしいと感じるか」は

ちょっと言葉にできない。

 

愛と平和を叫びたいと思う。

ぼくがそれを求めていて、

すでに世界が愛と平和で

満たされていると感じているから。

 

でも、どうしてそう感じるかは

ぼく自身にもわからない。

 

ぼくは、このブログを読んでくれている

あなたを大切に想うけれど、

その理由はうまく言えない。

 

少なくとも、

「ブログを読んでくれるから」

ではない。

 

たとえ、ブログを読もうと読むまいと

ぼくはあなたのことを大切に想う。

 

「これこれこうだから」

大切に想うわけじゃなく、

大切にしたい氣持ちが溢れてくる。

 

それに、 

何か見返りがほしいわけじゃないけど、

実はすでに、ぼくはあなたから、

たくさんのものを受け取っている。

 

なにもしてないよ、と

あなたは言うかもしれないけれど。

 

ぼくはそう感じている。

その理由も、説明はできない。

 

理由を説明できないのは、

歯がゆいし、もどかしいんだけど。

 

でも、その氣持ちは大切にしたいなと

想っている。

 

ひとを大切に想えることは、

ぼくにとって、とても嬉しい。

 

なぜか?は、わからない。

だけど、ぼくは

ぼくが大切だと感じるひとを

大切にするひとでありたい。

 

それができること、それ自体が

ぼくにとっての喜びなんだよ。

 

愛と平和。

今日もありがとう。

 

 

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応援

 
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ひとは利己的、自分勝手だといわれる。

 

でも、実は本能的に、
自分以外の誰か、何かを
応援したい生き物なんじゃないかな。
本当は。

 

でなければ、
ワールドカップもそうだし、
サッカー、野球もそうだけれど。

 

勝っても負けても
自分の損得には何の影響もない
スポーツ選手たちを
あれだけ熱心に応援できるだろうか。

 

ときには身銭を切って
ときには時間を費やして
ときには声が枯れるまで叫んで。

 

うん。とても本能的、原始的な喜びが、
そこにはあるんじゃないかな。

 

その氣持ちは、ぼくもよくわかる。

 

ぼくは長いこと、
出身地(札幌だ)のサッカーチームを
熱心に応援していた。

 

最近はあまり現地観戦できていない
けれど、動向だけは追いかけている。

 

同じように、
いやいまはそれ以上に
ぼくには応援したいひとがいる。

 

何人もいるから、
ほんとうは「ひとたち」なんだけど
ここはひとつ、「ひと」と書くよ。

 

そのひとは、ひょっとしたら
ぼくの応援を必要としていない
かもしれない。

 

ぼくよりも立派で、ステキで、
ものごとに真剣に向き合っていて、
とても素晴らしいひとだから。

 

ぼく以外にも、
たくさん応援してくれるひとが
いるだろう、とも思う。

 

ぼく以外にも、
より力になれるひとが
いるだろう、とも思う。

 

でも、ぼくはそのひとを応援している。

 

たとえば。
サッカーの応援で、
ぼくの声援が選手に直接届かなくても。

 

「あなたのおかげで勝てました」
なんて言ってくれなくても。

 

ぼくは勝手に、そのひとを応援する。

 

そして、いまも輝いている
そのひとが、
さらにその輝きを増したとき。

 

ぼくはそれを見てニヤニヤしたい。
そして誰かに
「前から応援しとったのや」と
ドヤ顔で言いたい。

 

そんなことを想っている。

 

誰かを応援することは、
見返りを求めることではない。

 

もちろん、選手から
「いつもありがとうございます」とか、
言ってもらえりゃ、そりゃ嬉しい。

 

でもね。いいんだよ。いいの。
そのためにやってんじゃないの。

 

応援すること、応援できること
そのものが、ぼくの宝なんだ。

 

そして、いま感じるのは、
そのひとを応援するに値するだけの
自分になろうってこと。

 

自分の価値、存在意義、実力、
なんでもいいけれど、
とにかくそういうものを
磨いて、鍛えて、育んで。

 

そのひとを応援するに値する
自分に、さらになっていこうねって、想う。

 

そう想わせてくれる
皆さんに、ありがとうを贈ります。

 

このブログを読んでくださってるあなた。
そして読んでないあなたも。

 

応援してます。
いつもありがとう。

 

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正解

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正解なんかない。


最近行き着いた、ぼくの境地である。


少しだけ言い換えると、

答えは、ある。


だけど、唯一無二、絶対の正解

なんてものは

この世には存在しない。


ぼくが敬愛するバリの大富豪、

アニキこと丸尾孝俊さんの

金言をご紹介する。


「十人いれば十色、

百人いれば百色、

混ぜ合わせれば真っ黒や」


ぼくは仲間と話しているときや

大切なひとの話を聞いているとき

無意識に「正解」を探していることに

氣が付いた。


そして、何か言ったあとに

「こういえば良かったのではないか」

「この答えを相手は求めていたのか」

「あんなこと言わなきゃよかった」

「こっちの方が正しかったのでは」

と思うくせがあった。


相手とのコミュニケーションを

さらに良くするために

改善点を探すのは、悪いことじゃない。


でも、「正解」なんてない。

「答え」は、常に相手の中にある。


何かを聞かれたとき

何かを相談されたとき

何かを打ち明けられたとき。


もっといい回答ができたら、とか

もっと黙って聞いてあげたら、とか

こういうアドバイスができれば、とか


後から考えても、仕方がない。


男女のコミュニケーションで

よく言われるけど

女性はただ聞いてほしいのに

男性はつい解決策やアドバイスをしちゃう。


相手に良い状態になってほしい、

元氣になってほしい。


それはもちろん、愛ゆえに、だ。


だけど、男女間に限らず。

答えは、常に相手の中にある。


ぼくらは、ただそれを

静かに聞いてあげるだけでいい。


なぜなら、正解なんてないから。


でも、もしも

言い過ぎちゃったとしても

何も言えなかったとしても

的外れなこと言ったとしても

相手を怒らせたとしても


いいの。それでいい。


それが、あなたと相手との間で

生まれた答え。


いまは、それこそが完璧。

その答えを出せたことに、

心からのありがとうを贈ろう。


その答えを受けて、

自分は次にどうしたい?どう捉えたい?

そう考えるだけ。


たとえばさ。


好きなひとに、

告白したとするやん。

だけど、

振られたとするやん。


いいの。それでいい。


告白の仕方が悪かった

タイミングが悪かった

自分に魅力がなかった

相手に見る目がなかった


どれか、かもしれないけれど、

実はどれでもない。

あるいは、どれでも良い。


じゃあ、この先どうしたい?だけ。


あきらめるもよし。

次の誰かを探すもよし。

変わらず好き、を続けるもよし。


ただ、自分には自分の

「そのひとが好き」

って答えがあるように


相手には相手の

「お付き合いできません」

って答えがある。それだけのこと。


もう一度言うよ。


それが、あなたと相手との間で

生まれた答え。


それこそが、完璧で、尊い

認めて、答えを出せたことに感謝して、

意気揚々と前に進もう。

 

 

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自然

 
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自然って、すごいなあと思う。

 

空の色、雲の形、
朝焼けや夕焼け、
木々の緑、海の青さ、
色とりどりの花々。

 

自然が生み出す美しさは
ぼくらの心を癒やし、
温かくし、励ましてくれる。

 

都会にいても、空を見上げると、
少し心がホッとする。

 

もちろん、ひとも自然の一部で。
だからこそ、ひとが生み出す
自然な芸術が、ひとの胸を打つ。

 

歌、踊り、言葉、祈り、
絵画、音楽。

 

よりひとが自然体であれたなら、
ぼくらはもっと、
生きやすいのかもしれない。

 

だから、自然体でありたいな、と思う。
楽読的に言えば、
リターントゥヒューマン。

 

本来のひとに還ること。
世間体や、常識や、
他人の目や、プレッシャーや。

 

自然体であろうとすることを
妨げるさまざまな要因を
ひとつずつ外していく。

 

もちろん、
世間体を氣にして生きてもいい。
常識に従って動いてもいい。

 

それを自分で選んでると
認識できていれば、なおさら。

 

だけど。
自然体で生きることをしてみないで、
どうしてそれを「しない」を
選択できるのかな、とも思う。

 

一度、自然体で生きてみたらいい。
すべての「ねばならない」を手放して、
自然体になってみるといい。

 

自然体。言い換えれば、
自分に素直になるということ。

 

その方が、きっと楽で楽しい。
そして、その方が美しい。

 

そんなあなたの生き方は
見ているひとの胸を打つはずだ。

 

素直とか、自然体でいる、とかが
ものすごく苦手だったぼくが
言うんだから、間違いない。

 

いまぼくは、ひとびとが

どんどん自然体になって、

どんどん美しくなっていくのを

目の当たりにしている。

 

それを見るのは、ぼくも嬉しい。

 

あなたが、あなたの自然体のままで

素直なあなたで生きられたら。

 

それは、ぼくの喜びでもある。

ありがとう。

 

 

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やめるのやめる


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じつは、
ブログを一時止めようかと
真剣に考えた。

 

なぜかっちゅうと
「あ、こりゃかなわねぇな」と
想う書き手がたくさんいるから。

 

ぼくが書かなくても
このひとたちの
ブログがあれば
充分じゃんか、と想ったから。

 

ブログに限らず、
ぼくにはそういうくせがある。

 

ぼくがやらなくてもいいよね、
このひとがいるから、と
無意識にしろ有意識にしろ
想うことが多々ある。

 

これは、あれだ。

比べるんだな、ひとと自分を。

 

このひと(たち)には勝てないし
かなわないから
ぼくがやる必要ないと
想うんだわな。たぶん。

 

ただ、それが氣分良いかっつうと
そうではない。

 

そこには、嫉妬やねたみや
うらやましい、がたくさんあって。

 

逃げてもいるし、
自己保身もある。

 

「どうせぼくなんて」的、
自己卑下も大いにある。

 

そんな自分も認めつつもさ。

 

それでも、ぼくがブログを書く意味、
なにかをする意味が
あるんじゃないの、と想い直したの。

 

ぼくが見ている
「かなわねぇな」は、たぶん正しい。

 

でもそれは、
同じスケートでも、
スピードスケートの選手が
フィギュアスケートの選手を見て
「あんなに華麗に飛べねぇよ」って
言ってるようなもん。

 

そりゃ、無理だよ。
競技が違うもん。

 

華麗に飛べるひとは、飛べば良い。
早く滑れるひとは、早く行けば良い。

 

ぼくにはぼくのフィールドで
なにかできることがある。

 

かなわないところは
あきらめるけども、
自分の生きる道は
あきらめない。

 

そう想えたから、
やめるのやめる。

 

例えば、それが

自己満足だったとしても、さ。

 

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わからない


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以前にもちょっと書いたけれど。

「わからないけど」という

くせがある、いや、あった。

 

「~だと思う、わからないけど」

「~じゃないかな、わからないけど」

のように、なにか言った後に

付け加えることが多かった。

 

いまだから、わかる。

これは逃げだし、甘えだし、

恐れだし、隠れみのだ。

 

ぼくのとても大切なひと

(師匠筋でもあるのだけれど、

この表現の方がしっくりくる)

から、こう言ってもらった。

 

「わからないことは、言わなくていい」

 

その通り。

 

ぼくは、言ったとおりのことが

実現してしまったり、

言ったことが間違っているのが、

怖かった。

 

「あなたはぼくのこと好きじゃないよね。

わからないけど」

 

「その時間ならいけると思います。

わからないけど」

 

「それはこういうことです。

わからないけど」

 

そう、断言を避けたりするのと同じで、

「わからないけど」で、責任から逃れてた。

 

だから、うん。

 

わからないことは、言わない。

 

いま、ぼくにわかること、

感じることだけを、言おう。

 

そこに、間違いなんて存在しない。

 

それでももし、間違っていたとしたら、

間違いを認めればいい。

 

間違いも、弱さも、臆病も、

不安も、恐れも、甘えも。

 

そうだよね、と認めてしまえば、

逃げたり、隠すことは必要なくなる。

 

うん。だから、

 

わかること、感じることを

素直に言おう。

 

間違いも、弱さも、臆病も、

不安も、恐れも、甘えも。

 

そういうこともある自分、を

認めていく。

 

 

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