「カッコ良く生きてえんだよ!」(僕の出会った名言集)


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「カッコ良く生きてえんだよ!」(W氏)

 

ぼくには師匠筋がたくさんいる話は前回書いたと思う。今回の名言も、そんな師匠筋の一人からもらったものだ。

 

これに関してはぼくに向けて言ったわけではないけれど、妙に感銘を受けたのでブログに書いておく。

 

■「どう生きたいか?」の問いに、どう答えるか。

この発言が出た背景として、ぼくが「どう生きたいか、今世のミッションは何かは何となくわかる。でも、それを切れ味よく答えられないのがモヤモヤする」と言ったことから始まる。

 

うん。急に「どう生きるか」とか「今世のミッション」とか言われて、困惑する方もいるかもしれない。ぼく、あるいは最近のぼくの周りでは「どう生きるか」あるいは「何のためにこの命を使うか」が大きなテーマにある。

 

でもこれは、結構世の中的なトレンドかもしれない。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』がリバイバルヒットする時代だ。ひょっとすると「自分は何のために生きているのか?」を探している人も多いのかもしれない。

 

ここで、妙な例え話を出す。

 

家でくつろいでいたら、急に神さま(仏さまでも、鬼でも何でも良いけれど)がドヤドヤと入ってきて、「お前は何のために生きているんだ!?」と問うてきたとする。そりゃもう、ものすごい迫力で。ハイ、こんなとき、どう答えますか。

 

神さま(仏さま、鬼)の様子を見た限りでは、できるだけ一言でスパッと、シャープに答えたい。ごちゃごちゃ言ってると、何をされるかわかったもんじゃない場の雰囲気だとする。そんな切羽詰まった状況で、自分の生きている意味やミッションを「これ!」と表現するとすれば。

 

とまあ、こんなシチュエーションを思い浮かべた時に(思い浮かべてみて~)、ぼくの師匠筋の一人である彼が放ったのが冒頭の言葉「カッコ良く生きてえんだよ!」だったのだ。

 

■カッコ良いって、なんだ?

この言葉になぜ、ぼくが感銘を受けたのか、自分なりに分析してみた。すると、どうやらぼくは「何のために生きるのか」は大層なこと、立派なことでなければいけない、と思っていた節があることに氣が付いた。

 

でも、自分がなぜ生きるのか、どう生きたいのかは、もっとシンプルな方が(ぼくにとっては)わかりやすい。その意味で「カッコ良く生きる」というのは、ものすごくシンプルだけれど深い言葉だなと思ったのだ。

 

「カッコ良い」というのは、極めて抽象的な言葉だ。「あの人、カッコ良いよね」というとき、発言者の主観が大いに混じる。簡単に言えば、羽生結弦を「カッコ良い」というか、羽生善治を「カッコ良い」というか、みたいなもんだ。

 

・・・わかりにくい。

 

あるいは武藤敬司を「カッコ良い」というか、橋本真也を「カッコ良い」というかみたいなもんだ。

 

・・・余計わかりにくいな。

 

あ、ちなみに僕は蝶野派です(関係ない)。

 

何が言いたいかというと、「カッコ良さ」には絶対的な基準がないということ。100人いれば100通りに近い「カッコ良さ」があるはずだ。

 

それは、実は当ブログで最近頻出人物になりつつあるバリ島の大富豪、丸尾隆俊氏(丸さん)が良く使う「さわやか」にも通じる。

 

自分の言動が「カッコ良い」か、あるいは「さわやか」か。それはその人自身の美学による。そうは言いつつも、万人に共通する「カッコ良さ」、「さわやかさ」はある。

 

だから、カッコ良く生きようとすると、自ずと世のため人のためになってしまう。でもそれは、最初から視線が外に向いているわけではなくて、自分がどうカッコ良く生きるかを考えた結果、そうした方がカッコ良いということにつながる。さわやかに生きるのも、一緒だ。

 

■カッコ良く、さわやかに生きるために

と、ここまで書いておいて、ぼくは「カッコ良く生きる」ことにはあまり興味がない(笑)。カッコ悪くてもまあいいか、と思っている。でも「さわやか」には生きたいと思っている。

 

明るく元気な人と、陰気な人のどちらが「さわやか」か。いつも楽しそうな人と、いつもつまらなそうにしている人のどちらが「さわやか」か。物事を前向きに捉えている人と、いつもネガティブな人のどちらが「さわやか」か。

 

例えば、そんなこと。さわやかに生きようと決めると、実は色々ある。でも、そのゾーンで生き続けようと思えば、きっと自然とそうなっていくはずだ。そして、さわやかじゃないなと氣付けば、よりさわやかな方に自分を変えていける。

 

もちろん、意識的にしろ無意識的にしろ「さわやかじゃない」ことをすることもあるだろう。そんなときはアハハと笑って「こりゃ、さわやかじゃないね」と言える人でありたいとも思う。

 

それこそが、さわやかな在り方だなあと、ぼくは思っている。