いるか、いらないかの向こう側

 

本来は捨てられてしまうようなものに、再度価値を吹き込むというか、再利用するというのがどうやら好きらしい、とわかった。

 

例えば、ぼくが今使っている名刺入れは、米袋と畳のヘリで作られたものだし、ぼくが愛用しているビジネスリュックは、廃タイヤと帆布で作られている。いわばリサイクル品とでもいうべきか。

 

ぬかどこもそうだろう(どれだけハマっているのかは、お察しください)。本来ならば捨てられてしまうはずのぬかを使って、お漬物を作ってしまう(しかも、何年にもわたって使い続けられる)。この知恵はまじですごいなと思っている。

 

これはただの貧乏性だと思われてもいいのだが、ぼくは骨付きの鶏肉を食べた後、その骨でスープを取ったりする。いわば鶏がらみたいなもんである。騙されたと思って、一度やってみるといい。とてもいいスープが取れる。実はケンタッキーフライドチキンの骨でもいける。

 

何事に関しても、何物に関しても、無駄なく、捨てるところなく使い切りたいという希望がある。せっかくこちらの都合で収穫したものは、出来るだけ捨てるところなく使う。それが循環というものじゃないか、と思う。

 

そのためには、知恵や知識や手間や工夫が必要になる。ぬかはそのままでは食えないし、米袋と畳のヘリも、廃タイヤと帆布も、作ってくれる人がいないと、使えるものにならない。むろん、それを自分でやってもいい。

 

あるいは、効率の問題もあるのかもしれない。効率よく物事を進めるためには、無駄なく使い切るなんていうことにエネルギーを割かない方が良いのかもしれない。余裕がないと、リサイクルなんてできなくて、大量生産、大量消費の方が、効率やコスパは良いのかもしれない。

 

でも、ぼくはその考え方を断固否定したい。人間は知恵と手間と工夫、あとは余裕を持って、色々なことにトライすることが必要なんじゃないか、とぼくは言いたい。

 

「いるもの」と「いらないもの」、「使えるもの」と「使えないもの」を分けて、分類して、「いるもの」、「使えるもの」だけを残す。そして、「いらないもの」、「使えないもの」は切り捨てていく。そう。確かに、そうでもしないと部屋の中に物が溢れかえってしまう、というのは容易に想像がつく。だから「断捨離」といった言葉がはやるんだろうと思う。

 

それはそれで構わない。それが良いと思う人は、それで生きていくのが良い。でも、ぼくは「いらないものは全て捨ててしまえばいい」という考え方とは、相容れない。捨てたものはどこへ行くのか。この世から抹消されるわけではない。ゴミとして廃棄されるか、何かの形に変わるしかない。ということは、ゴミとして処分されるだけのエネルギーがかかっているわけだ。

 

あなたにとって「いらないもの」も誰かにとっては「いるもの」かもしれないし、いまは「使えないもの」も、工夫すれば「使えるもの」になるかもしれない。そんな知恵を出さないまま「とにかく捨てる!」という発想は、ぼくはウームと思ってしまう。

 

いらないものは捨ててしまう。ここには、何の知恵も工夫も革新もない、とぼくは思っている。いらないものの命をどう全うさせるか。なんか、そういうことを考える癖をつけたい。

 

何かに対して「適・不適」だけで判断する社会は窮屈だ。「どうしたら、そのものが生きるか、生かせるか」を考える世の中にしたいとぼくは思っている。

 

もちろん、それはモノに限った話ではない。むしろ人に関しても、そう思っている。

 

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