流れる、流されると「我」の話
どうも。あなたの想いを文章にして遺す、ライターの「あべのぶお」です。
〇流れよう、流されよう
B'zの『ZERO』という曲がある。以前にも歌詞を引用したような記憶があるけれど、書いてる本人が覚えてないのだから、読んでる側はきっと覚えてないはずだ、という勝手な論理で再度歌詞を引用する。
流れよう、流されよう、
この波に揺らされ
ゼロがいい、ゼロになろうもう一回
いかがだろうか。
・・・いかがだろうか、と突然問われても、たぶん読んでる皆さんはポカーンに違いない。
ぼくも読み手だったとしたら、ポカーンとするしかないだろうと思う。
ただ、いまのぼくの心境が、こんな感じなのである。
「流れる」もしくは「流される」ということは、自分の意志や意図と違う流れだとしてもその流れに乗っかっていこう、というある意味のあきらめと決意を含んだフレーズである、とぼくは思っている。
流されまいと踏ん張るのではなく、何も考えずに流れていくのでもなく、流れのままに進んでいこう、進んでいくしかないんだよね、という、ある種の決意。
そこから「ゼロがいい」、「ゼロになろう」と稲葉氏は高らかに歌いあげる。うむ。そう、ゼロになろう。そう、「もう一回」だ。
※ほんでもって、この曲は大変カッコイイ(特にイントロ)ので、時間のある時にでもYoutubeをご覧いただくのをおススメする。なにしろ、稲葉氏の安定の短パン姿が拝める。
〇あきらめとは違う「何か」
ぼくは「宿命」とか「運命」という言葉が持つ、ある種諦念というか、「もう決まっちゃってるんだもんね」的、どうしようもないよね感があまり好きではない。
自分の人生、どうとでもどうにかできるはずだし、どうにかしてこそ今世、人間として生まれてきた意味があるんじゃないかと思っている方である。
ただ、「流れ」とか、命がどう運ばれるのか、という意味での「運命」ってのはあるんだろうな、と思っている。
自分がどれほど切実に望んだとしてもそうならないことだったり、自分の希望通りに進まないことってのは、世の中には山ほどある。
でも、実際にはそれすらも、本当は自分が望んでいることだったりする、ということもわかっている。
ぼくらは、表層意識(顕在意識と言ってもいい)では「うどんは食べたくないんだよな」と思っているのに、なぜか丸亀製麺に入ってしまい、「こんなはずじゃなかった」と言いながら釜玉うどんをすすることが良くある。
でも、丸亀製麺に足が向いているということは、ぼくらは心のどこかでそれを望んでいた、ということもあるのかもしれない。
あるいは、「うどんを食べたくない」という気持ちがどれほど強いかを確かめるために起きていること、という可能性もある。
ただ、多くの人が「一緒にうどんを食べようよ」と言ってくれているのに「いや、ぼくはどうしてもステーキが食べたい」と我を張るのは、ぼくは違うような氣がする。
それに、「うどんを食べるのが一番いいと思うんだけどな」と言ってくれる言葉に耳を傾けないほど、頑なでありたいわけでもない。
わかりやすく例えようと思ったのに、かえってわかりにくくなってしまった。どうしてこうなった。
〇小さな我を捨てて、流されよう
とにかく。「自分がこうしたい」という希望はもちろん貴いし、尊重すべきことだと思う。
その一方で、自分のお役割や果たすべき仕事に関して言えば、自分のやりたいことはもちろん大切だけれど、それ以上に与えられたお役割を全うするというのも、人間として生まれてきた意味なんじゃないかと思う。
だから、ぼくは「流れよう、流されよう」と思っている。
自分の想いはもちろん、きちんと胸に刻みつつも、流れに逆らわず、流されていく。それは、決して自分の意志がないということではなくて、「意志を持って流される」ということ。
人の意見を鵜呑みにするのではなく、自分を客観的に見て、この人間をどう使えば、社会や周りの人々や、家族や世界や地球のためになるのか?を考える。
そのためには、自分の小さな我は捨てる。そういう人でありたいとぼくは思っている。
簡単なことではないことも、十分わかっている。
でも、それがないと、今世生きている意味がない、とも感じている。
ゼロがいい、ゼロになろう。
そう、もう一回。
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