「構え」、あるいは「構えない」について
(ハコネエコビレッジの風景。とてもステキなところなので、ご興味ある方はぜし)
■両手ぶらり戦法
と聞いて、ピンと来るあなたはアラフォー以上でしょう(たぶん)。あるいは「北斗の拳」に出てくるサウザーの南斗鳳凰拳。柳生新陰流には「無形の位」というのもあるそうです(ネットで調べたレベルだから、真偽のほどは知らん)。
要するに、「構えない構え」、あるいは「自然体」ということ。
「あしたのジョー」(ちなみにボクシング漫画です、念のため)の両手ぶらり戦法ならば、ボクシングでは通常、当然するべき「ガード」をしない。両手をぶらーっと下ろして、相手に対峙する。
南斗鳳凰拳も同様で、防御の構えを取らない。「無形の位」も、剣を持ったまま、ただ突っ立っている状態のことを言うそうな。
■それがなんだよ、とお思いのあなた。
実は、この「構えない状態」、一歩進めて「自然体でいること」こそが、構えとしては最上であるという考え方もあるのですよ。
どんなに特訓しても、「完璧な構え」なんてのは有り得ないわけで、どこかに必ずスキが出る。そこをカバーしようとすると、他が空いてくる。今度はそこを突かれて・・・ということで、どんどん崩されていく可能性がある。
一方、「構えない構え」は、スキだらけだ。どこでも突っ込める。が、自然体であるが故に、どうとでも対応できる。もともと構えてないから、構えが「崩される」こともない。
ある意味、自由自在。何にもこだわらず、縛られない。だからこそ、どのような局面にも柔軟に対応できる。
■これは、人としての在り方にも応用が利く話ではないかと。
たまに、ガチガチに理論武装したり、自分の意見や考えにこだわったり、何かの教えなどを信じて、それが最上だと思っている人に会うことがあります。
うん。自分の意見や考え、信条があることは素晴らしい。でも、それは一種の「構え」であるわけです。違う考えの人とは、相対することになる。
一方、自然体でいる場合は、ある意味「受け」の姿勢であって(サウザーは違うんだけどね、と、この話をし出すと長いので割愛)、人の意見や考え、信条、あるいはその人が立場上言わなきゃいけないことなども受け止められる。その上で、柔軟に対応ができる。
「北斗の拳」で言えばトキだよね、と、我慢できずに書いてしまう私。
■「自分を大きく見せよう」、「より良く見せたい」というのも、構えの一つでは。
人間にそういう気持ちがあるのも分かるけれど(私も時々そうなる)、それって意外とちっぽけなもんだよな、とも感じる。
たまに、「自然体に見えるけど、実は構えてる人」というのもいる。しかも、そのことに本人も気付いてない場合もある。自然体のよーに振る舞うのけれど、受け手は何か、圧力や押しつけのようなものを感じることもある(この方がサウザーっぽい、とか、この話はもう要らん(笑))。
私も、この「自然体」と「自然体に見える構え」の違いは、今のところ分からない。ただ、「構え」のある人には、何か違和感を感じる。
だから、自然体で居続ける、というのは結構難しいことなのかもしれない。
私自身、出来ているとは思いません。ただ、自分が発しようとした言葉や、動こうとした行動の一つ一つが、ホントに自分の本心から出たものか、あるいは、「人からこう見られたい」とか「人にこう思われたい」という気持ちから出たものかは、しっかりと見極めたい。
んで、「人からこう見られたい」という動機での言動も、否定はしたくない。それもまた、自分の心の動きなわけで。そのことに気がついて、「なるほど、自分は今、そんなことを考えたんだな」と感じれば良いのかなと。
こんなことを考え、表現できるのも、他の人の言動なんかを見て、自分の言動を振り返ってみたからこそ。
自分一人では、恐らく考えつかないし、気付かなかったはず。ホントにありがたい。
ちなみに、「北斗の拳」には「無想転生」という奥義があってだな(もういい)・・・。