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言葉の限界を感じつつ、言葉の可能性も信じているという話


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タイトル長い(自己完結)。

 

「言葉は便利だが、万能ではない」という話はありきたりで、タコに耳が出来るほど聞いてるとは思います。でも、私も言いたい。

 

言葉は便利だけど、万能ではない。

 

というのも。自分の心の中のぐるぐるしたものやワサワサする感じを、言葉にしようとしても出来ない、ということを痛感しているからです。

 

というか、「ぐるぐるしたもの」や「ワサワサする感じ」は、感情とはイコールではないけれど、それを言葉にするならば「感情」というより他にない。感情とは少し違う何かだとは思いながらも、伝わる単語を選ぶと、結局「感情」と呼ぶことになる。言葉にする以上、ニアリーイコールのものを使わざるを得ない。

 

もう、限界を迎えているわけです。

 

■思春期男子の日記のようなブログ

それを横に置いておいたとしても、自分が感じる「ぐるぐる」や「ワサワサ」を、人に伝えようにも伝えられない。

 

特に何かあったわけではないのですが、日々「あれ?これはほんとに『嬉しい』、『楽しい』で良いのかな?」と思うことが最近多くて。

 

「喜び」「悲しみ」「怒り」「淋しさ」「混乱」「楽しさ」「感動」などなど、心の有り様を表現する言葉を並べてみても、しっくりくる言葉はないし、それを文章で伝えようにも、手がかりがない。

 

あー。こういうところから芸術は生まれるのかなとも思ったりします。というか、そんな話を、友人の芸術家と話しましたね、つい最近。絵画や彫刻や、とにかく言語化を必要としない芸術ならば、その「何か」を余すところなく表現できるかもしれない。

 

書いていて、思春期の男の子の日記みたいだな、と思っています。40歳にもなって、そんなことをグダグダ書いて(しかもブログに上げようとして)いる自分に軽く嫌悪感も覚えなくもないのですが、続けます。そんな自分は嫌いではないです。そんな自分が好きだ!と、声を大にしては言えないのですが。

 

ともかく。言語を通じて表現をしようとし続けてきた(しかも、今のところ、自分が思っていたほどの成果は出ていない)自分としては、またもや無力感を味わうわけです

 

■それでも、信じてる

それでも、私としては言葉の力を信じているところがあります。

 

「自分の言葉は、誰が一番聞いているのか?」という話を、最近立て続けに違う人から聞いたり、本で読んだりする機会がありました。


答えはお察しの通り、「自分の言葉は、自分が一番聞いている」。

つまり、自分がどんな言葉を使うかが、自分自身に影響を大きく与える、ということだそうなんです。

個人的には確かに、イヤな言葉や、愚痴や、文句ばっかり言ってるとき、気分爽快になることは少ない。それよりかは、ハッピーな言葉や、前向きな言葉を発しているときの方が、自分の精神衛生上良い気がする。

いや、この辺の境地に至ったのはここ1年くらいの間でして。以前は、自分にも他人にも厳しくすること、安易にホメたり、甘やかしたりするのは堕落への道だと信じていたんですよ。割と真剣に。

でも、いやー、これ違うなと。いくら厳しい言葉を発して自分を鼓舞しても、奮い立たないものは奮い立たないし、できないことはできない。もっと言えば、やりたくないことは、どんなに自分に厳しくしても、はかどらない。となれば、自分にできること、自分がやりたいことにトライして、上手くいっても失敗しても「楽しい~」と言ってる方が、プラスになるんじゃないかと思ったのです。

それがたとえ、ちょっと自分が感じてるものとズレた表現であったり、多少誇大に良い方へ振った言葉であっても、それはそれで良いんじゃないのと。

■そして行き着く先は、皆様ありがとう

無理くりポジティブになる必要はないと思いますが、無理に厳しい言葉を使って、自分を縛り付けて、鍛えようとしなくても良いんじゃないの?と思うようになったのです。

楽しければ、他人が見たら「なんでそんなことするの?できるの?」と思うようなことでも「だって、楽しいんだもん」と思って、それを口にすれば、ポップにライトにこなせちゃうのではないか。そんな風に考えています。

このブログなんかもまさにそうで。自分が感じたことや考えたことを言葉(文章ですけど)にすることで、自分に言い聞かせてる部分は多々あって。それを人様に見てもらって、共感してもらったり、応援してもらったりする。私にとっては、本当にありがたいツールなのです。

ですから、私は言葉の限界も感じつつ、可能性も信じてる。今はそんなところに立ってるみたいです。