終わりの始まりと始まりと
今回は、ごくごく個人的かつ抽象度の高いブログになることを、あらかじめお詫びしたい。
ごめんちゃい。
終わりの始まり
すべての物事は、始まった時点から終わりに向かって一直線に進んでいく。
たとえ、それが永遠に続くように感じたとしても、いつか来る終わりに向かって進む。
そしてそれは、決して悲しいことではなく、自然なことなんだと、まずは書く。
別れを伴わない出会いはないし、壊れないものはない。生まれ変わりを信じたとしても、死なない生物はこの世にはない。
良いも悪いもなく、そういうもんだとぼくは思っている。
ぼくはこの数日間で、その終わりを改めて感じることができた。
そのことを、ぼくは祝福する。
そしてそれは、言い換えると「終わり」が始まった、とも言える。
そして始まり
ぼくは長いこと、何か自分が手に入れたいもの、得たいものが得られなかったとき、意固地になってきたのだなとわかった。
そこから極端に離れてみたり、そこにこだわってみたり、そのことを意図的に見ないようにしてみたりしてきた。
それによって、得られたもの、こともたくさんある。そうでなければ今のぼくはないわけで、そのことに関しては本当に感謝している。
イエス。それは、今までのぼくには必要なことだったのだ。
でも、それが終わりを迎え始めている。完全に終わった、とは、まだ言えない。ただ、終わりが始まったことだけは間違いない。
次へ
ぼくが意固地になってきたものは、すべからく、ぼくにとって大切なものだったし、大切にしたいものだった。
でももう、意固地になるのは笑顔で手放そう。ぼくはぼくの新しい役割、新しい生き方のために、始まりをこそ始める。
今はまだ、ぎこちない笑顔かもしれない。作り笑いかもしれない。
でも、笑う。
それでこそ、ぼくはぼくの新しい始まりを始めることができるはずだから、だ。
本当は、すでに、もうとっくの昔に終わっていたことを、改めて終わらせる。そして、次へ進む。
ぼくのもとに届いているメッセージは、「次へ」だ。
次のステップへ。次のフェーズへ。敢えて言うなら、次の次元へ。次の自分へ。
さよなら、君の声を抱いて歩いていく
スピッツの「楓」のワンフレーズだ。
ここで言う「君」とは、ぼくの場合、恐らくは過去の自分自身なんだろう。
さよならが言えることを、今日は祝福しよう。
きっと、もう二度と会うことのない君へ。
ありがとうね。
さよなら。
こんな訳のわからんブログでも、どこかの誰かのお役に立てたら、と思ってます。
意固地になってもいい。
握りしめてもいい。
今は、それでいい。
いつかは笑顔でありがとう、さよならと言える日が必ず来るからね。