(ぼくが)サティシュ・クマールから教わったこと
「幸せの経済世界フォーラム」というイベントに参加してきた。そこで、サティシュ・クマールという活動家の話を聞いてきた。
サテイシュ・クマールについては、下記を読んでもらうのが
手っ取り早い、と思う。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/サティシュ・クマール
彼の話から感じたことはたくさんあって、それこそ彼の話だけでもブログが何本も書けるくらいなんだけど(じゃあ書けよ、というご意見は聞かなかったことにする)、今回は2つシェアしたい。
■手を使うことについて
一つ目。彼は教育において「3つのH」が必要だと述べる。Head、Heart、そしてHandsであると(ちなみに彼は日本人はもう一つのH、Hara(肚)を持っているよね、と言ってくれた。このことはほんとにうれしいし、さすがとおもうけれど、本筋からはズレるのでやめとく)
この中で彼は、最も大切であり、最初に始めるべきは「Hands」、手であるという。何をするのか。自分の手を使って、何かを作ったり、生み出したり、育てたり(場合によっては収穫したり)、加工しよう、という。
僕らの手は奇跡の手であり、多くの人には両手で10本もの指がある。この手を使えば、我々はたくさんのことができる。火を熾し、食事を作り、糸を紡ぎ、植物を育て、家を建てることができる。
スマホをいじるための親指と人差し指しかないわけじゃないんだよ、という言葉もあった。痛烈なジョークだ。
現代社会では、手を使うことを教えない。というか、場合によっては手を使うことを忌避する傾向すら僕は感じる。
火を使うのは危ない、刃物を使うのは危ない、トンカチは危ない。うん。わかってる。だからこそ、大ケガや命に関わることになるまでは見守る、という優しさや、時間と手間の使い方はできないものかな。子育てしたことがない男の理想論だろうか。
■そして、学び続けよう
そしてサティシュ(急に呼び捨て)は、学び続けよう、と説く。様々なことを「出来ない」と見るのはカンタンだ。トライやチャレンジを生まないのだから。
マハトマ・ガンジーは60歳を過ぎてから、糸巻き車の使い方を学び始めた。イギリスの大学を出て、エリートだった彼がだ。何のために?インド独立のためだ。
「糸巻き車でインドを独立させられると思ってるのか?」と聞く人々に、ガンジーはこう答えたらしい。
「当然だ」
当時のインドは綿花をイギリスに出荷し、布に加工されたものを高額で輸入していた。つまり、自分たちが使うものを作る、ということを手放していたわけだ。
ガンジーは、糸巻き車を使い、綿花の加工、紡織を自分たちの手に取り戻そうとした。結果それは功を奏し、インド独立への大きな足がかりになった。
彼は手(あるいは肚も、だろう)を使って、インド独立という大志を果たした。心やアタマが大切じゃないとは決して言わないけれど、手(行動、と言い換えてもいいかもしれない)が伴わないならば、実現しないんだろう(と、これは僕が僕に言っている)。
■自分が発する「音」をマネジメントすること
サティシュから学んだもう一つのことは、話の内容と同じくらい、発する音やエネルギーが、相手に伝わるということ。
サティシュの言葉には、迷いがない。そして、明るい。僕は英語が堪能ではないけれど、彼が発するエネルギーのようなものは、その言葉(というより音、だろうな)で感じられた。
たとえ同じ内容であっても、弱々しく、ボソボソと喋られたら、僕は寝てしまっていたかもしれない。
大きな声を出して威嚇しよう、ということではなく、元気があれば何でもできる、というイノキイズムでもない(多少はあるけど)。
自分がどんな音を発しているかのマネジメント(と、あえて言おう)が、どれほど大切か。それは、自分が今何を感じ、何を考え、何を伝えたいかを自分自身が理解・把握することにつながる、と僕は感じる。
相手に嫌われるんじゃないか、認めてもらえないんじゃないか。そういう思いから言葉(音)を紡ぐのではなく、自分の今を伝えるために言葉(音)を発する。
だからこそ、人に伝わるんだろう。そんなことを教えてもらえた氣がする。
自分の好意が受け取ってもらえなかったときの対処法とか
自分が相手のために、良かれと思ってとった行動が相手から認めてもらえなかったり、受入れられないとき、人はやっぱりへこむし、イラッときたりする。当たり前かもしれないけれど、そのことに氣が付いた。これはホントにもったいないというか、シンドイなあと思う。
続きを読む
「メンタルが落ちた」ときの僕の対処方法とかについて
メンタルが落ちる、とは。
誰も悪くないし、誰も自分に対して悪意を持っているわけでもないし、誰も何も言ってないし、やってないのだけれど、自分ひとりで勝手にメンタルが落ちる、ということがある。
「メンタルが落ちる」という表現があいまいなのはわかっていて、どういう状態なのかをちゃんと説明したいなと思い、ぴったりくる言葉を探している。
「テンションが下がる」というのとは、近いけれど少し違う。
「落ち込む」も近いんだけど、やっぱりちょっとニュアンスが異なる。
「気が滅入る」、「ふさぎ込む」もやや近い。
「元氣がない」、「やる氣が出ない」、「モチベーションが上がらない」も含まれる感じ。
とまあ、そういう感じの、とにかくあまり明るい感じではないネガティブな心理状態のことを、僕は「メンタルが落ちる」と表現している。一般的な表現ではないだろうと思うので、敢えてグダグダと述べさせていただいた。
「メンタルが落ちる」ときのきっかけ
このところ(ここ1~2年くらいか)、僕はメンタルが落ちることなく過ごしてきた。割と仕事は忙しくもなく、ちょうどいいくらいに充実していたし、プライベートも楽しく過ごしていた。
今年4月に離婚することになり、元奥さんとは「家族 兼 同志 兼 ルームメイト」のような関係になった。そのこと自体は決して悪いことではないし、僕としてはとても良かったと思っている。だから、離婚した後も別に影響があるわけでもなかった(と思う)。
ところがどっこい土井善晴(←流行らせにかかってる)、最近、突如としてメンタルが落ちた。理由は大体把握しているし、きっかけも何となくわかっている。そのことについては、あまりにも個人的であり、かつあまりにも情けないことなので、ココでは伏せさせていただきたい。ただ、全くもって深刻ではないし、全くもって大変なことでもない。
むしろ「お前はそんなことでメンタル落ちるんか」と、自分でも思ったくらいにどーでもいいことだ。
ただ、今回で氣が付いたのは、理由は1つではなく複合的なもので、色々な要因が積み重なったり、心理的な影響だけではなくて身体的なものも大きく左右するんだなということがわかった。
今回で言うと、「なんか疲れている」と感じ始めたのが最初のきっかけだった。ふむ。疲れているということは「頑張っちゃってる」ということかもしれない、と僕が敬愛する人からのコメントもあり、なるほどそうかもね、と思っていたら、急速にメンタルが落ちていったわけだ。
メンタルやられる時の「3つの傾向」
多くの人がそうかどうかはわからないけれど、僕のメンタルが落ちるときには大きく3つくらいの傾向があることに氣が付いた。
1つ目に「頑張っちゃっている」とき。これはもう、結構てきめんに来る。本人的には、頑張ってる意識は全くないのだけれど、どこかで「頑張り」が顔を出していることがある。頑張ると、たいてい体力的にしんどくなってくる。
体力的にしんどくなってくると、次にちょっとしたことでメンタルが落ちる。氣をつけたいのは、ここで対策を誤ると、らせん状にメンタルが落ち続けることがある点である。まあ、氣をつけたいのは僕なんだけれども。
2つ目に、「人のお役に立っていないなと感じるとき」。頑張っちゃっていても、まだ誰かの役に立っている、という実感が得られれば、メンタルが落ちなくて済む。ところが、この「人のお役に立っているのか?」という疑問が生じてしまうと、結構キツイ。「何の価値もない自分」というところに行ってしまう。別に価値なんてなくても良いし、裏を返せば、存在するだけで価値のある人間だというのに。
3つ目が、これは2つ目とも近いのだけれど、仲間との連帯感や繋がり感が感じられない時。本来、繋がっていないなんてことはなくて、仲間とは何らかの形で繋がっているはずなんだけれど、それを(自分自身で)感じる力が薄れるときがある。
この3つが揃うと、まさに三役揃い踏みみたいなもん、あるいはロイヤルストレートフラッシュのようなもんで、僕のメンタルはがっくり落ちる。というか、久々に落ちた。ちなみに、今回のメンタル落ちも見事にこの3つに当てはまっている。今なら笑える。
まあ、落ちたなー、と思ったところで、「あ、これ、ブログのネタにしたろ」と考えている分、小ズルくなったというか、悪知恵が働くようになったというか、なんだけども。
メンタルが落ちた時の対処法とかとか(自己流)
僕の場合、最初はメンタルが落ちても実はあまり氣が付かない。やる氣が減退したり、なんかダルいとか、かったるいとか、そういう感情が湧いたりする。ああ、疲れてるからね、と早めに寝てみたりするのだが、それが功を奏することは極めて少ない。
でまあ、ある時に「おや、僕はメンタルが落ちているようだ」と氣が付く。実は、この「氣付く」こと、そしてそれを自分で認めることが、解決の第一歩だったりする。
メンタルが落ちているときに「そんなことない!僕は元氣!」とやってみたり、「明るく楽しくハッピーハッピー!!!」なんてなことを考える必要はない。あくまでも個人的な実感だけれど、むしろ、やめた方が良い。
それをやってると、それこそ「頑張っちゃってる」状態に拍車がかかり、さらにドツボにはまったりする。メンタルコロコロメンタコロ、ドツボにはまってさあ大変、である。
あくまでも僕の場合だが、メンタルが落ちたときは、「なるほど」と、自分を受け止める必要がある。メンタルが落ちているのだね、と。
その上で、僕の場合は基本「何もしない」。特別なことは特にしない。アロマを焚いたり、たき火をしたり、豚の丸焼きを焼いたり、半裸で大声を出してメンタルを上げる人もいるんだろうけども(うん、途中からだいぶん近所迷惑だ)、僕はあまりそういう積極的なアプローチは採らない。
しいて言うならば、休む。能動的なアクションを極力減らす。代わりに、自分が「アレやりたい、コレやりたい」と思ったことにはできるだけ飛びつく。自分の「楽しそう!楽しい!」を優先する感じだ。
ただし、それは「ふむふむ、今、僕のメンタルは落ちてるね」という実感を伴ってから行いたい。そうでないと、「楽しんでる!!自分!!!イエス!!!!」みたいに、結局「頑張っちゃってる」状態になりやすいから。あくまで僕は、だけれども。
「センサーを研ぎ澄ませること」にフォーカス
たいてい、メンタルが落ちるときは「頑張ってる」のに「人の役に立っておらず(あるいは、認めてもらえないと勝手に感じ)」、「仲間との連帯感を感じられなくなってしまい」、イヤになっちゃうんである。あくまでも、僕の場合は。
「だからこそ頑張らなくても楽しい状態」だったり、「頑張らなくても流れに乗れる状態」に自分を持っていくことに力を注ぐ。そういう意味では、自分では何もしない。何か、自分にとって「良さげなもの、こと」が来るのを待つ感じだ。
そして、そのセンサーだけ研ぎ澄ませておけば、たいていの場合、何かしら自分にとって「良きこと、良きもの」はやってくる。というか、メンタルが落ちる(落ちている)ときというのは、そのアンテナというかセンサーが鈍っていることが多い。
生きていて「ロクでもないこと」ばかりが立て続けに起こる人なんて、そう多くはない。一見「ロクでもないこと」に見えても、見方を変えれば「結構ラッキー」ということだってある。
今回のは、自分的には意外なくらい唐突に来て、意外なくらい長く続いた。と言っても、2~3日のことなのだけれど、通常ほとんど引きずらない僕としては、これでも長い方だったのだ。
だからこそ、学んだこともある。だからこうして、ブログをしたためている。なんかこう、ちょっとしたことで落ち込んだり、楽しくなくなったり、なんかめんどくせーなと感じてしまったときは、思い出してみてもらえたらうれしい。
そして、これからの僕自身にも敢えて言いたい。「メンタルが落ちることだってあるよ、人間なんだから」。
僕らは常に試され続けているのかもしれない、ということについて
僕らは常に「試されている」のかもしれないと思うことがあった。
最近の僕は、出来るだけ自分が理想とする生き方を目指しているし、それに向けて努力をしているつもりでもある。でもやっぱり、時々自分の理想ではないことが起きてしまう。まあ、そういうこともある。
続きを読む
素直に生きることと、自力と他力の話(なってるかなってないかは別としてパート2)
東南アジアかと見せかけて、茅ケ崎で食べたラクサ
https://www.facebook.com/itadakimasushokudou/
さて。かつての僕の人生における基本姿勢を箇条書きにすると、下記のようになると思う。
・「斜に構える」
・「疑ってかかる」
・「自力で何とかする」
・「傷つきたくない」
・「失敗したくない」
エトセトラ、エトセトラ。
なぜこうなったかと言うと、正直よくわからない(笑)。ただ、自分はタダモノではない、ナニモノかだという根拠のない(そして、中二病っぽい)思い込みに囚われていたんだと思う。
今にして思えば、「タダモノではない、ナニモノか」であることは間違いないのだけれど、それを自分の中だけで育て、世に放とうとしていたのかなぁ、とは思う。
続きを読む