「感謝」についてややこしく考えた
だいぶ前に『やり抜く力 GRIT(グリット)』という本を読んだ。そこに「自己制御の1つのカギは『感謝の心』である」てな内容があった。
著者によれば、自分が「何を持っているか」にフォーカスすると前向きな氣持ちになり、性急な判断をしないようになる、という。
他にも、感謝しよう、という話を聞いたり、本を見かけることは良くある。うん。言いたいことはめっちゃわかる。ただ、ぼくは「感謝しよう」という表現がどうしてもしっくりこない。
いや、しっくりくる人はしっくりきたままで、まったく構わない。ただ、ぼくには違和感があるだけだ。
じゃあ、ぼくは万物に感謝の気持ちがなく、傍若無人な人間なのかと言われたら、まあ、ひょっとしたらそうかもしれない(笑)。
でも自分の感覚としては万物に感謝しているし、両親に感謝しているし、ご先祖様、恩人、仲間、ご縁、はたまたぼくの血肉になってくれる動物や植物のすべてに感謝している。
それは「感謝しよう」というよりも「自然に感謝が湧いてくる」感覚に近い。万物に感謝しよう、感謝の心を培おうと思ってそうなったものではない。
○ぼくと感謝と箱根の山
ぼくは箱根(塔ノ沢)の山と古民家を使って、村(エコビレッジ)を作ろうというプロジェクトに参画している(詳細はこちら)。
「ハコネエコビレッジ」と名付けられたこの場所は、都心から2時間もあれば到着できる。だが、ものすごく不便な場所にある。駅からは近いけれど、山道を15分くらいエンヤコラと登らないと着かない。クルマは入れない、エレベーターもエスカレーターもない。
だから、ハコネエコビレッジに足を運ぶには、老若男女、偉い人もそうでない人も、自分の足で登るしかない。まあ、おんぶしてもらう、はありかもしれないけれど。
そうして着いた場所には、まずガスがない。だから、お湯を沸かそうと思ったら、薪や小枝を燃やして、火を熾すしかない。
一応電気はあるけれど、母屋周辺にしか明かりはないから、夜になればとっぷりと日が暮れる(星がとてもきれいだ)。
幸い水は近くの沢から引いてきているから、蛇口をひねれば出る途中で管が詰まったりすれば、水の出が悪くなったり、止まったりもする。
言い換えると、以前住んでいた方がこの仕組みを作ってくれていなかったら、沢から水をエンヤコラと運んでくるしかなかった。トイレは汲み取りが1つ、半野外の掘立小屋(縄文式トイレ)が1つ。水洗トイレはない。
お風呂に入りたければ、風呂桶に水を溜めて、火を熾して沸かすことになる。ただ、お湯が沸くのに早くても1時間はかかる。その間、火が途切れないように世話をし続ける必要がある。
あるいは、下山して温泉に行くという手もあるけれど、行き帰りは当然山道を下って上ることになる。
食べ物は、自分たちで作った野菜を食べるか、材料を持ち込んで調理するしかない。そう、ここではお金というものが何の役にも立たない。お金を使って買えるものはないし、裏を返せばお金がなくても成立してしまう。
うん。ドヤ顔をしたくなるほど不便である。でも、ぼくはこの環境に身を置くことで、万物への感謝があふれたのだ。
○氣付けば、ぼくらの周りには感謝しかない
ハコネエコビレッジにいると、都会の生活がいかに「快適」であるかに氣付く。どこに行ってもトイレは水洗だし、何なら自動でフタが開く。蛇口をひねれば水が出るし、お湯が出るところも多い。
移動するなら車もあるし、エレベーターやエスカレーターもある。コンロのスイッチを押せばすぐ火が点く。灰やススで洋服が真っ黒になったり、焦げ臭く(考えようによっては香ばしく)なることもない。
お風呂で言えば、ボタンを押せば勝手に風呂桶に水を溜め、沸かし、「お風呂が沸きました」と教えてくれたりもする。
でも、これらの仕組みや装置を、ぼくは何一つ生み出していない。全て先人たちが「こういう方が便利だろう」、「こうした方が快適だろう」と考えて、作ってくれたものだ。
社会システムもそう。ぼくらがお金を払えば何でも手に入れられるのは、先人たちがそういうシステムを整えてきたからだ。現状は矛盾や歪みが生じていると感じる点も多いけれど、便利っちゃあ便利だ。
食べ物だってそうだ。ハコネエコビレッジにいると、あるいは植物を育ててみると、植物も立派に生きていることを実感する。彼らだって、水がなければ死ぬし、根から切り離されれば死ぬ。動物たちは言うに及ばず。全て生きている。そういう生きとし生けるものたちの犠牲の上に、ぼくらの命は支えられている。
だからこそ、ぼくらにできることは感謝してその命をいただいて、ぼくらの命を最大限に燃やし、輝かせ続けることだと思っている。それこそが、命を捧げてぼくの血肉になってくれた者たちへの最大の供養だと思っている。
○「溢れ出るもの」を実感する
何の話だっけ(笑)。そうそう。感謝の話だった。正直に言って、ハコネエコビレッジに関わるまでのぼくは、感謝とか良くわからんちんだったと思う。人に何かをしてもらえば、そりゃそれなりに「ありがとう」とは思うけれど、「ぼく、生きてる!ありがとう!」という感覚はなかったと思う。
ただ、これも人から言われて「感謝すると良いんですね!」みたいな感覚だったら、(ぼくの場合は)たぶんすぐ飽きたりして、その氣持ちは薄れてたと思う。それが薄れるどころか、日々強くなっている感じすらするのは、ぼくの中で実体験としての「感謝」が生まれたからだろう。
これは、「愛」も一緒かもしれない。人を愛しなさいと言われて愛するのと、愛が溢れ出てしまうのとでは、自ずと量も深みも違ってくる。もちろん、スタートは言われて始めるのだっていい。特に感謝してなくても「ありがとう」を唱え続けるのだって、もちろん素晴らしい。
でも、もし可能なら、一度むちゃくちゃ不便、過酷な環境に身を置いてみると良い。特に、あなたが今恵まれた環境にあるならば。ぼくらがどれだけ恵まれた環境に身を置いているかがわかるはずだ。そうでなくても、自分が生きてる、生存しているということが、どれほど奇跡的なことなのかが体感できると思う。
そういう意味では、ハコネエコビレッジに1~2泊してみるのは超おススメ。良かったら、連絡ください。
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「一旦受け止めてみる」の修行
「一旦受け止めてみる」訓練というか、修行をし始めている。
自分にとって耳の痛いこと、言われて腹が立つこと、嫌だなと感じること。従来のぼくはこういう言葉を「あなたはそう思うんですね」と、これまで自分から切り離してきた。誰かがぼくに向けて放った言葉を、跳ね返していたわけだ。
特に、自覚のあるなしに関わらず、自分にとって受け止めるのがしんどいメッセージは「いや、それはあなたの考え方で、ぼくは違うと思う」と、突っぱねてきた。うん。突っぱね切れたかどうかは別として。
でもここ最近、今年に入ってからくらいだろうか。「ちょっと素直に耳を傾けてみようか」というモードに入ってきた。
○言われて腹が立つことを受け止める。
きっかけは、ぼくが大切にしている人たちが、ぼくにとっては到底受け入れにくいことを言ってくれたからだ。
一例を挙げると、ぼくは自分のことを「優しくて、配慮ができる人」と思ってきたのだが、真逆のことを言われたり、「とても謙虚な人」と思っていたのに「驕りがある」などと言われることが立て続けに起きた。実は、ここに挙げた以外にも枚挙に暇がないほど起きていたりする。
もちろん、過去のぼくのように「いや、それはあなたの見方だし」とか「ぼくはそうは思わない」とか「ぼくのやり方に口出ししないでほしい」とかとか、そのメッセージを無視というか、受け止めないこともできた。
ただ、そのことを言ってくれた人たちが、ぼくにとっては到底無視できる人たちではなかったのだ。
だから、ぼくは自分にとって耳の痛いこと、言われて腹が立つことを「一旦受け止める」ことをしようと思い始めた。「受け止める」というのがポイントで、これはぼくの親友が教えてくれたのだけれど、「受け入れよう」とするとしんどくなる。でも、「受け止めよう」とすると、それを自分の中に入れるか、入れないかの判断が付けられる。
○「めちゃんこ怖い」の世界に飛び込む
自分で言うのも何だけれど、ぼくは割と「そつのない方」だと思う。
人間関係にしろ、仕事にしろ、ものすごく出来る方でも、ものすごく出来ない方でもなく、60~80点をコンスタントに取る人だった。故に、目立つこともないし、大チョンボをすることも少ない。
だから、人からものすごく嫌われたり、ものすごく厳しいことを言われることが極めて少ないので、自分にとって耳の痛い話に対する免疫はとても低い。
そう。だからこそ、なのだ。ぼくが次のステップ、次のフェーズに行くためには、過去の延長線上にないものを取りに行く必要がある。それを、ぼくは「言われて腹が立つことを受け止める」に定めた。
もちろん、誰から言われたことも100%受け止めよう、ということではない。通りすがりのおっさんに言われた「アホー」という言葉を、真剣に受け止めるつもりはない。そのおっさんに返す言葉は「おまえもな!」だ。
話がそれた。まさに「何を言うか」よりも「誰が言うか」が重要だと思っている。そのために、厳しいことを言ってくれそうな人の門戸を叩き、敢えて自分が氣付いていない自分の弱点、甘さ、弱さ、隠してきた(あるいは見て見ないふりをしてきた)何かを見に行こうとしている。
正直に言おう。めちゃんこ怖い。でも、そこにこそ次のステップに進むためのカギがあると信じている。
○フレッシュな舌で味見をする大切さ
「自分を大切にする」という考え方もある。自分を大切にして、自分が言われて嫌なこと、腹が立つことをわざわざ聞かなくても良いじゃないかと思う人もいるだろう。そういう人は、それで良いと思う。
例え話だけれど、カレーを作っていて、何度も味見をし過ぎて、どうしたらいいかわからなくなることはないだろうか。いま、このカレーに必要なのは塩なのかコショウなのか、はたまたカレー粉なのか、ひょっとしたら少しだけマンゴーチャツネを入れて甘みを足すべきなのか、わからなくなることがある。
それと同じで、ずっと自分という人間と付き合っていると、どこが良くて、どこがもっと良くなるのかがわからなくなる。そういうときに、舌がフレッシュな人に味見をしてもらうのは、とても有効な手段だとぼくは思う。
もちろん、とんでもないことを言われる可能性だってある。「そもそもこれはカレーなのか?」と、自分の根底からひっくり返されるようなこともあるかもしれない。でも、それも受け止める。そうしないと、結局今までのぼくのままだから。
この修行は万人におススメではないけれど、何か行き詰まりを感じているならば、トライしてみる価値はあるかもしれない。ずーっとカレーを作っているつもりだったのに、「いやこれ、豚汁やん」と言われるかもしれない。知れば、選べる。そこからカレーに移行することも、豚汁のまま突き進むこともできる。
耳の痛いこと、言われて腹の立つことほど図星、というケースは多々ある。
受け止める準備が出来ていないと、ただムカついて終わる。実にもったいない。ようやく、そう思えるようにはなってきた。
100%受け取って、自分の糧にしていくよ。
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嫉妬する氣持ちの取り扱い方について
「憧れる」のと「嫉妬する」のは、紙一重だと思っている。
ぼくはなかなかの「Jealous Guy」である。ジョン・レノンの曲を引っ張ってきてごまかそうかと思ったけれど、それも不本意なので書く。要するにぼくは「嫉妬深い男」だ。
最近でこそ「自他ともに認める」ところまで来たけれど、昔は自分に「嫉妬心がある」、ましてや「嫉妬深い」なんてことは認められなかったし、認めたくなかった。けれども、最近はもう開き直った。認める。
うらやましいものはうらやましいし、
憧れるものは憧れる。
嫉妬してしまうものは、嫉妬してしまう。
これはもう、ぼくの自然な心の動きであって、仕方がない。「そんなものはない」と否定してかかるより、素直に認めてあげた方が、ぼく自身も楽だと氣が付いた。そして、最近はこんなことも考えている。
「嫉妬する」ということは、自分も「それをしたい」あるいは「それができる」という可能性を感じているということだ。
○ぼくがジャンボ鶴田に嫉妬できない理由
例えば。野球を見たこともやったこともない人が、イチローを見て、その才能に嫉妬するだろうか。たぶん、そんなことはない。ぼくの場合で言うと、いくらジャンボ尾崎がスゴイと言われても、まったくピンとこないし、嫉妬もしない。
なぜか。ジャンボ尾崎に関しては、1)ぼくがゴルフに全く興味がない 2)自分にもそれができるとは思えない からだ。興味もなければ、自分がやりたいとも、できるとも思わないから、うらやましくもないし、嫉妬心も芽生えない。
ちなみに、ジャンボ鶴田に対してはすご過ぎて嫉妬なんかできない。
プロレスにはめっちゃ興味あるし、やってみたいとも思うけれど、ぼくにはどう逆立ちしてもジャン鶴ほどの身体能力はないし、あれだけのセンスがあるとも思えない。
故に、うらやましいとすら思わない。ただただ、尊敬しかない(なお、ジャン鶴は既に天に召されており、彼の素晴らしいファイトは過去のVTRを見て楽しんでいただくしかない)。
つまり、「嫉妬する」という心理状態の裏側には「自分もその分野で活躍できる・したい」と思っていて、「そのレベルまでは自分も到達できる・したい」という意欲・モチベーションがあるのだと思う。
つまり、誰かを見て羨ましい、嫉妬したということは、あなたにもその素養があるということだと、ぼくは思っている。
○嫉妬する相手は、誰だって構わない
嫉妬する相手は誰だっていい。というか、嫉妬なんて湧いてきてしまうものなので、「この人に嫉妬しよう」というものではない。自然な心の反応だと思う。でも、だからこそ、自分の本音、本心に近いと思う。
ぼくの場合、長らく村上春樹とか村上龍とか、もう少し若い層で言うと西加奈子とか伊坂幸太郎とかに嫉妬していた。なぜか。「なぜぼくには、彼らのような作品が書けないのか」と思っていたからだ。
いまは方向性が少し変わってきて、そこまで強い嫉妬を覚えるわけではないけれど、にしても、やっぱり面白い小説を読んだりすると「ぬぬぬっ」と心が反応する自分がいて、面白い。
あなたがもしギタリストで、Charを見て嫉妬しているならば、あなたにはCharレベル、あるいはそれ以上のギタリストになれる可能性を秘めている。それだけは断言する。その可能性を開くか、閉じるかはあなた次第だ。どっちを選んだっていい。例えが若干古いけれども。
○「あの人は天才だから」に逃げるな
ただ、「あの人は天才だから」、「ぼくにはあの人ほど才能がないから」という言葉だけは、使ってほしくない。あなたが嫉妬したその人は、確かに天才性を備えていたのかもしれない。でも、ホントのホントに「天才性」だけで、その人はそのレベルまで到達できたのだろうか。あなたは、その人がそれまで積んできた努力やトレーニングの量をどれだけ知っているのか。
それを「あの人は天才だから」の一言で済ませてしまうのは、その人に対して失礼だとぼくは思う。そして、あなた自身に対しても失礼だ。天才性は磨かれてこそ発揮される。あなたは、あなたが嫉妬したその人ほどに、自分自身の天才性を磨いただろうか。
何もしなくても発揮される天才性もある。でも、それは長続きしない。それはサッカーや野球を見ていても、よくわかる。高校時代「天才」ともてはやされた選手たちが、成長し、プロになったときにどうだったか。その天才性をさらに輝かせた小野伸二や田中将大のような選手もいれば、鳴かず飛ばずで引退していく選手だってゴロゴロいる。
もちろん、努力と忍耐がないと成長できないなんてことを言うつもりはない。「努力の量より選択の質」が成果を左右すると、最近、当ブログにちょくちょくご登場いただく世界的な名トレーナー・須田達史氏は言う。ただ、それにしても、天才性を磨く選択をしたか、してないかということにはなる。
ぼくもついつい言ったり、考えたりしてしまう、「あの人だからできるんだよ」。本当にそうか。その言葉を発するとき、心のどこを探しても、「自分にもできるのに」という嫉妬やジェラシーはないか。
そこにもし、嫉妬心があるならば、それを認めて、どうしたいか考えたらいい。そうしたら、その人に近付くためにできることが思い浮かぶはずだ。その人を真似てみる。教えを乞うてみる。敢えて違う分野で勝負してみる。なんだっていい。
見方を変えれば、嫉妬心はチャンスだ。
自分の底知れない可能性に、ワクワクしよう、共に。
※今日のブログはビジネスコーチの川田治さんのメルマガと、ぼくの仲間にインスパイアされて書きました。このお二人に最大級の感謝を送ります。グラッチェアミーゴ(ケーシー高峰風に)。
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自分の好き・嫌いがわかるのは誰か?
自分のことは、自分が一番わからない。
前回、ぼくは上記のように断言した。でも、実は「自分のことは、自分にしかわからない」とも言える。
オイオイオイ、昨日と言ってることが真逆じゃないか、と思うかもしれない。うん。真逆である。でも、これもまた真理なので、仕方がない。
まあまあ、そんなに顔を真っ赤にして怒るもんじゃない。今からおいおい説明する。
〇自分の好き・嫌いをわかる人間がいるか
自分がどういう性格や在り方なのかは、自分ではよくわからない。このことに関しては、全く主張を取り下げるつもりはない。
一方で、「自分が何が好きで、何が嫌いで、どのように生きていきたいのか」については、自分以外にわかる人はこの世の中に誰一人としていない。これもまた、絶対と言っていい。
自分の性格や在り方は、態度や行動に自ずと現れる。だから、他人さまの方がかえってよくわかる。前回も書いたけれど、自分で自分のことを見ようとしても、死角が多すぎて全体像を把握するのは難しい。例えば、あなたは自分の背中を自分の肉眼で、鏡に映さず見られるだろうか。たぶん、ほとんどの人が無理なはずだ。
一方で、自分の好き・嫌いは目に見えるものではない。自分がどう感じるか、だけの世界だ。人にとっては大好きで心地良いモノや空間であっても、他の人にとっては我慢ならないってことだって、多々ある。
ね。自分が何を好み、何を嫌い、どんな志を立て、いかに生き、いかに死ぬか。それは、自分にしか決められない。なぜか。それは、自分のココロの中にしか答えがないからだ。
〇好き・嫌いを手放して生きるのか?
なのに、ぼくらは時折、自分の好き・嫌いを手放して人の評価に委ねてしまうことがある。「こちらのお色が人気ですよ」てなことを言われると、自分が好きか嫌いかではなく、スッとそれを選んでしまうこともある。
「男=黒・青、女=赤・ピンク」なんてのも、実は固定観念だ。男だけどピンクが好きで、ピンク色のズボンを履きこなす人がいたっていい。そんな人をこそぼくはカッコイイと思う。
生き方だって、そうじゃないか。
あなたがいまやっているその仕事や遊び、本当にあなたの喜びですか。心の底から喜びを感じて生きていますか。毎朝目覚めるとき、今日も生きられる、やったねラッキーと心の底から言えますか。
自分が好きなこと、やりたいこと、生きたい生き方を、本当に100%選んでいると、自信をもって言えるだろうか。
うん。これは、ぼく自身にも問うているし、全てにイエスとは言えない。けれど、そういう問いを常に自分に対して立てられるか。そのことが、ぼくは重要じゃないかと思う。
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自分のことは、自分ではわからない
〇敢えて「絶対」と言おう
ぼくは基本的に「絶対」という単語を極力使わないように心掛けているのだけれど、今日だけは使う。いいか、超当たり前だけど、超大切なことを書くぞ。
自分のことは、
自分だけでは絶対にわからない。
これ。何度か当ブログでも書いてきたし、まー、あんまり繰り返してもアレかなとは思いつつも、でもまあ大切なことなので、改めて書いておきたい。
自分のことが自分でわかる、あるいは、自分のことは自分が一番よく知っているなんていうのは、幻想であり、思い上がりであり、勘違いである。
これだけは、絶対の自信を持って言える。なぜならば、ぼくがずーっとそうだったからだ。
〇「自分のことは自分が一番わかる」わけがない合理的な説明
ぼくは、自分のことは自分が良く知っているし、自分のことは全て自分だけで把握できるもんだと思っていた。ところが、他の人と話をしたりするうちに、どうにもこうにも自分が把握している自分と、ひと様から見えている自分にギャップがあることに氣付いた。
極めつけは、友人からコーチングを受けていて、自分を客観視するワークをやったとき、自分では全く考えてもみなかったような自分が出てきて、しかもそれが、他の人からも指摘されていた自分だったりして、びっくりするやら恥ずかしいやら、という想いをした。
自分ひとりで自分のことを100%理解できると思ったら、大間違いである。
例えば、あなたは自分の姿を肉眼で、直接見たことがあるだろうか。多くの人は、鏡に映った自分や、写真に写った自分の姿を見て、自分の外観を確認しているに過ぎない。でもそれは、あくまで鏡に映したり、写真に撮ったものを間接的に見ているだけで、肉眼で直視しているのとは違う。
あるいは。自分の声を録音して聞いたとき、「こんな声じゃない」と思ったことはないだろうか。まさか、こんな声ではないだろうと。でも、他の人にはそう聞こえている。どちらかと言えば、この場合は録音された音の方が現実に近い。
ぼくらが聞いている自分たちの声は、外から入ってくるのもあるけれど、体内で響いているものもあるだろうから、やはり他の人が聞いているのとは響きが違う。
〇自分のことを自分で本当に知るために
つまり、それだけぼくらは自分たちの姿を正しく把握できているわけではないのだ。となれば、自分の性格や在り方や考え方だって、自分一人できちんと把握できていると思う方が理屈的に合わないと思うじゃないか。
なのに、なぜかぼくらは自分で自分の性格や考え方を決定したがる。故に、他の人からは自信満々に見えているのに「自分に自信がないんですぅ」などと言ったりする。言うだけならまだしも、そういう行動を実際に取ったりする。ところが、他人からは自信満々に見えているから、違和感しかない。
で、こういう場合、実像を的確に捉えているのは大抵他者評価の方だったりする。それは、さっきの自分の実像を自分では肉眼で捉えられないのと同じだ。自分で自分を見るには、死角が多すぎる。
いや、いつもいつも他人の評価を氣にしろ、というつもりはない。ただ、自分のことは自分だけではわからないと頭に入れておくこと、そして、信頼できる誰かに自分を見てもらって、他人からはどう見えるのかのフィードバックをしてもらうことは、自分という生命体を把握するのには役立つと思う。
自分のことは、自分が一番わからない。
明日は、この文言に一見矛盾する(けれど、実は整合性が取れる)ことを書いていきたい。
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取りに行くことの大切さ
取りに行くことの大切さ、というのをこのところ感じている。
その「取りに行く」対象は何か、は、色々あるだろう。例えば、セミナーに参加して講師に質問をするだとか、「一人だけセッションしますよ」みたいなときに、真っ先に手を挙げたり。懇親会なんかで、しゃべりたい人、御縁をつなぎたい人に積極的に話にいくなどなど。
ぼくはもともと、引っ込み思案というか、遠慮こそ最大の美徳というか、単にチキン野郎というか、そういうのがものすごく苦手だった。ま、このブログを読んでいる人なら「そうだろうね」と思うだろうけど。
○チキン野郎との決別
で。ぼくの思考回路はこうだ。例えば、セミナーで一人だけ公開セッションをしますよ、みたいなとき。
ぼくよりも、この人と話したい、セッションを受けたい人がいるかもしれない→ぼくが出しゃばるのは良くないから、手を挙げないでおこう みたいな。
でも、この遠慮は誰のためにもなってない。ぼくが手を挙げて、ぼくが当たったということは、向こうさんの責任なわけで、こちらが手を挙げたことに起因するわけではない。
「ぼくよりも求めてる人がいる」というのも、おかしな話で、必要を感じたからぼくもそのセミナーに参加しているわけで、そこに必要性の大小などあり得ない。
要は、ハイっと手を挙げて、当てられたときが怖いのである。質問やろセッションで「オマエ、そんなレベルかよ」と思われるのが怖いのだ。
それはひょっとしたら、ぼくが周りをそう見ていた裏返しかもしれない、と思って戦慄した。そんな自分では居たくない。
○誰のために取りに行くのか
もう一つは「もはやぼく一人の体、脳ではない」と思い始めているところはある。何のために、誰のために学びを得るのか。以前はあからさまに「自分のため」だった。
今はもう、違ってきている。「この学びを、自分がどう吸収して、いかに周りのみんなに還元するか?」を考え始めている。そのためには、一度で得られるものは全て吸収しておきたい。
ならば、湧いた質問はぶつけるし、セッションしてくれるなら受けるし、何かくれるならもらいに行くだろう。なぜならば、ぼくが成長すれば、周りもそうなるから。
ぼくはいま、そんなことを考え始めた。もはや、そのたもろもろ2.0である。今後も進化し続けるそのたもろもろご期待ください。
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楽しいことだけ続けよう
す
もうすぐ4月。新生活をスタートさせたり、新しい仕事を始めたり、それこそ就職して社会人としての第一歩を踏み出す人も多いだろう。それとは関係なく、何か新しいことを始めようと思い立つ人も多いだろう。
1960年代、主にアメリカで活躍し、ヒッピームーブメントを陰でけん引していた言われるウォルフガング・ノンチャコフは、こんな言葉を残している。
「楽しいことだけ続けよう。それですべてうまく行く」
ぼくのブログを読んでくださっている人なら薄々氣付いていると思うけれど、ウォルフガング・ノンチャコフなんて人物はいない(いや、いたかもしれないけれど、ヒッピームーブメントを陰でけん引していたなんて話はない)。ただ、発言については、間違いないとぼくが保証する。
○集中力・持続力を発揮するために実は必要なこと
子どもを見ていると、自分の興味があること、楽しいこと、氣になることなら、大げさでなく何時間でも続けている。あの集中力はすごいもんだと思う。
かくいうぼくも、『けっきょく南極大冒険』というファミコンソフトにどハマりし、三度の飯より飯が好きなぼくが、寝食を忘れて没頭したことを思い出す。しかも、このソフトにはコンティニュー機能がないから、中断の状態で飯を食ったのだけれど、戻ってみたら何かの衝撃で全てパーになっていたという悲しい記憶も鮮明である。
実は大人のぼくらにも、そのくらいの集中力、継続力は備わっているはずなのだ。だって、子どもの頃にあったものが、大人になると失われるなんて、ぼくは思えない。いや、あなたが思いたければそれでも良いけれど、ぼくはそうは考えない。
では、それだけの集中力・継続力を発揮するためにはどうしたら良いのか。
そう。好きなことを選べば良い。真理はいつだってシンプルだ。
○自分の理想に至る方法は、無限にある
例えば、ダイエットしたいとする。体重を落とすためには、摂取するカロリーが消費するカロリーを下回れば痩せていく。そのためには、摂取カロリーを抑えるか、消費カロリーを増やすかの選択肢がある。両方同時にできれば、より効率的に痩せる。
このときに、ぼくらはついつい「ダイエットは辛いもの、大変なもの」と思い込んでしまう。食事制限をしなければならない、運動をしなければならない。
でも、あなたが「ダイエットしたい」と思ったのには、何か理由があるはずだ。痩せたらこうなる、こうしたい。その理想をまず見る。その理想に近付くためのダイエット。ならば、ちょっとやる氣が出るはずだ。
次に考えるべきは、自分が楽しんでやれる方法を探すこと。摂取カロリーを減らすか、消費カロリーを増やすか、はたまた両方か。それを楽しめる工夫を考えてみる。
何が自分にとって楽しいか、氣分が上がるかは、自分にしかわからない。自分の喜びは自分が一番知っているわけで、それは自分でみつけるしかない。Aさんにとっては楽しくて、成功した方法が、Bさんにも同じように楽しいとは限らない。
例えば、フィットネスジムにあるベルトコンベアみたいなやつに乗って走っていると、ニューヨークのヤングエグゼクティブっぽくて、オレカッコイイ!、めっちゃ楽しい!!と思う人は、それをしたらいい。ぼくは、あれに乗って走っていると自分が実験用のラットになったようで嫌だから、やらない。
断食(ファスティング)が自分にすごく合ってる!!という人は、それをしたらいい。ぼくは、三度の飯より飯が好きなので、興味はあるけれど、二の足を踏んでいる。でも、ぼくにはぼくが楽しんで続けられるダイエット方法があるはずなんである。
これは、ダイエットに限った話ではない。はっきり言おう。あなたの理想に近付くための唯一無二の方法、なんてものはない。これさえやれば成功できる!なんて法則は、存在しない。
言い換えると、あなたがあなたの理想に近付くための方法は、無限にある。ただ、あなたが理想に近付くためにするべきことは、いかに楽しく、氣分良く、理想に近付き続けるかだ。
○楽しいことをすることこそ、高みに行ける方法
想像してみてほしい。同じことをしていて、それをするのが楽しくてしょうがない人と、嫌々やっている人。どちらがその分野でより成長し、高いレベルまで到達できそうだろうか。
自分が好きなこと、やっていて楽しいことをするからこそ、嫌々やってる人にはたどり着けない領域、高みまで行ける。ぼくはそう思っている。好きなことなら自然と工夫をするし、研究も怠らない。
新しいことを始めるけど、続かないという人は、続くものだけ続けたらいい。続かないものは、続ける必要がない。ぼくの師匠筋の一人は、そう断言する。ぼくも、この意見に賛成だ。
仕事だろうと、趣味だろうと、心の底から「楽しい!好きだ!」と言えるものを選んだらいい。きっとうまく行く。何か新しいことを始めようという皆さんを、心から応援しています。