僕らもいつかは「巡礼」に出るんだろう

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 小説の書評、しかも数年前に出たベストセラーの書評にいかほどの意味があるかと言えば、まあ、ほぼないかもしれない。でも書く。構わず書く。

 

正直言って、書評というよりは「書評の形を借りた別の何か」なんだけれども。

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)
 

 

僕は最初にこのタイトルを見たとき、「ずいぶん面倒くさいタイトルを付けたな」と思った。長ったらしいし、何というか、カッコつけてる感もある。

 

僕は村上春樹の作品は好きで、ほぼ(最近の作品は除いて)読んでいる。だから、彼の作品のタイトルの奇抜さには慣れてるつもりだけれども。

 

ちなみに、個人的に好きな作品は長編なら「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」、短編集なら「パン屋再襲撃」。「1Q84」も良かったなー。ちなみに、今年「多崎つくる~」を読んでることからお察しの通り、最新作の「騎士団長殺し」はまだ読んでない。

 

で、読後感としては「このタイトルしかなかったな」という感じ(笑)。まさに「色彩を持たない多崎つくる氏」が「巡礼をする」お話だよね、簡単に言えば。まあ、加えて言えばリストの「巡礼の年」という楽曲が、主要なモチーフにはなってるんだけど。

 

失ったものと、どう折り合いをつけるか

村上春樹さんの作品は、たいてい「失ったものをどう取り戻すか、あるいは、どう折り合いをつけるか」がテーマになる(と、僕は読んでいる)。

 

この作品もご多分に漏れず、そういうテーマ。失ったものと折り合いをつけるための「巡礼」がクライマックスになる。

 

僕らは生まれたときから色々なものを得て、同じくらい失って生きている。生まれてこの方、何も得たことがない(あるいは、失ったことがない)人は、たぶんいないと思う。失うのが怖いからと言って、何かを得ることを拒絶することはできないし、たぶんそれはそれで、とても苦しい。

 

で、我々は失ったものを振り返ってみたり、忘れてみたり、思い出として大切に取っておいたり、敢えて捨ててみたりして、折り合いをつける。でないと、次に進めないから。

 

多崎つくる氏は、大学時代にとても大切なモノを失ってしまったが故に、その折り合いをうまくつけられずに大人になった。んで、新しいステージに進むことを目指したとき、その決着をつけることを余儀なくされ(あるいは自ら選び)、「巡礼」に出た。

 

我々も、いつかはどこかで巡礼に出るんだろう

この歳(今年で41歳)になると、僕も色々なものを得てきたし、色々なものを同じように失ってきた。その度に、上手に折り合いをつけてきたつもりではいるけれど、自分でも氣が付かないところで、折り合いをつけそこなって来てしまったことがあるかもしれない。

 

多崎つくる氏もまさにそうで、表面上はうまく過去と折り合いをつけて生きているように見えるけれど、実はそうではない。作品の中で、彼はまさに「そこ」と決着をつけない限り、次には進めない状態になる。そして、巡礼に出た彼は、新たな何かを手に入れることができたのか。そこは、作品を読んでいただきたい。

 

彼にとって、巡礼に出ることが本当に幸せだったかどうか、楽しいことだったかどうかはわからない。でも、彼はそうする必要があったのだと思う。

 

そして、その時は我々にも同じようにやってくるんだろう、と思う。僕もそろそろ、巡礼の年を迎えたようだ。さて。重い腰を上げて、出掛けるとしようかね。