「感謝」についてややこしく考えた


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だいぶ前に『やり抜く力 GRIT(グリット)』という本を読んだ。そこに「自己制御の1つのカギは『感謝の心』である」てな内容があった。

 

著者によれば、自分が「何を持っているか」にフォーカスすると前向きな氣持ちになり、性急な判断をしないようになる、という。


他にも、感謝しよう、という話を聞いたり、本を見かけることは良くある。うん。言いたいことはめっちゃわかる。ただ、ぼくは「感謝しよう」という表現がどうしてもしっくりこない。


いや、しっくりくる人はしっくりきたままで、まったく構わない。ただ、ぼくには違和感があるだけだ。


じゃあ、ぼくは万物に感謝の気持ちがなく、傍若無人な人間なのかと言われたら、まあ、ひょっとしたらそうかもしれない(笑)。

 

でも自分の感覚としては万物に感謝しているし、両親に感謝しているし、ご先祖様、恩人、仲間、ご縁、はたまたぼくの血肉になってくれる動物や植物のすべてに感謝している。


それは「感謝しよう」というよりも「自然に感謝が湧いてくる」感覚に近い。万物に感謝しよう、感謝の心を培おうと思ってそうなったものではない。


○ぼくと感謝と箱根の山

ぼくは箱根(塔ノ沢)の山と古民家を使って、村(エコビレッジ)を作ろうというプロジェクトに参画している(詳細はこちら)。


「ハコネエコビレッジ」と名付けられたこの場所は、都心から2時間もあれば到着できる。だが、ものすごく不便な場所にある。駅からは近いけれど、山道を15分くらいエンヤコラと登らないと着かない。クルマは入れない、エレベーターもエスカレーターもない。

 

だから、ハコネエコビレッジに足を運ぶには、老若男女、偉い人もそうでない人も、自分の足で登るしかない。まあ、おんぶしてもらう、はありかもしれないけれど。


そうして着いた場所には、まずガスがない。だから、お湯を沸かそうと思ったら、薪や小枝を燃やして、火を熾すしかない。

 

一応電気はあるけれど、母屋周辺にしか明かりはないから、夜になればとっぷりと日が暮れる(星がとてもきれいだ)。


幸い水は近くの沢から引いてきているから、蛇口をひねれば出る途中で管が詰まったりすれば、水の出が悪くなったり、止まったりもする。

 

言い換えると、以前住んでいた方がこの仕組みを作ってくれていなかったら、沢から水をエンヤコラと運んでくるしかなかった。トイレは汲み取りが1つ、半野外の掘立小屋(縄文式トイレ)が1つ。水洗トイレはない。


お風呂に入りたければ、風呂桶に水を溜めて、火を熾して沸かすことになる。ただ、お湯が沸くのに早くても1時間はかかる。その間、火が途切れないように世話をし続ける必要がある。

 

あるいは、下山して温泉に行くという手もあるけれど、行き帰りは当然山道を下って上ることになる。


食べ物は、自分たちで作った野菜を食べるか、材料を持ち込んで調理するしかない。そう、ここではお金というものが何の役にも立たない。お金を使って買えるものはないし、裏を返せばお金がなくても成立してしまう。


うん。ドヤ顔をしたくなるほど不便である。でも、ぼくはこの環境に身を置くことで、万物への感謝があふれたのだ。


○氣付けば、ぼくらの周りには感謝しかない

ハコネエコビレッジにいると、都会の生活がいかに「快適」であるかに氣付く。どこに行ってもトイレは水洗だし、何なら自動でフタが開く。蛇口をひねれば水が出るし、お湯が出るところも多い。


移動するなら車もあるし、エレベーターやエスカレーターもある。コンロのスイッチを押せばすぐ火が点く。灰やススで洋服が真っ黒になったり、焦げ臭く(考えようによっては香ばしく)なることもない。

 

お風呂で言えば、ボタンを押せば勝手に風呂桶に水を溜め、沸かし、「お風呂が沸きました」と教えてくれたりもする。


でも、これらの仕組みや装置を、ぼくは何一つ生み出していない。全て先人たちが「こういう方が便利だろう」、「こうした方が快適だろう」と考えて、作ってくれたものだ。


社会システムもそう。ぼくらがお金を払えば何でも手に入れられるのは、先人たちがそういうシステムを整えてきたからだ。現状は矛盾や歪みが生じていると感じる点も多いけれど、便利っちゃあ便利だ。


食べ物だってそうだ。ハコネエコビレッジにいると、あるいは植物を育ててみると、植物も立派に生きていることを実感する。彼らだって、水がなければ死ぬし、根から切り離されれば死ぬ。動物たちは言うに及ばず。全て生きている。そういう生きとし生けるものたちの犠牲の上に、ぼくらの命は支えられている。


だからこそ、ぼくらにできることは感謝してその命をいただいて、ぼくらの命を最大限に燃やし、輝かせ続けることだと思っている。それこそが、命を捧げてぼくの血肉になってくれた者たちへの最大の供養だと思っている。


○「溢れ出るもの」を実感する

何の話だっけ(笑)。そうそう。感謝の話だった。正直に言って、ハコネエコビレッジに関わるまでのぼくは、感謝とか良くわからんちんだったと思う。人に何かをしてもらえば、そりゃそれなりに「ありがとう」とは思うけれど、「ぼく、生きてる!ありがとう!」という感覚はなかったと思う。


ただ、これも人から言われて「感謝すると良いんですね!」みたいな感覚だったら、(ぼくの場合は)たぶんすぐ飽きたりして、その氣持ちは薄れてたと思う。それが薄れるどころか、日々強くなっている感じすらするのは、ぼくの中で実体験としての「感謝」が生まれたからだろう。


これは、「愛」も一緒かもしれない。人を愛しなさいと言われて愛するのと、愛が溢れ出てしまうのとでは、自ずと量も深みも違ってくる。もちろん、スタートは言われて始めるのだっていい。特に感謝してなくても「ありがとう」を唱え続けるのだって、もちろん素晴らしい。


でも、もし可能なら、一度むちゃくちゃ不便、過酷な環境に身を置いてみると良い。特に、あなたが今恵まれた環境にあるならば。ぼくらがどれだけ恵まれた環境に身を置いているかがわかるはずだ。そうでなくても、自分が生きてる、生存しているということが、どれほど奇跡的なことなのかが体感できると思う。


そういう意味では、ハコネエコビレッジに1~2泊してみるのは超おススメ。良かったら、連絡ください。

 

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